忘れていく人を、ひとりにしない
店の扉が**カラン!**と乱暴に鳴った。
転がり込むように入ってきたのは、
息を切らした女性。髪も服も少し乱れていて、
目だけが切羽詰まっている。
「助けてくださいッ」
俺は顔を上げて、即答する。
「内容による」
女性は一瞬だけ言葉に詰まり、
それから、震える声で吐き出した。
「……母が……痴呆はじめたんです……」
「漫才?」
反射だった。
ほんとに反射。
「だったらよかったんですけど……」
声が、落ちた。
その瞬間、
クリムの「きゅ……」が小さくなり、
ルゥは尻尾を下げて、女性の足元に静かに座った。
……あ、これは、
軽く扱っちゃいけないやつだ。
俺は椅子を引いて、女性に座るよう顎で示す。
「……悪い。
ちゃんと聞く。座れ」
女性は礼を言う余裕もなく、
椅子に沈み込んだ。
⸻
「最近、同じ話を何度もして……
鍵を閉めたか忘れて……
私のことも、たまに……」
言葉が続かない。
喉の奥で引っかかってる。
「……怖いんですよ」
「うん」
「怒っちゃいけないって分かってるのに……
でも、同じ質問を何回もされると……」
拳が、ぎゅっと握られる。
「……私が、先に壊れそうで……」
クリムが、そっと彼女の膝に前足を乗せた。
「きゅ」
“ここにいる”って言うみたいに。
ルゥも、ぴたりと寄り添う。
俺は棚に目を向けたまま、静かに言う。
「まず言っとく。
忘れる人を元に戻すポーションは作らない」
女性の肩がびくっと揺れる。
「……やっぱり……」
「でもな」
俺は振り返った。
「“忘れていく人を支える側が、壊れないようにする”
それなら、できる」
女性の目が、わずかに上がる。
⸻
「痴呆ってのはな、
“愛情が消える”病気じゃねぇ」
俺は言葉を選びながら続ける。
「記憶の道が、少しずつ崩れてくだけだ。
だから同じ場所に迷い戻る。
同じ質問をする。
悪意じゃない」
女性は、ぽろっと涙を落とした。
「……分かってるんです……
頭では……」
「頭で分かってりゃ十分だ。
心が追いつかないだけだ」
俺は小瓶を二つ、カウンターに置いた。
⸻
一つ目。
「これは、心の摩耗を抑えるやつだ。
怒りや自己嫌悪が、爆発する一歩手前で
“踏みとどまれる余白”を作る」
女性は瓶を見つめ、そっと触れる。
「……怒らないため、じゃなくて……」
「怒ってしまった自分を、責めすぎないためだ」
クリム「きゅ(大事)」
ルゥ「わふ……(ほんとに)」
⸻
二つ目。
「こっちは、一緒にいる時間を穏やかに保つ香だ。
相手を変えるんじゃない。
“場の空気”を整えるだけ」
「母に、飲ませなくていいんですか……?」
「いい。
飲ませると“してあげてる感”が重くなる。
あんたが楽になるほうが先だ」
女性は、しばらく黙ってから、小さく笑った。
「……ずっと、“娘としてちゃんとしなきゃ”って……
思ってました」
「娘はな、
“ちゃんと”じゃなくて“生きてる”で十分だ」
⸻
女性は深く息を吸って、
ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「……忘れられても……
私が覚えてれば、いいんですよね」
「ああ。
記憶は片方が持ってりゃ、関係は残る」
クリムが「きゅ」と鳴き、
ルゥが彼女の足に頭を預けた。
女性は二匹を撫でながら、
静かに泣いた。
⸻
帰り際、彼女は振り返る。
「……“治らない”って言われるのが、
一番怖かったです」
「治らなくても、
“ひとりじゃない”って状態にはできる」
扉が閉まる。
俺はしばらく、動けずにいた。
「……漫才って言って悪かったな」
クリム「きゅ(でも必要だった)」
ルゥ「わふ……(ちゃんと向き合った)」
……ああ。
こういう日もある。




