第七章
そのあとの騒ぎについては、勝呂はあまり思い出したくなかった。物音に駆け付けてきた教師、部活動で残っていた生徒、やがて踏み込んできた意外なほど大勢の警察官。教師たちに監視されつつ、ひとまとめにされて職員室の隅に追いやられた勝呂たちは、それから呆れるほど細かな質問をうんざりするほど浴びせられ、連絡を受けて迎えにきた親に連れ帰られた後も、それぞれの家庭で同じことを繰り返させられた。
ちゃんとした打ち合せなどする暇はなかったにもかかわらず、勝呂たちは鏡の向こうの世界についてひとことも話さなかった。言っても信じてはもらえないということもあったし、鏡は既に割れてしまっているのだから今さらそんなことをしゃべる必要があるとも思えなかったのだ。ここでも時枝に釈明したまま、新聞部の企画で鏡の噂を調べようとしたことにした。そこに川路が飛び込んできて、錯乱して鏡を割ってしまった…そんな曖昧な説明をどこまで信じてもらえたのかはわからない。だが川路が鏡を割ったことについては細かな調査や実験で確認されたようで、勝呂たちは資料室の鍵を勝手に開けて入り込んだことに関して叱責を受けたにとどまった。
川路は助からなかった。ほぼ即死だったという。
「あの場所から骨が出てきたことも、おれたちへの風当たりが弱かった理由のひとつだ」と公輝は言った。「おれたちが証言した川路の『また殺してやる』ってセリフがどのくらいの重みがあったかわからないけど…本当だったんだから」
壁の中から出てきた骨は五、六歳の女児のものであり、それが十九年前に行方不明になって誘拐かと騒がれた幼女の骨であると判明したのは数日後のことだ。勝呂たちは公輝の知り合いである記者から詳しい情報を入手した。
当時赴任したばかりだった川路は、近所に住んでいたその少女が学校に入り込んで遊んでいるのを見つけ、殺してしまったと推定されている。今となってはどういう経緯でそうなったのかは確かめようもないが、女子生徒は普段の態度から『アイツやっぱり変態だったんだ』とあっさり納得していた。
…そして殺した少女の遺体を壁に塗り込め、鏡を嵌め込んだ。いったん別の学校へ移ったものの、旧悪の眠るこの学校へまた戻るはめになったとき、川路はどんな気持ちだったのだろうか。
「殺された子供の噂、あれまでが本当のことだったなんてなあ」
話を聞きたがるクラスメートを振り切って、勝呂と公輝は学校のそばの公園でジュースを飲んでいた。
「いったいどこで漏れてたのか…噂って怖いな」
「しかも鏡もヒイロも子供も、結局はひとつのところから生まれたんだ」
最初に鏡の向こうへと渡ったのは、勝呂が想像していたような少女ではなかった。幼くして殺され、あの場所に縛られた子供の、あの場所は遊園地だったのだ。自分の意志でこちら側に見切りをつけたわけではなかった。
時間を止められたまま、こちら側ではしゃぐ少女たちを見て、自分もその中に加わりたいとはじめは思っただけではなかっただろうか。無事に年齢を重ねていればいずれは自分にも体験できたはずの高校生活。それを捨ててこちら側に来る少女を利用して、ヒイロさんとして偽物の高校生になってみせたのだ。
「俺、思うんだけどさ、時枝が受け入れられなかったのは年齢や性格のせいじゃなかったんじゃないかな」
「じゃあなんだと思うんだ?」
「職業だよ。時枝は教師だった。あの子にとって教師といったら自分を殺した悪魔のことだ。ヒイロとしてこっちにいる間は他の子と混ざってるせいもあるし、自分も子どもではなく高校生になりきってたからなんてことはない。でも、自分のフィールドに入り込まれるのはたまらなかったんじゃないかって」
そうかもしれない。勝呂は考える。あの時の話からすると、時枝は鏡を入りたがっていたらしい。二十年近く鏡に囚われている子どもなら、本来であれば時枝の寂しさを感じ取ることができたはずだった。そしてあの世界が男を拒絶する場であったこと。
教師と男という存在は、どちらも恐怖に直結していたのだ。
「キリコ先輩がときどきすごく幼く見えるときがあった…あれはあの子の部分が見えてるときだったんだな」
公輝は呟いた。「あんなにいろいろすごい経験をしたんだから今さら驚くことじゃないのかもしれないけど…先輩の存在がすっぱり消えてることがいちばん、信じられない気がするんだ」
樋口季里子という女生徒は最初から存在していないことになっていた。ヒイロさんという非現実的なものなのだから、鏡が割れて行き来もできなくなったのだから当然のことだ。だが実際に季里子のクラスの者や教師に聞いてみても誰ひとりとして記憶していないというのは、目のあたりにすると不気味なものだった。他の出来事は現実からかけ離れすぎていてあまり実感がわかないが、かえって身近な存在であった季里子の消失にもっとも衝撃を与えられた気がする。
「どうしてだろう…これまでのヒイロさんなら誰もが覚えてた。あんな消え方をしたから、力もあの時点で消えてしまったんだろうか」
「でも、俺たちは覚えてる」
勝呂の言葉に公輝はうなずく。
「きっとずっと、忘れないだろうな。鏡の向こうで見たヒイロさんとしての姿より、おれにはいい先輩だったときの彼女のことばかり浮かぶよ」そこまで言って苦笑いする。「彼女たち…か」
佐原浩美。多加木舞。鏡の向こうにとり残された少女たち。
「…辻も、救えなかった」勝呂はベンチの端を見つめたまま、無意識に呟いた。
唯一のこちら側との接点だった鏡がない今、朋江は向こうで何を思っているのだろう。それとも鏡が破壊された瞬間、彼女たちもばらばらになって消えたのだろうか?
こちらからは、もう永遠に知ることはできない。
「そうだな」
慰めも気休めも言わず、公輝はそれだけ答えた。
「そうだ。あの子供の名前、聞いたか?」
「なんだった?」
「三枝ちひろ、って言うんだってさ」
「サエグサ、チヒロ…ヒイロさん、か」
「テル!」
結が手を振って駆けてくる。後ろには奈波もいる。やはり質問攻めの嵐をかいくぐり、やっと学校を抜け出してきたのだ。
「聞いた?古賀さん、転校しちゃったんだって」
「古賀綾瀬が?いつ」
「わかんない。でもあのあとずっと休んでたから、その間にさっさと手続きしたんじゃないかな。その噂がさっき広まったもんだから、あたしたちも出てこられたんだけど」
「またずいぶん急だな」
異常な体験をともにしたからといって、綾瀬と親しくなれたわけでもない。あの日もひとりずつ迎えにきた親と帰っていく中、最後まで綾瀬は残っていた。保護者の方と連絡が取れません、と女教師が校長にひそひそと報告したのを勝呂は聞いている。
そして翌日からは登校してこなかったのだから、結局綾瀬とはあれっきりになってしまった。
「不思議な子だったね」
「ああいう子が、こちら側の生身の女の子だってことがいちばん不思議だな」
結と公輝が言葉を交わすのを横目に、奈波が勝呂の隣に座って言った。
「古賀さんってさ、伝説そのものだったんじゃない?」
「…どういう意味?だって伝説は」
「違うの。鏡のこととかそれに関係した事柄は全部事実から派生してたでしょ?ああいう噂に隠れて、本物の伝説が消えかけてた。だから私生活のことがまるっきり謎の超絶的美少女って形で現れたんじゃないのかな。私生活がわからないのは当然だったんだよ、私生活なんてないんだもの。…変なこと言ってごめんね」
「うーん、正直言ってよくわからないけど、でもそういうこと考える有村ってすごいな」
綾瀬が何者だったのかはわからないが、これからのち語り継がれる伝説になったことは間違いなかった。在校期間はわずかでも、いやわずかだからこそ、その桁外れな美貌と謎めいた雰囲気は時間が経つにつれてどんどん強調され、神格化され、呉羽北高校に降臨した女神とでも伝えられていくのだろう。
「ねえねえ、場所移動しようよ!有村さんのお姉さんと会ったっていう喫茶店、ケーキが美味しいって話なんでしょ?行きたいっ」
結が立ち上がり、公輝が笑いながらあとに続く。「よくそんなこと覚えてたなあ」
促されて勝呂と奈波も並んで歩き出した。前を行く公輝と結を見る。結はあれから卑屈なところがなくなり、屈託なく笑うようになった。美波のことを口に出すのもまるで気にならないようだ。
「あのね、高崎くん」奈波が小声で話し掛けてくる。「あっちの世界にいたとき、あたし辻さんに捕まりそうになって本当に怖かった」
「わかるよ」
「こんなところで永遠に彷徨ってるなんて、絶対に嫌だと思ったの」
「わかるよ、うん」
「でもね、そのすぐあとで、少しだけ、ほんの少しだけなんだけど、やっぱり向こうに行っちゃおうかなって思った」
「わか…ええ?!」
妙な声を出した勝呂を、公輝と結が怪訝そうに振り返る。が、奈波がなんでもないというように首を振ってみせたので、またふたりだけの会話に戻っていった。
「な、なんでまたそんな」
「うん」一瞬ためらうような素振りを見せた奈波は、すぐに顔を上げてにっこり笑った。
「失恋、しちゃったから」
「──」勝呂は絶句した。失恋?誰に?いつ?
あの状況で、失恋なんてしている暇があっただろうか。
「あの深谷くんが、松永さんのためにあんなに必死になるの見て、ああかなわないなって思ったの」
「…公輝か…」
「ずっと憧れてたの。今度の件でいろいろ話ができて、一緒に行動できてすごく嬉しかったの。松永さんがいるからそれ以上どうにかなれるとは思ってなかったけど、それでもあんな場面見せられると駄目押しっていうか、決定的だった」
深谷くんたちには内緒だよ、と奈波は微笑んだ。勝呂は泣き笑いのような顔でそれに答える。
以前にも公輝には秘密の話を共有したことがあった。あの時はふたりだけの秘密を持てたことに浮かれていたが、なんのことはない、好きな相手には知られたくなかったからにすぎなかったのだ。勝呂は単にただの友達だから、こうして失恋まで打ち明けて笑えるのだ。
これまでを思い返してみれば、確かに奈波は公輝に誘われたことで調査に加わり、公輝の言葉に喜んでいた。これだけ近くにいながらそれを見抜けなかった自分が、間抜けの見本のように思えてくる。
(有村が失恋したっていうなら、俺だってたった今失恋したよ)
読んでいただき、どうもありがとうございました!




