第66話 それ
(そろそろ帰るか……。)
そう思って振り返った、その時だった。
視界がぐわんぐわんと揺れる。
「……!」
思わず頭を押さえてしゃがみ込んだ。
数秒ほどすると、歪みはおさまったが、……何かが違う。どこかがおかしい。
一体何だったんだ?
地震ではなかった。では疲れか。
無理やりそういうことにして、玄関に向かって一歩踏み出した。
「ア」
(……え)
どこからか声が聞こえた気がした。それに、案外近かった。
気のせいだ。そうだ。気のせいだ。
「アァ……ア……ア」
浴室の扉が開く音がした。絶対に気のせいではない。
(落ち着け……落ち着け!)
体のかすかな震えを感じながら、右足を一歩後ろに引いた。
「ア……アァ!」
ドア越しに何かと目が合った。
…………………
白い服。長い黒髪。
……そして、空洞のような黒目。
「っ!」
《《これ》》は英美じゃない。違う!
逃げなければ。
そっと、目を合わせながら後ろに下がる。体中冷や汗が流れていた。
冷静な判断はできなかった。
ピー
耳元で音がする。
いつの間にか、《《それ》》は僕の目の前まで来ていた。
「あ……」
腰が抜ける。
しかし、《《それ》》はニヤリと笑うと、消えた。
ほっとしたのもしたのも束の間、男とも女ともつかないような、くぐもった声が聞こえてきた。
『これはゲームです。ただいまより、【見えてはいけないもの】と目を合わせてはいけません。これは警告です。目を合わせてはいけません。目が合った場合………………諦めてください。それでは始めます。』
「………え?」
ゲーム?警告?見えてはいけないもの?
……なんだ、それ。
とりあえず僕は目を瞑り、玄関まで一気に駆け抜けた。そのままドアノブらしきものを掴む。
…………違った。
これは、誰の手だ?
息が小刻みになる。背中に悪寒が走る。
手を離そうとする。駄目だ。離れない。
なんとか左手で本物のドアノブを掴む。
………開かない。
ああ、そうだ鍵をかけてたんだった。
………開かない。
右手にはもう、何もなかった。
それでも、感触がまだ忘れられない。
「ふぅ、ふぅ、ふぅ……」
僕は息を整えながら振り返る。
手で壁を伝いながら、寝室まで向かった。
ベッドに顔をうずめれば、僕の勝ちだ。
「ねえ。」
(………は)
耳元で、英美の声。錯覚じゃない。
一旦立ち止まってみる。何も聞こえない。
今自分がどこらへんにいるのかも分からないし……と、ゆっくり、そう、ゆっくりと目を開けた。うっすらと。
………誰もいない。
体中から力が抜ける感覚だ。しかし、油断はしてはいけない。
薄目にして、寝室のドアを開けた。外を見ないようにして閉める。
「は………ぁ」
息を吐いている途中、心臓がひゅっと音を立てたような気がした。
………目の前には、白い服。
うっすらと黒い毛先も。
体をゆらゆらとゆらしている。
(落ち着け……!目を合わせなかったら大丈夫だ……!)
「助けて!!!」
目の前で、声がした。
……英美の。
かすかにすすり泣く声も聞こえる。
違う。違うから、落ち着け。僕。
思わず手を伸ばす。肩に触れる。
「………え?」
それは、《《それ》》ではなかった。
「………英美?」
髪は後ろで一つにまとめている。手はぞっとするほど冷たい。英美だ。いや違う。
……制服姿?
腰のあたりに、ベルトを通すような分厚い布がある。何で気付いたのかはちょっと見逃してくれ。
《《それ》》はしゃがんだ。
僕は恐る恐る目を開ける。
「……英美」
顔を手で覆っているが、その姿は確かに英美だった。
僕は膝をついた。彼女を見つめて口を開こうとしたその時、彼女は手を外した。
「…………っあ。」
《《その顔は、明らかに彼女のものではなかった》》。
僕を見てニタニタと笑っていた。口角の上がり方が異常だ。
赤い。というか血でまみれている。
………目は、奥底まで黒かった。
終わった。
ピーーーーーー
電子音が響き渡る。
すると、僕は何かが突き抜ける感覚を覚えた。
………右目。
「うあああああああああああああああ!」
僕は目を押さえてうずくまる。息をすることも忘れた。
痛い!痛い!!!
いた




