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ひとりぐらし  作者: 雨宮 叶月
管理人の記憶

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第61話 変化

今日は雨が降っていた。


ふと、僕と彼女が出会った日も雨が降っていたなと思い出す。



傘を差しながら僕たちは向かい合っていた。



「…………」


高原さんは黙っている。

ザー、という雨の音がやけに鮮明に聞こえている。


彼女は待ち合わせ時間に少しだけ遅れてきた。



…彼女の瞳は、空っぽだった。僕のほうを見ているようで、実際はもっと遠くを見ている。もしかしたら何も見えていないのかもしれないが。



「……高原さん」


「ねえ、泉くん。」


彼女は口角をわずかに上げた。しかし、目は1ミリも変わらない。



「……私、傷つくことにも、もう慣れたのになぁ。」



「……高原さん。」


彼女の目から、涙が溢れた。


「……あれ、」


彼女自身も驚いているようで、涙を拭う。それでも涙は止まらない。



「…え、…ははっ、ふっ、っ、ごめん、ほんとに、……雨、雨のせいだよ。そう。うん。……はぁっ、ぐすっ、っ……」


彼女は笑おうとして、でも上手くいかなかった。


「……っ高原さん、ちょっと来て。」


僕は彼女の手を掴んだ。そしてそのまま移動する。


……とりあえず、僕の家に。


両親はいないから。



高原さんの手は、ぞっとするくらいとても冷たかった。




鞄から鍵を慌てて取り出す。


鍵穴に差し込んだのを確認すると、僕はドアを開けた。


彼女も入ってきたのを確認して、ドアを閉めた。



「……はは、ごめん。ごめんね。どうしちゃったんだろう私。こんなこと一度もなかったのに。ああ、疲れたなぁ人生。」



彼女は見たことのない顔をする。涙を拭う。



「……別に構ってほしくて泣いてるわけじゃない。慰めてほしいわけでもない。ただ。……ただ、この地獄から打開する方法を知りたいだけなんだ。」



彼女は虚ろな目のまま、そう言った。



「……地獄って?」



「……ねえ、泉くんはさ、神様っていると思う?」



「……え?……分からない。僕たちは一生会うことなんてないし、人生には関係ないから、神頼みするとき以外はほとんど考えないからな…。」



「……私はね、いないと思うよ。」



「うん。」



「たとえいたとしても、神様は私から目をそらした。私はね、幼い頃から神様に強く願ってたよ。はやくこの現実から救われますように、誰かが助けてくれますように、って。…報われますように、私はこれからもずっと良いことだけをして生きていって、勉強も頑張るし、今の仕打ちからは耐えるから、って。」



「……うん。」



「…せめて、壊れる前までには、こんな気持ちになるまでには、変わってほしかった。……人って、すぐに変わるんだよ。大人しくて弱々しい人が、人に暴言を吐くような凶暴な人になるように。」


いつの間にか、彼女の涙は止まっていた。しかし、止まったというよりは流せる涙がもうないという表現のほうが正しいようだった。




「私はいったい何が怖いんだろうね。私でもよく分からない。……いつまで、私が悪者なんだろうね。でもきっとずっと続くんだろうなぁ。完璧にも到底なれないし。」


高原さんが苦しそうに笑った。



「ねえ、泉くん。憎悪を向けられるって、いつまでも苦しいんだね。」



「……高原さん、何があったの…?」


高原さんは、感情が宿っていない目でこちらを見た。声が低くなる。



「……………母に、人格を否定された。罵られた。……殴られた。」



「えっ……」



…なんとなく、そうだとは感じていたのかもしれない。


それでも、衝撃的だった。色々な感情がぐちゃぐちゃになった気分だ。




「……痛いよ。まだ。すごく痛い。足も胸も腕も顔もお腹も頭も、全部、全部!

……思わず飛び出してきた。でも帰ったらまた同じことになるんだろうなぁ。そして、私がいなくなっても、世界は何も変わらずに時間が過ぎていくんだろうな。」



「………分かるよ。なんとなくだけど、分かる。」



自分の気持ちを表現するのに適切な言葉が見つからなかった。僕は毎回こうな気がする。



「分かるわけないよ!」


高原さんが胸をぎゅっと掴んで言った。



「泉くんは、死にたいって思った事ある!?包丁を差し出されたら、自分の胸を突き刺すことができる……!?この苦しみから早く解放されたいって、ああ、これからも毎日続くんだろうなぁって絶望したことある!?」



「………あ」



「私だって最初は、頑張って生きようと一生懸命だったんだよ!今も一生懸命だけど。……でも、私の意志は壊された。あんなことを何回も何回もされたら、心は壊れるんだよ…?」


彼女はうつむく。



「……自分が悪いってそう、言われ続けて。もう、それでもいいかなって。演じるのにも疲れたし、なんか、もう……どうでもよくなっちゃった。報われないのに頑張るしかできない私は、どうすればいい?」


彼女の声がだんだん震える。


「……高原さん」



「私の、何がいけなかった?私はどうすれば良かった?……それで、何かが変わった…?…私の生きる価値は?意味は?私の代わりなんて、たくさんいるのに。」




「…高原さん!」



僕は彼女の手を握った。


それは本能だった。顔を上げた彼女と僕の目が合う。彼女の瞳が揺れる。




「……っ、生きる理由には、僕がなるから!」



「…え?」



「価値がないのは、高原さんじゃなくてこの世界のほうだよ!何で、…何で貴方がそんな思いをしなくちゃいけない?そんなことに耐えるなんて、なんで、貴方だけが…!」


彼女の苦しみを聞くたびに、僕の中の何かが音を立てて壊れた。


「………」



「……もし、この理不尽な世界を見捨てたくなったら、一緒に二人で逃げようよ。遠い、遠い場所で、二人で、一緒に死のう。」



「………え?泉くん…?」



本心だった。彼女と2人でこの世界から消えるのは、それはそれで良いと思った。



「……貴方の心臓が溶けて消えるその瞬間まで、僕と一緒にいてくれますか。」



僕は彼女の目をしっかりと見る。

彼女は、視線をゆらりと移動させると、泣きそうな顔でふにゃりと笑った。



「……心臓が溶けても、一緒にいるよ。」





彼女が膝から崩れ落ちた。


彼女は僕の服を強く握った。


僕は彼女の背中に手を回す。

彼女の顔は見えない。



「……私っ、本当は生きたかった…!生きたいっていう気持ちを、なくしたくなかった…!」



「……うん。」



彼女への恋心をはっきりと自覚したのはこの時だったように思う。



想いをさらけだして、それでもなお『生きること』を願うその姿が、とても心に響いて、いや残ったのか。



「…ありがとう、泉くん。私、泉くんと出会えて良かった。」



「悠人で良いよ。」



「……名前?」



「うん。」



「…じゃあ私のことも英美って呼んでね。……悠人。」



「…うん!」



「……そろそろ帰るね。」



彼女はゆっくりと立ち上がった。



「……英美の願いは、僕の願いだよ。」



「ふふっ、じゃあ私がこの世界を壊したいって願ったら、一緒に壊してくれる?」



「うん。」



「へへっ、冗談だよ。」



彼女はドアノブに手をかけた。




「……またね。悠人。」





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