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●46 終わらない物語






 不毛な戴冠式から数日。


 色々とごたついたのは最初だけで、決めるべき事を決め、やるべきことをやってしまえば、後は楽なものだった。


 詰まる所、全てはルーチンワークへと集約される。


 軌道こそ安定してしまえば、後は必要なことを日課として繰り返すだけである。


 というわけで。


 新たな世界体制において〝魔王アルサル〟となった俺は、




 魔王城の裏手にある広い庭にて、一人でキャンプを楽しんでいた。




 朝日が昇り、世界が光に照らされる。魔力濃度の高い魔界の空は血を垂らしたように真っ赤だが、快晴の爽快さにおいては人界と遜色ない。


 テントから這い出た俺は、


「――ふぁ……ぁ……」


 あくびをしつつ、両腕を上げて大きく伸びをする。


 魔王たる俺の仕事は、実際のところ皆無。あったとしても、俺の第一の側近を自称するイゾリテや、もとから魔界を分割統治していた上級魔族や魔物などがやってくれる。


 そう、俺はこの魔界に君臨するだけでいい。統治はしない。


 故に――やるべき仕事もない、というわけだ。


 存分に全身を伸ばし切った俺は、爽やかな気分で空を見上げ、口元を綻ばせる。


「……っし、コーヒーでもいれるか」


 テントから少し離れた場所に設置してある焚き火台とテーブル、そしてローチェアへと足を運び、そのまま流れるように湯沸かしの準備を始める。


 何日か前の憂鬱な気分など、とっくに消失していた。


 さもありなん。あの無駄な戴冠式以降、俺をわずらわせるものは一切合切なくなったのだから。


 まったく、玉座に腰掛けて『新魔王様、万歳!!』と盛り上がる有象無象を眺めていた時は虚無感が半端なかったが、喉元過ぎれば何とやらだ。


 思い返せば、あれが最後の試練だったのかもしれない。


 あの虚しい儀式をどうにか乗り越えた今、俺にはもはや開放感しかない。


 むしろ開放感が俺。


 俺こそが開放感。


 うむ、我ながら何を言っているのかよくわからないが、細かいところはニュアンスでご理解していただきたい。


 とにもかくにも、俺は自由だ。自由になったのだ。


 そう、かなりの遠回りをしたが、ここからが本当の始まり。


 真のスローライフが、ようやっと始まったのである。


「ふん、ふふーん……♪」


 あまりのご機嫌さに、思わず鼻歌が出る始末。


 長かった。実に、長かった。


 実際の時間にすれば、さほどの期間ではなかったかもしれない。


 だが、それでも長かった。そう言わせて欲しい。


 思い返せば、いきなり反逆罪に問われたので少々乱暴した後にセントミリドガルを出奔した、あの日――


 本当なら、あそこから俺のスローライフが始まるはずだったのだ。


 しかし、そうはならなかった。そうはならなかったのだ。だから、この話はここでおしまいなのだ――ではなく。


 知っての通り、多くの出来事があった。洒落じゃ済まない出来事がこれでもかと畳み掛けられた。世界崩壊寸前の事態など、数えるのも馬鹿らしいぐらいの頻度であった。


 それでも俺は諦めなかった。そう、一度たりとも諦めなかったのだ。嘘だ。諦めたことはあったかもしれない。しかしそれはちょっと弱気になっただけであって本当に心の底から諦めたわけではなかったのだそういうことになったのだいいかわかったか信じろ疑うなわかったな。


 ん? 口上がくどい? しつこい? いい加減にしろ?


 いいや言ってくれるな。俺だってわかっている。だが噛み締めたいのだ。ようやく手に入った自由を。長きに渡って【おあずけ】を喰らっていたスローライフを。ようやっと甘受した禁断の果実を。味がしなくなるまで、しゃぶり尽くしたいのだ。


「……はぁ……美味い……美味すぎる……」


 丁寧に淹れたコーヒーを一口啜ってから、俺はしみじみと呟いた。


 戴冠式が終わり、ここに拠点を設営して最初に淹れたコーヒーも絶品だったが、今になっても味が落ちることはない。未だに新鮮な気持ちで『自由のコーヒー』を味わうことができる。


 これ即ち――それほど俺の中に鬱憤が溜まっていた、ということなのだろう。


 要は、ほんの数日で吐き出し切れる程度の溜まり具合ではなかったわけだ。


「……ま、ここに来るまでマジで長かったからな。この調子なら一年ぐらい余裕でこの気分のまま満喫できるぞ……」


 シェラカップから立ち上るコーヒーの香気を鼻孔に感じながら、ふふふふ、と我ながら気味の悪い笑みをこぼす。


 思えば、この完全なるフリーライフに至るまで費やした時間は十年以上にも及ぶ。初めてこの世界に召喚――否、複製によって誕生した瞬間から既に、俺は不自由の身だったのだ。


 生まれながらにして魔王エイザソースを打倒することを宿命づけられた〝勇者ユニット〟――それが俺。


 これまでずっと、何かに縛られ生きてきた。勇者としての義務。戦技指南役としての責任。かつて世界を救った者としての自負。


 だが今となっては、もう何もかもがどうでもいい。


 この心の解放こそが、真の自由なのだ。ようやくそれがわかった。


「今日は何して楽しむかなぁ……」


 縁側のじいさんみたいにコーヒーを啜りながら、ボンヤリと呟く。


 一昨日は敷地内の森で焚き火用の薪を作った。昨日は、ちょっと行ったところにある紫色の河で釣りをした。ちなみに釣れた魚は魔界産なので見た目がちょっとグロかったが、味はそれなりによかった。普通の人間が食ったら十中八九死ぬだろうが。


「あー……そうだな、ガチでアウトドア料理するってのも、いいかもなぁ……」


 そういえばここ数日、肉や魚を焼いただけの飯しか食べてない。せっかく時間の余裕があるのだ。手間暇かけて本気で調理するのも悪くないだろう。


 というか、完全に思い付きでソロキャンプを始めたものだから、食料の備蓄が心許ない。冗談抜きで一年ぐらいこの生活を続けるなら、本格的に準備を整えなければなるまいて。


 当たり前だが、魔界で手に入るのは魔界の特産品のみ。懐かしき人界の味を楽しむのであれば、あちらから仕入れるしかない。


 しかし別段、わざわざ人界くんだりまで出向く必要はなかったりする。


 もちろん人界と魔界は公式的には断絶しており、交流は一切ないことになっている。


 が、しかし。前に話したかもしれないが、人界と魔界の間には非公式の繋がり――交易があるのだ。いわゆる『裏ルート』というやつである。


 実際、十年前の俺達が『果ての山脈』を越えて魔界へ乗り込んだ時も、その『裏ルート』から入手した情報が大いに役立った。


 と言っても、魔王が現存していた際は全ての魔族と魔物が自由意思を奪われ操られていたので、情報の鮮度はやや古いものだったのだが。


 ともあれ魔王が倒れたことによって、とうに復活しているであろう『裏ルート』を介せば人界の食材などいくらでも手に入るはず。


 イゾリテに頼めば、きっとすぐにでも調達してくれるに違いない。


「――って、イゾリテは俺の使用人じゃないだろが、俺。いい加減にしろ」


 いかん、イゾリテが大抵の雑務なら何でもやってくれるせいか、思考が偏りつつある。あいつは俺の元教え子だ。しかも眷属は眷属でも、エムリスの眷属である。ガルウィンが人界の統一皇帝になったのもあってイゾリテが俺の直属となっているが、本来ならあいつはエムリスのもとにいるべきなのだ。


「……とは言っても、じゃあ眷属化をやり直すべきかというと、そういう話でもないしな……」


 なんでこんなおかしな状態になっているのやら、と腕を組んで唸ってしまう。というか、そもそも真っ先にイゾリテを頼るのをやめろ、という話だ。


「仕方ねぇ、自分で調達しに行くか……」


 さっきも言ったように、時間は存分にある。『裏ルート』の伝手を頼るなら、何も『果ての山脈』を越えて人界に踏み入る必要もない。ちょいと魔界の東端にでも転移すれば――


「……ん?」


 シェラカップに注いだコーヒーを飲み干し、おもむろに重い腰を上げようとした時だった。


 俺の研ぎ澄まされた五感が異変を察知し、直感が警鐘を鳴らした。


 何か、ろくでもないことが起きる気がする。


「――――」


 次の瞬間、滅茶苦茶めちゃくちゃろくでもないことが起こった。


 前兆は風切り音。


 頭上。


 高い位置から、何かが高速で飛来――否、【落ちてくる】。


 その気配だけで大体の大きさ、素材、形状がわかった。


 大きい。金属質。全体的に四角い。以上の情報から察するに重量もかなりあるはず。


「――おいおい……」


 この時点で俺は上空から落下してくるものが何なのか、あやまたず理解してしまっていた。


 即ち――【エムリスの移動工房】である。


 刹那、魔王城のだだっ広い裏庭に、巨大な建造物が墜落した。


 ズドン、ときた。


 軽い地震が起こり、魔王の本拠地たる居城がグラグラと揺れる。俺の座っていたローチェアを始め、焚き火台やテーブルが宙に浮いてひっくり返りそうになるが、すかさず理力でフォローしたので大事はなかった。


 というか、大きさと重量の割には衝撃が小さかったので、おそらく移動工房そのものに緩衝の魔術か何かがかかっていたのだと思われる。


 見ればわかる。こんなデカい建物が手加減なしで落ちてきたら、それはもう大きなクレーターが出来ていたであろうことが。


「……なんか前に見た時よりデカくなってないか?」


 推察通り、いきなり空から落っこちてきたエムリス謹製の移動工房を見上げ、俺は眉根を寄せる。


 確か完成直後に見た時は、せいぜい一軒家程度の大きさだったはず。金属で出来た無骨な印象はそのままだが、明らかに増築がなされ、サイズが増している。


 俺が元いた世界でのスケール感だが、エムリスの移動工房は二階建ての一軒家サイズから、五階建ての雑居ビルサイズにまで膨れ上がっていた。


 いや、もはや移動工房ならぬ移動【要塞】か? 何ならアルファドラグーン王城の敷地内にあった工房よりも大きくなっているではないか。


 ツルンとした外壁――どういうことか金属製なのに継ぎ目がまったく見えない――にいくつかある窓の一つが、出し抜けに開いた。


 プシュー、と空気の抜ける音とともに。


 そこから、ヌッ、と顔を出すのは、当然ながら工房の主であるエムリス。


「やぁ、元気だったかい魔王アルサル様?」


 相変わらず飄々とした雰囲気を漂わせる魔道士は、いつもの大判の本に乗って窓から飛び出し、吸い寄せられるようにこちらへとやってくる。


「そっちも元気そうで何よりだぜ、魔王エムリス様?」


 目には目を、歯には歯を、皮肉には皮肉を。俺を魔王呼ばわりしたエムリスに、そっくりそのまま返してやった。


 お前だって一時期は魔王を自称していただろうが――と。


 しかし、その程度の揶揄はどこ吹く風だ。


「イゾリテ君から聞いたよ。正式に魔王の座に就いたのだろう? 一言お祝いでも、と思ってね」


 ふふふ、と宙を滑るようにして近付いてきたエムリスは、目ざとくテーブル上のコーヒーセットを見つけると、


「おや、いい香りじゃあないか。ボクにも一杯いただけるかな?」


 遠慮なしにコーヒーを要求してくる。


「お祝いはどうした、お祝いは……いや、別に祝って欲しくもないけどな」


 呆れの吐息をしつつ、俺は素直に応じてやった。火から上げておいたケトルの取っ手を掴み、焚火台の五徳へと移動させる。エムリス用のシェラカップを用意し、新たな一杯を淹れる準備を始めた。


 エムリスはプカプカと浮遊したまま、仰々しく肩をすくめてみせる。


「しかし思い切ったものだね、君も。まさか魔王の座に就くだなんて。大丈夫かい? 八悪の因子の影響は薄まっているはずだろう?」


 またぞろ暴走しているのではないか、と軽く心配する素振りを見せるエムリスに、俺は緩く首を横に振る。


「そんなんじゃねぇよ。俺なりに考えた結果だ。お前なら皆まで言わなくてもわかるだろ?」


「まぁ、ね。大体そんなところだろうとは思っていたけれど……」


 はぁぁぁ、とこれみよがしに溜息を吐くエムリス。なんだよ、その態度は。何か文句でもあるってのか。


「なんだいその顔。別に文句をつけようってわけじゃあないさ。安心したまえ」


 どうやら心情が顔に出ていたらしく、まるで心を読んだかのようにエムリスが先んじて否定する。


「ただ、相変わらずだなぁ、と思っただけさ。どうせ嫌々ながら、それでも人々や世界のために請け負ったのだろうね。まったく君らしいことだよ、アルサル」


 さも、その行為がしょうもないことかのように吐き捨てる。


「よりにもよって勇者として世界を救った君が、紆余曲折の果てに魔王になるだなんてね。運命とは皮肉なもの、とは言うけれど……本当にひどい話もあったものだよ」


 どうも俺が魔王の座に就いたことより、そうせざるを得なかったこと自体に辟易しているらしい。エムリスはふと、どこか遠くを見るような目をして、


「――いや、まぁ……考えてみればこんなに面白いこともない、と言えなくはない……のかな?」


 小首を傾げたかと思うと、急にニヤリと笑いだす。


「うん、そうだね。実によくできたジョークだ。勇者が魔王になる――なんてね。ミイラ取りがミイラになるよりも面白いじゃあないか。あっははははは!」


 ついには膝を叩いて呵々大笑するエムリスに、俺はジト目を向ける他ない。


「情緒不安定かお前は……」


「いやいや、ごめんよ。つい、ね。というわけで、魔王就任おめでとう。心より祝福するよ」


「嫌味か」


 無駄に改まった口調で言祝ことほぐエムリスを、俺はすげなく扱った。こんなことを心から祝福されてたまるものか。


「――で、そっちはどうなんだ? 研究の方は。どうせ詰まったから気分転換でもしに来たんだろ?」


 ついさっき挽いたばかりのコーヒー豆を、フィルターを取り換えたドリッパーに入れる。エムリスが来なければ、後で二杯目として楽しもうと思っていた分だ。


「ああ、そうだね。流石はアルサル、察しがいいじゃあないか。実は――」


 エムリスの声に耳を傾けつつ、カタカタと鳴りだしたケトルを火から上げようとした、その時。


 再び、頭上に奇妙な気配。


 突如として出現した巨大な存在感に、俺は手を止め、おとがいを上げる。エムリスも同様に感じたらしく、同じように口を止めて視線を上へと向けた。


 またしても、馴染みのある気配だった。


『――あらあら、奇遇どすなぁ、エムリスはん。あ、アルサルはん、こんにちわ。お邪魔しとりますえ』


 それもそのはず。魔王城の直上、高空に忽然と出現したのは誰あろう〝白聖の姫巫女〟ニニーヴその人だったのだから。


「……は? ニニーヴ? お前、なんで……?」


 通信術で挨拶してきたニニーヴに、思わず肉声で返してしまう俺。


 僅かとはいえ動揺してしまうほど、ここでのニニーヴの登場は虚を突くものだった。


「ややわぁ、アルサルはん。ウチかて知り合いの慶事ぐらい、ちゃんと駆けつけてお祝いするよってに。そないに信用あらへん?」


 蒼穹に浮かぶ豆粒のようだったニニーヴが、スーッ、と重力やら大気の抵抗やらを無視した動きで降下してくる。あっという間に肉声が届く距離まで来たかと思うと、


「こないだまでは、ほら、ウチは巡業やら何やらで縛られとったから。忙しかったんよ。今はもう楽になったもんやけど。おかげ様で」


 ストン、と俺のすぐ左側へと降り立った。実に軽やかな、まるで翼持つ天使のような所作で。実際、大きく広がったプラチナブロンドのツインテールが、さながら翼のように見えなくもない。


 比べてみれば、鋼鉄の要塞じみた移動工房に乗って派手に登場したエムリスは、まるで悪魔のようだった――とも言えないだろうか。


 いや、ダメだ。そういうことを考えるのはよそう。余計な思考は寿命――まぁ、そんなものはもうあってなきに等しいのだが――を縮めることになりかねない。


 なにせエムリスだ。聖神の次元にまで超進化したあいつなら、密かに心を読む術を使っていてもおかしくない。それでも今の俺なら防御できるだろうが、用心するに越したことはなかろう。


 と、ここまで一瞬の数千分の一の刹那で思考した後、


「お祝いするって言っても、お前……別にこっちまで来る必要はなかっただろうに……」


 俺は怪訝な反応を返した。


 何故って、考えてもみて欲しい。この十年間、ニニーヴがこうして俺を訪ねてきたことなど皆無だったのだ。それが今になって突然、連絡なしで現れたのだ。訝しむなという方が無理だ。


 だが、そう考えると、エムリスの奴も怪しいと言えば怪しい。事前に予告もしないで登場するのは相変わらずというか、〝怠惰〟の因子を宿していることを思えば不思議ではないのだが、しかし今のエムリスはその影響下にないはずだ。


 なのに、連絡を怠ったまま急訪問しやがった。


 ――何か引っ掛かる。


「そんなことより、ほら、ウチの椅子も出したってぇな。エムリスはんと違うて、空気椅子する趣味はないんよ?」


 俺の言葉を完全にスルーして、ニニーヴは妙に可愛らしい所作ウィンクで椅子を所望する。


「お、おう……」


 見た目が多少成長して変わったが、そういった仕草は昔と一緒だ。俺は反射的にアイテムボックスからローチェアを一脚取り出し、ニニーヴの足元に置いた。ちなみに火にかけていたケトルはいったん取り上げ、金属製のローテーブルへと避難させてある。


「おおきにな。――ほいっ、と」


 はんなりとした動作でローチェアに腰を下ろしたかと思えば、両手で椅子の脚部を掴み、何故か俺のすぐ隣へと、ぴょん、と移動してきた。


「――???」


 何故、こんな至近距離にまで? と俺の頭に疑問符の花が咲き乱れる。


 思わず目を丸くしてニニーヴに視線を向けると、


「ほ? どないしたん?」


 と、ニッコリと笑みを返された。そのまま、何気ない動きでニニーヴの片手が宙を泳いだかと思うと、


「ん……?」


 ぎゅっ、と俺の二の腕を掴んだ。


 いや、それどころではない。ニニーヴはさらに身を寄せてきて、何と俺と腕を組もうとしてくるではないか。


「……お、おい……?」


 思いも寄らぬこと過ぎて上手く反応できなかった。いつかの、イゾリテに顔を両手で挟まれて告白された時を思い出す。我ながら情けないことに、異性からの想定できない身体接触に対して俺はてんで耐性がないらしい。


「な、なっ……!? ニ、ニニーヴ、きみ……!?」


 エムリスから驚きの声が上がる。そりゃそうだ。それぐらいニニーヴの行為は突拍子もなかったのだから。


「どうしたん? なんや変なことでもあったん?」


 完全に俺の左腕をふところに抱え込み――見ようによっては、間合いを詰められ動きを殺された、とも言える――息のかかる距離にまで顔を近付けたニニーヴが、いつもの柔和な笑顔で小首を傾げた。


「へ、変なことって、お前……!?」


 声が上擦って思わずひっくり返りそうになったが、どうにか我慢した。


 何だ? 一体ナニが起こっている? なんでニニーヴが――そう、【あの】ニニーヴが一体全体どうしてこんな真似を? あまりの近さにニニーヴの髪からいい匂いが漂ってくる。こんな至近距離まで身を寄せ合ったのは一体いつぶりだろうか。魔王討伐の旅の際、傷付き倒れたニニーヴを抱きかかえたことなんて一度ならずあったことだが――


 稲妻のようなエムリスの声。


「――ニニーヴ! 君もしかして因子が暴走しているんじゃあ……!?」


「ほ? ううん、そないなことあらへんけど?」


 よもやと焦っての問いだったが、ニニーヴは俺の腕に抱きついたまま、なんてことないように首を横に振った。


 しかし、俺と触れ合う面積を少しも減らさないまま左の人差し指を顎に当て、んー、と視線を宙に泳がせると、


「ただ――そう、そうなんよ。ただな? 【この前】のこともあったし、【ウチもそろそろ本腰いれなアカンなぁ】、て思てな? この意味……わかるやろ、エムリスはん?」


 クス、と意味ありげな笑みを浮かべ、含みのある目線をエムリスへと向けた。


 ――いや、まったくわからんのだが? 俺の方は盛大に意味不明な状態なのだが?


 とは内心で思いつつも、にわかにエムリスとニニーヴとの間に流れ出した重厚な雰囲気にされ、俺は口を開けない。


「――~ッ! 君、やっぱり……!」


 やっぱり? いや、八悪の因子の暴走ではないとさっきニニーヴは言ったはずだが? それともニニーヴに自覚がないだけで、エムリスにはしっかり暴走しているように見えるとか?


 冗談抜きで、もし本当に因子の暴走だとしたら俺もヤバい。こうして密着している状態では、何がどうなるかわかったものではない。八悪の力は、たとえ聖神といえど太刀打ちできない次元のものなのだから。


 ニニーヴは、うふふ、と笑い、


「それにしても、ほんまに【奇遇】どすなぁ。ウチが思い立った日に、エムリスはんもこうしてアルサルはんのところに来とるやなんて。けど考えてみたら、昔っからそうやったもんね? 面白いわぁ。あれ、覚えてはる? 【あの夜】のこと」


「くっ……!」


 意味深なニニーヴの言葉に、何故かエムリスが苦しげに顔をしかめる。


 ――なんだなんだ? 一体何の話だ? そういえば、この二人が揃って暴走したときも何か似たような話をしていたような気がするぞ?


 何故かはわからないが妙に居心地が悪く、迂闊うかつに割って入れない空気を感じ、どうにも居たたまれなくなる。


 別段、俺が何か悪いことをしたわけではないはずなのだが。


「こうなったら【早いもん勝ち】やで、エムリスはん? 昔と同じようにやってたら、暖簾に腕押しの繰り返しやさかい」


 エムリスを挑発するかのごとく、ご高説っぽいことをのたまったニニーヴは、何故かそのまま抱きつく力を強め、ぎゅううう、と俺との密着度合いを劇的に高めていく。


 刹那、エムリスの顔から表情が、ストン、と抜け落ちた。


 無になる。


「――――。」


 ぷつり。


 気のせいだろうか。どこかで、何かの糸が切れるような音を聞いた気がした。


「……へぇえええぇええぇぇ、そうかいそうかい。ニニーヴ、君は【そういうやつ】だったんだね。いや、昔から【そうじゃあないか】とは思っていたんだ。けど、今の今まで確信が持てなかった。先日の件も、八悪の因子の影響も強かったしね。へぇええぇぇ、ふぅぅううううぅぅぅん……!」


 何だ何だ? エムリスの奴、急に低い声でベラベラと喋りだしたぞ。何の話だかさっぱりわからないが、不穏な気配がビンビン伝わってくる。


 ふと、ふよふよと浮いていたエムリスの本が、スーッ、と宙を滑るように移動を始めた。それなりの速度で、しかし何故か俺の後背へと回り込み、


「――なら、ボクはこうさせてもらおうじゃあないか」


 ポン、と後ろから俺の頭に手をのせる。


「……は?」


 怪訝な声を漏らしたのはもちろん俺だ。何だこれ? 何の意味があるんだ、この行為には?


 しかし、俺の抗議めいた声には耳を貸さず、エムリスはそのままワシャワシャと俺の髪を弄ぶように手を動かした。


 その手つきはどこか、犬か猫を撫でるものと似ている。


 今、第三者が俺を見るとそこには、横合いからニニーヴに抱きつかれ、後ろからエムリスに頭を撫でられている成人男性がいるわけだが――


 何の冗談なんだ。


「――おい、何やってんだお前」


「わからないのかい? 頭を撫でているのさ」


 流石にたまりかねて文句をつけたところ、至極もっともそうに聞くまでもない答えを返してきやがった。


「いやお前な? そんなのいちいち言わなくてもわかるだろうが。【どういうつもりか】って聞いてるんだ、俺は」


「褒めてあげてるに決まっているじゃあないか。今も昔も変わらず、やれ他人のため、やれ世界のため、身を粉にして頑張っているアルサルをね」


「なんだよ、その超絶ちょうぜつうえから目線は……」


 保護者か何かか、お前は。


 箱庭内こっちじゃともかく、高次元あっちだと一応俺の方が上位者のはずなんだがな。いやまぁ、別にそんなことにこだわって上下の格付けをしようだなんて微塵も思いはしないが。


「実際、大したものだよ。〝勇者〟だった君が〝魔王〟に身をやつしてまで世界を守護しようだなんて、ね。立派だよ、君と言うやつは」


 おいおい、これは一体どういう風の吹きまわしだ? つい先刻は『ミイラ取りがミイラになるよりも面白いじゃあないか。あっははははは!』などと小馬鹿にして笑っていたではないか。それが、何がどうなれば急に褒めそやす方向へと舵を切ることになるのか。さっぱりわからない。


「…………」


 黙って待ってれば、そのうち飽きてやめるだろう――なんて思いながら耐えること数十秒。しかし、エムリスの手は一向に止まる気配を見せない。激しくも優しくもない力加減で、延々と俺の頭を撫で続けている。


 ついでに言えば俺の左腕に抱きついたニニーヴも、まったく離れようとしない。ピッタリと肌を寄せたまま、無言――否、微かだがか細い鼻歌が聞こえてくる気がする。かなり絞っているが、どうやら口の中で何やら歌を口ずさんでいるようだ。察するに、かなりの上機嫌らしい。まるで勝手に身を寄せてきて、一人で満足している猫のようである。


 なんだこれ。マジでどうなってるんだ。誰か教えてくれ。いや、助けてくれ。本気で頼む。


「……な、なぁ、ちょっと……俺、お前らの分のコーヒーを淹れてやりたいんだが……」


 この名状しがたい状況を打破するため、それとなく声をかけてみる。実際、エムリスにコーヒーを淹れてやる途中だったのだ。ニニーヴの登場で中断されてしまっているが。


「ええよ、淹れてもろて」


「別に構いやしないさ。むしろ早くしておくれよ」


 二人とも何てことない態度で返事してくれるが、離れたり手を引っ込めたりしてくれる気はないらしい。


「いや、だから……このままじゃまともに動けないんだが……」


 本気で心の底から、どうしたらいいのかわからない。いっそキレた振りでもして振り払えばいいのだろうか。正直、前代未聞の事態すぎて正解への道筋がさっぱり見えない。下手すると、これまでの人生の中でも随一の苦悩を味わっている――と言っても過言ではない状態だ。


 旧友二人の意図が見えないまま、どうしたものか――と深刻に悩んでいたところ、不意に救いの神が現れた。


 すぐそこに強力な魔力反応。


「――アルサル様。申し訳ありませんが、急ぎでご確認していただきたい……こと、が……」


 イゾリテである。


 魔王城の執務室から裏庭へと転移してきたイゾリテが、何かを言いかけながら現れ――しかし。


「……申し訳ありません。お邪魔をいたしました」


 左側からニニーヴに抱きつかれ、後方からエムリスに頭を撫でられている俺を見て、最悪の勘違いをしてくれた。


 ペコリと礼儀正しく腰を折って頭を下げ、


「失礼いたします。後ほど頃合いを見計らって出直して参りますので」


 やにわに魔力が収斂し、


「いやいやいやいや待て待て待て、まてまてまてまてっ!!」


 そのまま再び転移で去ろうとしていたところを必死に制止した。


「待て頼む本気で待ってくれッ!」


 冗談抜きで心の底から叫んでしまった。知っていると思うが、俺はこう見えて聖神をも超越した超常存在である。


 だというのに。


 嘆かわしや。この体たらくである。見るも無残。情けないにも程があった。


「――はい、かしこまりました」


 頼む、という言葉がよかったのだろうか。イゾリテが思いとどまってくれた。発動しかけだった転移魔術を中断し、集束していた魔力が散逸さんいつする。


 我知らず、ほっ、と安堵の息を吐く。本気で安心した。もしこの状態のまま放置されたらどうしようかと思った。


「何でしょうか、アルサル様」


「……ん?」


 一瞬、イゾリテの問いの意味がわからずに虚を突かれる。次いで、そういえば自分が『待て』と声をかけたのだと思い出す。そうか、待てと言ったからには用事があるのが普通だ。イゾリテはそれを問い質しているのである。


「あー……その、だな……」


 我ながら度し難いことに、イゾリテを引き留めた後のことは考えていなかった。とにかくこのおかしな状態のまま放置されることを避けたくて、かてて加えて、おそらくイゾリテがしているであろう『俺とエムリスとニニーヴがイチャイチャしている』という意味不明な勘違いを捨て置けなかったのだ。


 とはいえストレートに『違う、誤解だ』などと言おうものなら、イゾリテは即座に『何の話でしょうか?』といつもの淡々とした声音で返してくるに違いない。


 そも、別段イゾリテは怒っている様子でもない。本気で『俺達三人が談話しているところを邪魔してしまった』と考えている可能性も十分にある。


 なら、決して邪魔などではないことを伝えなければ。


「――ああ、そ、そうだ、何か話があったんだろう? こっちは別に雑談していただけだから、遠慮なく言ってくれ。な?」


 イゾリテが持ってきたタスクの方がよほど重要だ、というメッセージを込めて伝えたところ、


「……アルサル様」


 何故かイゾリテが、こちらへと歩み寄ってきた。静かに歩を進め、俺の前に立ち塞がる形で足を止めると、そのまま腰を屈めつつ両手を伸ばし、


「本当によろしいのですか?」


 いつかのように、俺の頬を両掌りょうてのひらで包み込んだ。


 思い出す。以前、こんな体勢でイゾリテから愛の告白を受けた日のことを。


「――? ? ……!?」


 俺の混乱はさらに悪化した。ただでさえニニーヴとエムリスからわけのわからない仕打ちを受けているというのに、どういうわけかイゾリテまで同じようなことを仕掛けてきた。


「私の話を聞いて下さるのですか?」


 淡々と質問を重ねながら、イゾリテは緑の瞳で俺の顔を覗き込んでくる。視界のほとんどをイゾリテの顔が埋め尽くし、他のものが見えなくなる。


「――。」


 俺は絶句する他ない。


 目の前に広がるイゾリテの顔は、目が据わっており、どうにも感情が読み取れない。怒っているようにも見えるが、悲しんでいるようにも見える。わからない。高次元にいけば全知全能に近い権能で読み取れるかもしれないが、肉の体に収まっている今ではそこまでは出来ない。


 俺は悟られないよう、しかし生唾を嚥下えんげし、


「……イゾリテ、あのな?」


「はい、何でしょうかアルサル様」


「この手は……何のつもりだ?」


 特別な意図があるなら話せ、というつもりで聞いた。


 しかし。


「いえ、師匠やニニーヴ様がされておりますので、私もあやかろうと思いまして。何か粗相があったでしょうか?」


 しれっと当たり前のように言いやがった。素知らぬ顔で、俺を真っ直ぐ見つめたまま。


「…………」


 青天せいてん霹靂へきれきとはまさにこのこと。よく言えば素直すぎる、悪く言えば【開き直った】態度に、俺は二の句が継げなかった。


 怖い。


 怖すぎる。


 俺は一体何をされているんだ。これはもう、一種の攻撃ではないのか? もしかして三人とも操られていたりしてないか? どこか近くに新たな敵が潜んでいたり……?


 ふと最悪の可能性に思い至り、咄嗟に理術で周囲を走査スキャンしてみるが――反応はゼロ。少なくとも、命ある存在は俺達以外にはない。


 ならば一体何故――?


「……で、でだ、イゾリテ? は、話って、何だ……?」


 混乱の極みにある俺は、それでもなお発狂しそうな精神をなだめつつ、そう問うた。


 イゾリテは俺を真っ直ぐ見つめたまま――下手するとそのまま口づけしてしまいそうな距離で――頷きもせず、


「はい。実は【海の向こうにある国からの使者】を名乗る御仁ごじんが、アルサル様をお訪ねに来ております。面会なされるか否かをうかがおうかと思いまして」


「海の向こうにある、国……?」


 思わぬ返答に、刹那、俺は自分が置かれている状況を忘れた。目をしばたたかせ、イゾリテの顔をまじまじと見返した。


「……他の大陸からの使者、ってことか?」


 考えてみればそれ以外の何者でもないわけだが、あまりにも予想外のこと過ぎて、間抜けにも俺はそう聞き返していた。


 すると、


「あら?」


「おや?」


 と、ニニーヴとエムリスが同時に軽く驚きの声を上げる。


「――? なんだ、お前ら知ってるのか?」


 二人の反応が気になり、俺は質問する。


 しかし、まずニニーヴが俺にくっついたまま頭を横に振った。


「ううん、ちゃうんよ。なんや奇遇やなぁ、て思うただけでな」


「奇遇?」


 どういう意味だ、と俺はオウム返しにする。そこへ、


「ボクもさ。驚いたよ、まさかこんな【偶然】が重なるだなんて、ね」


「偶然?」


 エムリスが意味深なことをのたまうので、再び気になった単語を繰り返してしまった。


 瞬間的に、俺は高速思考を走らせる。


 海の向こうの別大陸――それ自体は、別におかしな話ではない。


 過日、俺は聖神ポセイドンと聖神アテナの分身体アバターをぶちのめす際、空の果てにある宇宙まで飛翔した。完全に大気圏外へと至り、俺達が足をつけている大地が球状の惑星であることすら確認している。


 当然、この惑星にある大陸がここ一つだけとは限るまい。考えるまでもない、当たり前の話である。


 とはいえ、だ。


 海の向こうに他の大陸があろうことは、もちろんわかっていた――が、しかし。


 これまでその点に触れてこなかったのは、必要がなかったからである。


 大陸中央の人界からはもちろんのこと、おそらくは魔界からも外海への調査が派遣されたことは一度や二度ではなかったはずだ。


 だというのに、これまで【大陸の外に他の文明がある】という調査結果を持ち帰った奴は一人もいない。


 そう、イゾリテの言う『海の向こうにある国』なんてものは、かつて確認されたことなど一度たりともないのだ。


 だから俺も驚いている。そんな話は聞いていない、と。


 この世界に複製召喚された時からそうだったが、俺はここを『ゲームっぽい世界』と認識している。畢竟、ここは聖神が創造した〝箱庭コクーン〟であり、その認識はさして間違っていなかった。


 故にこそ、思い込んでいた。【この大陸以外に知的生命体は存在しない】――と。


 何故なら、やはり必要がないからだ。


 極端なことを言えば、この箱庭世界には【必要なものしかない】。


 ユーザーである聖神が楽しむために必要なものしか、用意されていないのだ。


 であれば、西の聖神界、中央の人間界、東の魔界だけで全てが事足りる。海の向こうの別大陸にまで手をかける必要はない。そんな手間は無駄に過ぎる。


 ――もしかして、オリュンポスの誰かがこの箱庭に手を入れた? 新たな仕様を追加した、のか……?


 ふと、その可能性に思い至る。


 だが、そんな話は聞いていない。もしそんな仕様変更があるのなら、アポロンから俺に報告があるはずだ。


 とはいえ、そういったことを禁止したわけではない。俺はゼウスらに『これまで通り箱庭運営を続けろ』と命令を出した。その中に箱庭の仕様変更があったのなら、粛々とそれを実行した可能性だってある。


 ――ということは、有り得る。海の向こうの大陸に、別の文明圏があってもおかしくない。たとえ前兆もなく忽然と新たな国が生まれていたとしても、不思議ではない。


 聖神の仕業しわざとは、すなわち神の御業みわざだ。


 何もない不毛の荒野に、あたかも昔からそこにあったかのごとく文明圏を作り上げることなど造作もない。


 と、そこまで考えたところ。


「――実はな、ウチもちょっと【厄介ごと】があってなぁ」


 ぎゅう、と俺に抱きつく力を強めたニニーヴが、あはっ、と笑って不穏なことを呟いた。


 これを聞いたエムリスの、俺の頭を撫でる手がピタリと止まり、


「――おっとニニーヴ、念のために聞くけど……それは〝こっち〟の話かい?」


「どっちだよ見えねぇよ」


 俺の背後でどこかを指差しているであろうエムリスに、俺は少しだけ語気を荒くする。いやまぁ、その気になれば気配だけでどんなポーズを取っているかなんてすぐにわかるのだが。


 しかし、エムリスもニニーヴも俺のことは完全に無視して、


「上? ううん、ちゃうよ。ウチのは〝こっち〟」


 と、ニニーヴは下――つまり、大地を指差した。


 この動作とセリフにより、先程のエムリスが指差したのは上――即ち天空であることがわかった。


「下? ……ああ、なるほど。そうか、【地底だね】?」


 何がどう『なるほど』なのかよくわからないが、何故かエムリスはニニーヴの言葉に納得したらしい。


「地底……?」


 俺の思考を読み取ったかのごとく、俺の目の前のイゾリテがその単語を舌に乗せて転がした。


「そういうエムリスはんのは……もしかして【宇宙】の話なん?」


「ご明察だね。まぁ、方角は真逆だったけれど――どうやらボクも君も、【似たような案件】を持ってきたようだね?」


 ふふふ、とエムリスが微笑む気配。いや、ふふふじゃないんだが。嫌な予感しかしないんだが。


「――もしかして、お前ら……?」


 不意に気付いた。というか、嫌な予感が一気に膨張した。


「さっきから何か変だ何か変だとは思っていたが……もしかしなくても面倒ごとを俺に押し付けに来たな?」


 低く押し殺した声で確認したところ、案の定、


「あ、バレてもうたぁ?」


「おっと、流石はアルサルだね。ご慧眼、恐れ入るよ」


 二人とも一切悪びれることなく、あっさりと肯定しやがった。どちらも半笑いで。


「お前らなぁ……!」


 ようやく違和感の正体が判明した。


 道理でおかしいと思ったのだ。


 かつては一緒に旅をして魔王を倒した仲とはいえ、【あの】ニニーヴとエムリスが、このようにベッタリとしたスキンシップをはかって甘えてくるなど。


 つまりは【そういう魂胆】だったというわけだ。


 ふざけやがって。


「……はぁ……」


 俺は怒りの息を吐く。堪忍袋の緒がミチミチと音を立てているのがわかる。だが、我慢だ。ここでキレてもいいことは何一つない。


「よしわかった。お前ら、とりあえずいったん離れろ」


 何はともあれ、ひとまず仕切り直しだ。


「えー? アルサルはんのいけずぅ。そんなつれへんこと言わんといてぇな」


「まぁまぁ、そう怒ることないじゃあないか。君とボクの仲だろう?」


 離れろと言っているというのに、ニニーヴはさらに体を密着させ、エムリスは頭を撫でる手の動きを妙に粘着質なものに変える。


 俺の堪忍袋が一気に膨張した。


「おいこら。そろそろ本気でキレるぞ。なぁ?」


 憤怒が一定の閾値しきいちを越えてしまったせいか、俺の声音はいっそ静かで平坦なものになった。


 途端、


「ごめんやって?」


「くわばらくわばら」


 俺のテンションが上がるどころか下がったことにより、逆にまずいと察したのだろう。ぱっ、とニニーヴとエムリスが俺から離れた。


「……お前もだ、イゾリテ」


「かしこまりました」


 どさくさに紛れて俺の顔を手で挟み続けていたイゾリテに視線を向けると、すん、とした表情のまま一歩だけ後退する。何気に自分だけは対象外とし、文句をつけるまでそのままでいたあたり、なかなかいい根性をしていると言わざるを得ない。


 ――やっぱり徐々にエムリス化してきてるな、こいつ……


 師匠の傍若無人というか猪口才ちょこざいというか、自分勝手なところまで吸収しなくともいいというのに。持ち前の謙虚さを大事にして欲しい。切実に。


「お前ら並べ、そこ並べ」


 俺は腕を組み、堂々と面倒ごとを持ち込みに来たと述べた二人に、そこへなおれ、と命じる。


「へえ」


「やれやれ」


 流石に少しは負い目があるのか、二人は素直に従った。何故かイゾリテも二人にならい、三人揃って俺の前で横並びになる。


 左にイゾリテ、真ん中にプカプカと浮かぶエムリス、右にニニーヴといった形だ。


「――で? 地底とか宇宙とかどういう意味だ? 順にわかりやすく、はっきりキッチリ誤魔化ごまかしなしで誠意をもって説明しろ」


 まず目線をニニーヴに向けると、うふ、と〝白聖の姫巫女〟は微笑み、


「ほな、簡潔に」


 と前置きをしてから、話し始めた。


「えぇと、聖具ってあったやろ? 大きいのやと、アルサルはんがいわしたミドガルズオルムとか」


 その後、お前が再利用してえらいことになったやつだよな――と言いたいのを堪える。ニニーヴに余計な茶々を入れても無視されるのがオチだ。


「あれ、地面の下に眠っとったやろ? 当たり前やんなぁ、あんなに大っきなもん、他に置いとくとこなんてあらへんやろし」


 ついでに言えば、俺達が最初に見た聖竜アルファードもドラゴンフォールズの滝に封印されていた。直に見たわけではないが、聖駒せいくヴァニルヨーツン、聖狼せいろうフェンリルガンズ、聖炎せいえんムスペルテインといった他の聖具も似たような形で眠っていたに違いない。


「せやけど、疑問に思ったことはあらへん? あれ、【誰が作った】んやろ、って」


「誰が……?」


 ニニーヴの呈した疑問に、俺は目を瞬かせた。


 そんなもの、決まりきっているではないか。


「聖神だろ?」


 そう返すと、ニニーヴは微笑を浮かべたまま緩く首を横に振った。


「アルサルはん、それはメタ視点での話や。そんな言うたら、この世界の全部何もかもが聖神はんらが作ったて話になるやろ?」


「……なるほど、それは確かに……」


 得心する。


 その理屈で言えば、ここにある魔王城を建造したのも聖神ということになる。だが実際には、この箱庭世界に生きる住人が、時間と労力をかけて作り上げたはずだ。


「せや。設計したんは聖神らやったかもしれへんけど、聖具がこの世界にあるっちゅうことは、【誰かが作った】てことなんよ。実際にそうしたかどうかはともかく、【設定上はそうなる】んよ」


 例えば魔王は聖神が設計し、創造し、この魔界に設置した。故にこれを『魔王ユニット』とあいつらは呼ぶ。だが、この世界において魔王は、魔力が寄り集まって凝固して誕生するもの――【ということになっている】。


 勇者を始めとした英雄ユニットも同じだ。魔王を倒す英雄は、時の王が儀式を執り行い、異世界から召喚される――【ということになっている】。しかし、知っての通りそれは真実ではない。実際には異世界から召喚されるのではなく、【複製される】のだ。


 このように、世界を見る視点の形而上けいじじょう形而下けいじかでは、大なり小なり差異がある。ニニーヴは今回、形而下の話をしているのだ。


「ってことは……」


「せや。それが地底……地面の下、深いところにある――〝冥界〟の人らなんよ」


 実に軽やかな口調でしかし、おどろおどろしい名詞が言い放たれた。


「おいおい……冗談きついだろ。聖具を作ったのが、冥界? 物の名前と制作者の出身地にギャップがありすぎじゃねぇか」


 冥界生まれの聖なる道具、なんて意味不明すぎる。呼び名が聖具ではなく『呪具』だったのならともかく。


「せやねぇ、ウチもそう思うんやけど……ま、実際にそういうことになっとるんやし、しゃあないんやない?」


 ニニーヴは少々の同意を示すも、結局は適当に流してしまう。聖具だの冥界だのといった呼び名について、まったくこだわりがないらしい。


「そんでまぁ、その冥界? そこからちょっと面倒なんが上がってきそうな気配があってなぁ? ちょいとアルサルはんに手伝ってもらおう思て……な?」


 ニニーヴは両手を合わせると、テヘペロ、と片目を瞑って舌を出してみせた。


 いやテヘペロじゃねぇんだわ。


「何が【ちょいと】だ、何が。絶対死ぬほど面倒なやつじゃねぇか……」


 子供のおつかいじゃねぇんだぞ、と睨みを利かせる。


 と、ここでエムリスが割り込み、


「ふむ……なるほどだね。前々から聖具の出所でどころについて考察していたのだけど、ボクもアルサル同様、色眼鏡をかけてしまっていたようだ。確かに聖神が作ったと考えるのはメタ的だったね。実際に製造した存在が別にいる……ちょっとその発想はなかったよ。ありがとう、ニニーヴ。いい情報だ」


 もっともらしく、うんうん、と深く頷く。


 そういえば、こいつも似たような案件を持ってきたとか言っていたな。


「……で、お前のはどんな用件なんだ? まさか宇宙だからって〝天界〟だとか言わないよな?」


 半分冗談のつもりで言ったのだが、途端にエムリスの顔が、ぱぁっ、と輝いた。


「天界! いいじゃあないか、その呼び方。素晴らしいセンスだよ、いただこう。そうとも、ボクが知らせに来たのはまさしく天界についてのお話さ!」


 藪蛇だったらしい。余計なことを言うのではなかった。が、どれだけ悔やんでも後の祭りである。


 ――そういやコイツ、さっき登場した時、空から落っこちてきたよな……


「実を言うとボクは先程まで宇宙空間に――」


 どういうわけか水を得た魚のごとく意気揚々と語り始めたエムリスの出鼻を、俺は手をかざしてくじく。


「いや待て、皆まで語るな。大体わかった」


「え? そうかい? まだ何も話していない気がするのだけれど?」


 キョトンとした顔で小首を傾げる〝蒼闇の魔道士〟に、俺は盛大な溜め息とともに吐き捨てる。


「どうせ宇宙人がやってきた、とか言うんだろ?」


 こういうのは大抵パターンが決まっているのだ。さっき『似たような案件』とも言っていたのだし、ニニーヴが持ってきた話とほとんど同じはず。


「うーん……厳密には少し違うのだけれど、的外れというほどではない、という感じかな?」


「じゃあ大体あってるだろうが。お前、何したんだよ」


 どうせ碌でもないことをしでかしたのだろう、と問うと、エムリスは不敵な笑みを浮かべて肩をすくめ、


「おっと、ボクが先んじて何か失策したと? いやはやまったく。【どうしてわかったんだい】?」


「お前なぁ……!」


 堂々とやらかしを肯定する態度に激昂しかけるが、ここでゴチャゴチャ言っても始まらないことだけはわかっている。


「――で、イゾリテ。その『海の向こうにある国からの使者』って奴はどんな野郎だ?」


 矛先をイゾリテに変えて、俺は渋々ながら詳細を確認する。


 質問に対するイゾリテの答えは、実に簡潔だった。


半漁人はんぎょじんです」


「……は?」


 耳を疑う単語が飛び出してきたので、反射的に聞き返してしまった。しかしイゾリテは動じることなく、淡々と続ける。


不躾ぶしつけながら、そのように表現する他ない風貌をされた御仁でした」


「半漁……人……」


 おいおい。なんだなんだ。


 じゃあ何か? 『海の向こう』ってのは、もしかして海の中――『海底』とかいうんじゃないだろうな?


「ニニーヴ様の仰っていた〝冥界〟、エムリス様の〝天界〟にあやかって申し上げるなら――〝海界〟からの使者、とでもいいましょうか」


「おいおいおいおい……一体全体どうなってんだ?」


 いくら何でも滅茶苦茶すぎる。本気でわけがわからない。


 人界、魔界、聖神界のゴタゴタが終わったと思ったら、今度は冥界、天界、海界だと?


 しかも、どう考えても厄介ごとだ。


 それが三つも同時に転がり込んできやがった。


「ふっざけんなよ……!」


 俺は両手で顔を覆いつつ、空を仰いだ。


 これはあれか? またぞろ聖神の仕業か? オリュンポスの奴らは総じて俺の眷属にしているはずだが、漏れでもあったのか? それとも他の何者かの思惑か? 例えばオリュンポス以外の聖神の神社かいしゃとか? あるいは、もっと別の――


 いや、考えても仕方がない。


 こうなったら直接アポロンの奴に問い質してやる。


「……わかった、ちょっと確認してく――」


 るから待ってろ、と高次元に昇華シフトしようとした――その瞬間だった。


 ズドン、と腹の底を揺らす轟音。


「――!?」


 爆発音だ。俺は音の飛んできた方角――即ち魔王城の正門方面へと視線を向ける。


「おや?」


「ほ?」


 エムリスとニニーヴが暢気な声をこぼす中、イゾリテだけが冷然とした口調で、


「……件の使者様をお待たせしていたあたり、でございますね」


 と、今この場に必要な報告をしてくれた。


 そうしている間にも爆音は連続し、大気がビリビリと震動する。近い、そして強い。何を爆発させているのかはわからないが、相当な威力であることがわかる。


 遅れて、正門付近から巨大な水柱みずばしらが噴き上がった。


 逆巻く瀑布と見紛おう水柱は、さながら天を突く塔よろしく伸び上がり、瞬く間に魔王城の頂上よりも高い位置へとのぼり詰めていく。


 一本だけではない。爆発があった数だけ、魔王城の尖塔よりもなお太い水柱が次々に噴き上がる。


「お待たせしていたので、業を煮やされたのでしょうか?」


「そういう問題か……?」


 落ち着いた様子で冷静に状況分析するイゾリテに、俺は思わず力ないツッコミを入れる。


 気のせいかイゾリテの奴、ニニーヴっぽさも吸収していないか? 非常事態だというのに妙に冷静というか、【のほほん】としているというか。


「まぁいい、それより――」


 海からやって来た使者とやらである。少し待たせた程度で暴れ出すなど、一体どういう了見なのか。いくら何でも短気が過ぎる。そも喧嘩を売りに来たというなら、最初から使者の振りなどしなくてよかっただろうに。


「とりあえずお灸を据えてやる、か……?」


 腰を上げて海界からの使者を叩きのめしてやろうと思った、その刹那。


 地響き。


「……!?」


 さっきから続いている爆発とはまた違った震動。まるで真下から突き上げるような強烈な衝撃。


 誇張抜きで、その場にいた全員――エムリスを除く――の体が宙に浮いた。それほどの揺れだ。


「あらあら、もう来てもうたん?」


 突然の地震によって宙に浮いたところ、すぐさま聖術を用いて背中に金属の翼を生やしたニニーヴが、地に足をつけないまま地面を見下ろす。


 いや、その黄金の瞳が見ているのは地面ではない。さらにその下――奥深い【地の底】だ。


「来たって――冥界の奴らがか!?」


 俺も理術を靴底に展開させ、何もない宙空を足場としながら聞き返す。


 凄まじい地震だ。しかも、まったく終わる気配がない。空の彼方に見える『果ての山脈』までもが激しく震動しているのが見える。あちこちで地崩れが起こり、山の形が現在進行形で変わっていく。


「ぁあもうっ! 何なんだ! 何が起こってるってんだ!」


 大地震の揺れが収まるどころかさらに強くなっていくのを見て、俺は激情を声に換えて吐き出した。


 どう考えても【近付いてきてやがる】。


 地の底から、這い上がってくるのを感じる。巨大な蛇のような――そう、それこそ超弩級聖具ミドガルズオルムのような、馬鹿げたサイズの【何か】が。


「ふざけるなよ……!」


 あまりにもタイミングが悪すぎる。いや、よすぎるのか?


 どっちだっていい。


 とにかくわかっているのは、偶然にせよ意図的にせよ、海の向こうと地底から、剣呑極まる連中が大挙してやって来ているということだけだ。


 しかしこうなると、もしかしなくともエムリスの言っていた天界の連中もまた――


「……嫌な予感ほどよく当たる、って言うが……限度ってもんがあるだろうがよ……」


 不意に頭上から大きな影が差し、胸騒ぎを覚えた俺は、ほぼ予想が的中していることを確信しながら、おとがいを上げた。


 天空に、巨大な船が浮いている。


 そう、船だ。船としか言い表せない形状をした馬鹿げた大きさの物体が、忽然と高空に現れていた。


 無論、一隻だけではない。船団と呼んで差し支えない数が、群れを成して大空を席巻している。


 それも、一つ一つが山と見紛みまがわんサイズのものばかりが。


「いやはや、まったく……せっかちな連中だね。もう【降りてくる】だなんて」


 俺と同じく空を見上げていたエムリスが、はーやれやれ、といった風に肩をすくめてみせた。


 おいこら。何を無責任なことを言ってやがる。どう考えてもお前のせいだろ、これ。


「師匠、【まさか】とは思いますが……」


 魔術で重力を遮断して空中浮揚しているイゾリテが、疑いの目をエムリスに向ける。


 以心伝心というものだろうか。言葉尻を浮かせたイゾリテの態度から全てを読み取ったのか、エムリスは、あはっ、と笑った。


「いや、その【まさか】だよイゾリテ君。珍しい生物や未知の技術があったものでね、ちょっと【サンプル】を回収させてもらったのさ。でもどうやら、あちらにとってはそれなりに大事なものだったらしい。血相を変えて追いかけられてしまってね。ここへ避難しに来たというわけさ」


 外道にも程があろうことを、あっけらかんと言ってのけやがった。


 ダメだこいつ。八悪の因子の影響が軽微になっても終わってる。むしろ〝怠惰〟がこいつの破天荒を抑止していた説が有力になってくるまであるぞ。


「……おいおい、おいおいおいおいおいおい……」


 どう考えても完全に収拾のつけようがない状況に、俺はもはや語彙力を喪失した。


 言葉がない。本気でない。


 一体全体どういうことだ。


 何だこれは。何がどうなっている。こんなことがあっていいものなのか。


 偶然が三つ同時に重なるなんてあり得るのか?


 これが奇跡というものか。


 いな、悪夢である。


 というか、なんでどいつもこいつも俺のところに来やがるんだ?


 別にこっちに来なくたっていいだろ。


 冥界? 天界? 海界? もうその三者で勝手に三つどもえの戦いでもしてろよ。こっち見んな。あっち行け。


 などと苛立ちを抑えきれずにムカムカしていたら、


『アルサル、話がある』


 何の前兆もなく、出し抜けにシュラトから通信が届いた。いや本当に唐突だな。嫌な予感しかしないぞ。


『シュラトか? 悪いが今ちょっと手が離せなくてな。できれば後にしてく――』


『急ぎの用件だ』


 シュラトにしては珍しく、俺の言葉を最後まで聞かず遮るようにして念話をかぶせてきた。


 さらには、俺の返事を聞くまでもなく続ける。


『〝異界〟から侵略者が来る。レムリとフェオドーラが察知してくれた』


『――は? ……異界いかい? 侵りゃ……何だって?』


 単刀直入に要点だけ言ってくれるのは手っ取り早くて助かるが、いきなり核心だけ投げられても反応に困る。


 というか、待て。


 四つ目? まさか四つ目があるのか?


「おいおいおいおい、いい加減にしろっておい!」


『何だよ異界って!? こっちはもう海やら地底やら宇宙からハチャメチャが押し寄せて来てるんだぞ!? まだ【おかわり】があるってのかよ!?』


 完璧にテンパってしまった俺は、口から悪態を吐き、念話ではシュラトに食って掛かってしまった。


 不測の事態が三つどころか四つ同時だ。もう偶然では済まされない。絶対に何者かの陰謀だ。間違いない。


『――異界はフェオドーラがつけた通称だ。正確に言えば――』


 激憤を露わにする俺にはあえて触れず、シュラトは淡々と『何だよ異界って!?』という俺の問いに答える。


『――ここではない、【別の箱庭世界】を指している』


『別の箱庭……!?』


 知っての通り、聖神の運営する箱庭はここ一つだけではない。それこそ星の数ほど存在する。故に、別の箱庭世界があること自体は問題ではない。


『いや、それはおかしいだろ……!? 箱庭から箱庭に移動するってことは、つまり次元を越えるって話で――というか、そんなの今の俺達ぐらいにしか』


 できないはずだろ、と言うより早く。


『できる』


 短く強く、シュラトが断言した。


 何故なら、




『【八悪の因子】を有しているのは、オレ達だけではない』




 一瞬、シュラトの言葉が理解できなかった。


 違う、理解はしていたが、それを受け入れることを心が反射的に拒否したのだ。


 しかし。


『――そうか。なるほど。言われてみれば、確かにそうだよな』


 最初の引っかかりを越えた途端、すんなり受け入れることが出来ていた。


 自分で言うのも何だが、おそらく意識が戦闘モードに切り替わったのだ。


 一瞬の迷いが勝負を分ける戦場において、戸惑いや逡巡はただのノイズでしかない。事実は事実として捉え、是非はともかく丸呑みする。細かいことを考えるよりも先に、大きな判断を迅速に片づけていかねばならない。


 この状態の俺は、たとえ手足が欠損したとしても、痛みや喪失感を除外して『再生して従来の性能を取り戻すまで何秒かかるか』しか考えられなくなる。


 ちょうど今のように。


『ああ、うん。マジでそりゃそうだ。次元を越えられるのなら、あっちが八悪の因子を持っていてもおかしくないよな。そもそも八悪の因子だって、何も俺達の専売特許ってわけでもねぇし』


 元々はエムリスの禁呪で呼び出した代物だ。聖神をも超越する得体の知れない力だが、それを呼び寄せたのは当時十代のエムリスだったのである。


 つまり、昔のエムリスほどの天才であれば、誰でも八悪の因子を手にすることができるわけだ。


 いやまぁ、その『エムリスほどの天才』って条件がどう考えても難しすぎるとは思うのだが。


 とはいえ、そういった奴がこの世に一人もいないとはやはり考えられない。他の箱庭世界に、八悪の因子、あるいは【それ以上の力】を宿した連中がいたとしても、何ら不思議ではないのだ。


「――はぁ……」


 それはそれ、これはこれとして。ありのままの現実をそのまま飲み込むしかないとはいえ、つらいものはやっぱりつらい。


 無駄にウジウジと懊悩おうのうするつもりはないが、油断せず意識を鋭く冴えさせたまま、俺はうんざりする。


 もう破れかぶれだ。三つの面倒が四つになったところで、それがどうした。大した違いではないだろうが。


「――ああああああああちくしょうめッッ!!」


 とはいえ、こうして叫んでしまうのはどうしようもない。


 未だに続く、あちこちでの爆発および屹立する極太の水柱。


 収まる気配を見せない大地震。


 ゴゥンゴゥンと謎の駆動音をさせながら大空を埋め尽くす宇宙人船団。


 そこへさらに、宇宙人船団よりも上空にあたる座標に、どうやら【次元の裂け目】が生まれたらしい。


 ちょうど今。


 真っ黒な揺らめきのような、時空の断層――あれこそがおそらく、シュラトの言う〝異界〟へと繋がるゲートなのだろう。


「だから! なんで! 俺のところに! 来るんだ!」


 俺は空中にありながら、それでも地団太を踏んだ。


 当たり前だが、この状況ではもうスローライフだなんだと言っていられるわけがない。


 俺の理想の生活はたった数日で終わりを告げた。やっと、やっと本当の人生が始まったと思ったのに。


「ああもうわかった! わかった! わかってやる! わかってやったわこんちくしょうがッ!!」


 大声で怒鳴るのは、フラストレーションの発散もあるが、半分以上が自分自身に言い聞かせるためであった。


 いわば覚悟を決めるための儀式のようなものだ。


「全部まとめて俺が解決してやるッ! どーにかしてやらぁッ!!」


 喚き散らしながら、俺は全身の輝紋を一斉励起。


 一気に全力全開で凌駕駆動オーバードライブさせる。


 迸るは銀の閃光。溢れ出すは光の奔流。


「――流星となれ、全天の星々!」


 手持ちの輝星の権能、その一切合切を呼び起こす。


 加減は一切ない。


 本気も本気。


 ガチギレだ。


「もう本気で怒ったからな……! 絶対に許さねぇぞ……!」


 心臓から〝星剣レイディアント・シルバー〟を抜き放ち、高々と掲げる。


 そして自らを鼓舞するため、【いつものやつ】を盛大に言い放った。




「勇者を舐めるなよ!!」










 斯くして。


 俺のスローライフを求める苦労くろうたんは続く。


 物語は終わらない。


 これからも。


 どこまでも。


 いつまでも。










    最終兵器勇者~異世界で魔王を倒した後も大人しくしていたのに、いきなり処刑されそうになったので反逆します。国を捨ててスローライフの旅に出たのですが、なんか成り行きで新世界の魔王になりそうです~






   完










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― 新着の感想 ―
完結!!おめでとうございます!!いや最後の最後で「本気」出すやんと思ったらお前らさあ……いやそれ以上に作者様が本気出し過ぎ。なんや四世界からの侵略って……頼むぞ勇者! そういえばXでたしか1/5に………
最初から最後までめちゃめちゃ面白かったです!! 個人的にはニニーヴとエムリスのアルサルとの絡みをもっと見たかったけどアルサルらしい物語の終わり方ですごく満足。 素晴らしい作品を書いてくださった作者様に…
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