第六章
考えてみれば、季里子はヒイロさんの条件を充分に満たしていた。
派手な容貌。目立つ言動。学年問わず知り合いが多く、誰とでも気さくに接していた。
…それなのに、通学路で会ったことも一緒に帰ったこともない。新聞部で校外の取材をする時は、公輝や他の部員に行かせていた。
「まさか…先輩が…時枝を…?」
はりついた喉から押し出されたような声は光輝のものだった。たった今異界の住人であることを宣言した季里子は、気味が悪いほど屈託のない笑みを浮かべて答える。
「別に、こっちからどうこうしてやろうなんて積極的に思ってたわけじゃないよ。あれは時枝のほうから飛び込んできたんだから。ふらふら鏡に近付いてきたときは、勘弁してくれってこっち側でお祈りしたほどだわ」
勝呂はまだ何かの冗談ではないかという気持ちが抜けなかった。鏡を通り抜けて別世界に来ていても、自分と同じ側の人間だと思っていた季里子の正体まではあっさり受け入れることができない。
でも、とかすかに首を回して綾瀬を視線の端にとらえる。確かに時枝に制裁を加える理由は綾瀬だけにあるのではなかった。勝呂自身がその場にいて、時枝が季里子を叱るところを見ていたのだから。
「あたしのこと現実逃避だ世間知らずだ、ってさんざん言ってたくせに、あんな顔して自分のほうが夢見てたわけよ。冗談じゃない」朋江が顔を歪ませて同調する。「せっかくああいうババアがいない世界に来たのに、これから永遠に一緒なんてゾッとする」
「…というわけで、時枝先生にはあちらにお帰り願いました」季里子は心底愉快そうだった。時枝のその後の様子からして、相当残酷に追い返したに違いない。勝呂はそう察すると、季里子に対して初めて不快な感情を抱いた。
「本当に鏡とヒイロさんは、つながってたんだ」
結の口調は妙に平たかった。恐怖を通り越して呆然としているのかもしれない。
「じゃああなたは、佐原浩美さんなの?」
奈波がこわばった表情で季里子を見つめる。季里子は少し目を見開いた。「へえ、そんな名前まで調べ済みか。深谷、あんたやっぱ優秀だわ。…そうだなあ、そうだともいえるけど、正解でもないかな」
佐原浩美は過去の名であり、今はもう季里子──ヒイロなのだから。そういうことなのだろうか。勝呂はそう思ったのだが、公輝の考えは違うらしかった。
「そうか…そういうことなのか」
一瞬の間をおいて呟く。「先輩は佐原浩美だ。そして…多加木舞なんですね」
「公輝、それどういう意味だ?」
自分でも場にそぐわないと感じられるほど間抜けな声で、勝呂は問い返した。
「そのままの意味だよ。ヒイロさんは現れるごとに違う容姿になっているはずだ。前にヒイロさんは自分の好きなように顔を変えられるのかって考えたことあったよな?あれは半分正しい。ただし自由自在というわけではなくて、つまりふたりの容姿の配分を調整してるだけなんだ」
「そういうこと」季里子は薄ら笑いを浮かべている。「でもだいたいいつも同じ系統の顔ではいるの。お互いのいいところを残してできるだけ綺麗な外見にしようと思うとそうなっちゃうんだよね。やっぱり伝説の少女は美しくないと」
季里子のどこがどうとはいえないがアンバランスな顔立ち、ムラのある気性はそのせいだったのだ。多重人格の反対、ひとりの人間に複数の人格が生まれたのではなく、複数の人格によってひとりの人間が作られた。人格は統合されていないようだが…
同じことを考えたらしい公輝が聞く。「ぼくと接していた先輩も、その時どきによって違う人だったわけだ。今話しているのはどちらですか」
「さあね。どうだっていいじゃない。さっきからあんた、ふたりとかどちらとか言ってるけど、あたしが本当にふたりだけでできているかどうかわかんないよ」
「馬鹿な」思わず勝呂は叫んでいた。「行方不明になったのは過去ふたりだけだ」
「そう言い切れるの?単なる家出と思われてる子は、実は鏡に近寄るところを見られてないだけかもしれない。鏡の向こうへの憧れを周りに隠していただけかもしれない。あんたたちが調べることができたのが単にふたりだけだったのかもよ?」
にっと笑う季里子が、今になってやっと、完全に見知らぬ人間に見えた。ここにいるのは先輩じゃない、得体の知れない“混ざり物”であると思えるようになったのだ。
「次に現れるヒイロさんは、今までと少し感じが変わるしね」
その言葉は勝呂にはすぐに測りかねるものだったが、奈波が心持ち青ざめて見た相手によってやっと理解した。次からは辻朋江が加わり、さらに複雑に混ざりあった三人の(もしくはそれ以上か?)ヒイロさんという合作が出来上がるのだ。
佐原広美や多加木舞の写真を思い浮かべる。あの時自分は誰かに似ていると感じたのではなかっただろうか。どこかにいそうな顔だと考えなかったか。当然だった。通った鼻筋や大きな目など、“いいとこ取り”をして造られた季里子の姿。そこに朋江の一部分が追加されるのだ。
「中島千種…」
奈波が思わず洩らした呟きを季里子は聞きとがめた。「ふうん、まったくよくご存じだこと。そういえば前はそんな名前だっけね」窓ガラスにもたれて独り言のように続ける。
「やっぱり退屈なんだよねえ。つい向こう側にちょっかいかけたくなっちゃうんだ」
「退屈なら戻ってくればいい」公輝がまっすぐに季里子を見た。「辻はともかく先輩…たちは…今ウラシマとか言われて不思議がられはするだろうけど。樋口季里子は消えてしまうけど。戻ってくればいいじゃないか」
「簡単に言ってくれるけど、そういうわけにもいかないんだよね。あたしたちが向こうに出るには混ざりあってないと。そういう〈力〉が働いてるの」
「力…」
「ヒイロがいつ現れても、みんな自然に受け入れることを不思議だと思わなかった?受験の記録どころかまともな書類なんてひとつもないってのに。〈力〉は校内中の人間に暗示をかけられるほど強い。その〈力〉が決めるんだよ、こちらに来たいと望む者を受け入れるかどうかも、そして…去ることは許されないとも」
「それじゃあたしたちも、出られないの」
結が相変わらず平静な声で聞いた。今までそれを心配することすら忘れていた勝呂は、いっぺんに身体が冷たくなった。
「あんたたちはまだちゃんと受け入れられたわけじゃない。あたしが引っ張ってきたから入れただけだよ。深谷と高崎くん、あんたたちふたりは間違いなく拒まれる。ここは…女の子だけの世界だから。〈力〉がそう決めてるから」
「その力って、なんなんだよ」我知らず上擦った声で勝呂は叫ぶ。
「…ヒイロの三人目だと思ってくれればいいよ。表面に出て話すことはしないけど、彼女がここのヌシといっていいんだから」
やはり他にも消えた少女はいたのか。強い力を持ちこちら側の主となった少女はいつ、なにが理由で鏡を通り抜けたのだろうか。おそらく最初にこちらにやってきたその少女は、理解してくれる人間がいないという孤独をそれまで味わってきたのかもしれない。だとしても、こちらに来てまるっきり自分ひとりの孤独というものを思い知って後悔はしなかったのだろうか?
悔やんだのだ。そうに違いない。そしてもとに戻れない自分の立場を嘆き、現実に生きているくせに満足せずこちらに来たがる少女たちを縛り付けた。自分の寂しさから逃れるために。自由な少女たちを妬んでいるがために。閉じこめられた少女はやはり悔やみ、そして絶望をまぎらわせようと新しい仲間を欲しがる…
「辻、本当は戻りたいんじゃないのか?」
戻れないと聞いたのちに発するには、残酷な問いかもしれなかった。朋江は勝呂を暗い目で睨みつけ、嫌な笑いを浮かべる。「たった今そんなこと思わなくなったわ。これからもヒイロとしてなら向こう側に出られるんだし、その時には素敵な仲間がもっと増えてるんだから」
緊張が走った。
「…先輩はなんのために、ぼくたちを引っ張りこんだんですか」
公輝は季里子──ヒイロさんを先輩と呼び続けていた。勝呂にしてもいきなり呼び名を変える気にもなれない。まして架空のあだ名のようなものだったヒイロなどとは。
「そうだなあ、ひとつにはそろそろ噂の真相ってやつを誰かにしゃべりたくなったのかな。知らん顔して自分の噂聞いてるのも楽しいけど、たまには本当のことを知ってもらいたくなるのね」
「それ以外には」
「ふふ、そっちがメインだね。新しい仲間が欲しくなったの。それも今回はこちらから指名してスカウトしたくなっちゃった。なにせヒイロのイメージキャラクターなんだもの」
全員の注目を浴びる中、綾瀬は唇を開きかけ、結局閉じた。それ以外には眉ひとつ動かさない。かえって周囲のほうが恐怖を感じているのではないかと思えた。
「…だから、先輩は古賀さんの手を引いたんですね」
「まさかあんな不様な綱引きになるとは思わなかったけどね。結果的には良かったのかも。辻が自分の後輩にしたい子がいるらしいから」
朋江はいつのまにか奈波の横にきていた。硬直した奈波を見て、勝呂はとっさに間に割り込む。
「駄目だ、彼女は渡さない!」
「高崎さん、まるで映画のヒーローみたい、そのセリフ。自分でもそんなセリフ実際に使う機会があるなんて思わなかったでしょ?」
朋江はおかしくてたまらないというように勝呂を笑った。どこかヒステリックな調子である。「この子が一緒ならあたしも未練がましく幽霊の真似することもしなくて済むわ。高崎さんと引き離せるんだから」
朋江が奈波の腕を掴もうとした。「やだっ」と、反射的に奈波は払いのける。
「こっちの彼女のほうは動じてないね。さすが生まれついてのヒイロさんじゃない」
季里子が綾瀬に近付いた。
「勝手に決めないで」
いつもどおりの静かなアルトで、綾瀬が言った。こちらに来てから綾瀬が話すのは初めてだった。
「あたしはさっきまでヒイロなんて話自体知らなかった。そんなものに生まれついてるなんて決め付けられるのは迷惑です」
さすがの季里子も綾瀬の態度にやや怯んだようだった。すかさず公輝がその前に立ちはだかる。
「すみませんが先輩、彼女はぼくたちと帰るんです」
「…あんたたちは帰ってもいいよ。どうせ誰に言ったってこんな話信じちゃもらえないだろうし、鏡をどうにかしようとしたらこっちの彼女たちが永遠に帰る望みをなくすだけだからね」
「勝呂、走れっ!」
公輝が結に目配せして、身を翻した。綾瀬の手を引いている。勝呂は慌てて奈波の手首を掴んで後を追った。鏡のところまで戻って、いちかばちか向こう側に通り抜けられないか試す気なのだ。
こんなに奥まで廊下を進むのではなかった、と勝呂は息を切らせながら思った。奈波を連れて、なおかつ奈波をかばうような姿勢で走ってはサッカー部部長といえども速度が上がらない。公輝のほうは結にも気をつけなければならないので、さらに無理をしているようだった。
追ってくる足跡がひとつしか聞こえないことに気付いて思わず振り返ると、朋江のすさまじい形相が見えた。すぐに目を逸らして季里子はどこにいったのかと考える。窓ガラスにもたれていた季里子…綾瀬に近寄ろうとして、公輝に押し戻された季里子。
はっとして横の窓を見た。季里子と目が合ったと思った瞬間、その姿がぶれてふたつに分かれた。
「公輝、窓!」
勝呂の悲鳴に全員が窓を見た。季節はずれの夏服の少女がこちらと並んで窓ガラスの中を走っている。多加木舞だ。
「綱引きの次は鬼ごっこね。それも手つなぎ鬼…」勝呂を見てにやりと笑う。
ヒイロを構成していた人格が分かれたのだ。勝呂たちは窓からできるだけ離れるよう廊下の内側に寄った。
その途端、廊下と教室の間の曇りガラスからにゅうっ、と二本の手が突きだされる。
「うわっ」
喉を絞められそうになった公輝がのけぞってかわす。手はそのまま伸びてきて、その先から見慣れない制服姿が現れた。
(佐原浩美だ)
「自分たちは助かるってわかってるんだから、騎士道精神なんて捨てなさい!無事に帰す気でいたけど、生きて帰さなきゃいけない理由なんてこっちにはないんだから。時枝みたいになってから帰してやってもいいんだからね!」
季里子の面影が残る(逆か?)顔立ちで季里子そのままの話し方をする佐原浩美が、現実には十三年前に消えた女子高校生だとという実感がわかなかった。公輝もそのようで、足は止めることなく怒鳴り返す。
「騎士道精神は捨てても、先輩に叩き込まれた記者根性が抜けないんですよ!なんとしても生き証人ごと戻らせてもらいます!」
(なに言ってんだ、公輝のやつ…だいたい怒鳴りながら走ってたらスピードが落ちるだろうが。せっかく資料室があと数メートルだってのに)
「あたしは先輩なんかじゃない!」
(あと1メートル)
「先輩ですよ!6年と…13年、上だけど」
資料室に飛び込み、全員でがらくたを積み上げて扉を塞いだ。それでも文字通り神出鬼没の彼女たちを押さえておけるか誰にもわからない。急いで鏡に駆け寄る。
「よし、いけるぞ!結、早く!」鏡に手を突っ込み、向こう側に抜けるのを見て公輝が叫んだ。もう片方の手はまだ綾瀬につながれている。
結は走っている間も心ここにあらずといった様子だったが、今もゆっくりと公輝の顔を見上げ、首を振った。
「テル、あたし…ここに残ろうと思う」
「結?!」
「辻さんとか、ここにいる人たちがあたしには他人とは思えない。あぁあたしにそっくりだ、さっきからずっとそう思ってた」
「おい、そんな…」
「あたし不安だったの。なんの取り柄もないあたしに、テルはいつか飽きちゃうんじゃないかって。テルのまわりにはあの先輩…ヒイロさんや、有村さんやそのお姉さん、それに古賀さん」結は公輝と綾瀬がつないでいる手を見つめた。「最近はあたしより綺麗な人がたくさん関わってきて、あたしは必死でついてくるだけだった」
「な、なに言ってんだよ、結…ともかく出よう、な?」
「有村さんは勝呂くんが守ってくれる。古賀さんはテルが助ける。あたしはふたりの代わりに…ううん、やっぱりあたし自身がここにいたいんだ」
必死の形相で何か言い掛ける公輝を、結は構わず突き飛ばした。綾瀬もろとも公輝が鏡の向こうに倒れこむ。
「松永、帰ろう。公輝はお前以外のことなんか眼中にないよ。一緒に行動してきた俺が言うんだから間違いない」
「ありがと、勝呂くん。さよなら」
勝呂の説得が結には耳に入っていないようだった。うわの空で聞き流して結はそっと勝呂と奈波を押しやろうとする。
鏡に足を踏み入れたところで、もとの世界から公輝が必死に戻ってこようとしているのが見えた。綾瀬の手は既に離れている。季里子という媒体もなく、もう出られはしてもこちらに入ってこれないらしい。
結のほうに手を伸ばそうとしたその時、奈波がひゅっと息を吸い込むのが聞こえた。
「高崎くん、あ、足に」
震えながら訴える奈波を見て、勝呂はおそるおそる足もとを見た。
奈波の片足をつかむ腕があった。
(ちくしょう、入り口は塞いだはずなのに…やっぱりあいつらには意味がなかったのか?どこだって自由自在に出入りできるっていうのか)
腕は鏡の中から伸びていた。両方の世界に半身ずつ置いている状態の勝呂にも、腕の本体は見ることができない。鏡そのものに溶け込んでいるとしか思えなかった。
引き剥がそうとして勝呂が腕に触れると、その腕は一瞬びくりと引っ込みかけた。が、すぐに気を取り直したかのように奈波の足首に指を食い込ませる。
誰の腕だろうか。勝呂は腕だけの相手と格闘しながら考えた。辻朋江?佐原浩美?多加木舞?白くやわらかく、だが恐ろしく強い力を持ったその腕は。
(──強い、力)
相手が誰だか、わかった。
「おまえが…三人目か。主ってやつなんだな。先回りしてここで待ち伏せてたんだ」
気がつくと、綾瀬が鏡を叩いていた。加勢してくれようとしているのだ。公輝もつられて鏡を殴る。結は呆然と見守っているだけだった。
腕は呆れるほど頑固だった。びくともしないその指を舌打ちしながら見て、勝呂は妙な印象を抱いた。
(小さい)
女の子の腕にしてもそれはあまりにもか細かった。少女というより…幼女のような。
その時。
「お前ら、なにやってるんだ?!」
もとの世界から、公輝のものでも綾瀬のものでもない声が唐突に聞こえてきた。勝呂が顔を上げると、鏡に半身を突っ込んでいる勝呂を目を丸くして見つめる男と目が合った。
その男…川路は、資料室の入り口に立ちはだかったまま固まっていた。おそらく先ほど綾瀬に突っぱねられても気になって、勝呂たちが向かった方向に見当をつけてうろついていたのだろう。やっと見つけたものの、目の前には信じがたい光景が繰り広げられている。
(この忙しいときに、なんてタイミングだよ)
勝呂は舌打ちしたが、それは実は絶妙のタイミングだった。
急に腕の力が抜けた。悲痛な叫び声が鏡の中から響いてきた。立ち直った奈波とすかさずもとの世界に転がり込んだ勝呂は、鏡の中から靄のように立ちのぼってくる少女の姿を見た。
それは本当に幼い少女だった。
『こわい…怖いよ。助けて』
大きな目を見開いて涙を流しながら、少女の視線は川路に釘づけになっていた。
何が起こったのかと川路の顔を見ると、こちらも尋常ではない顔色をしていた。ぶるぶると身体を震わせて、顔は真っ青になっている。
「なんだ、これは…なんのトリックだ」
『やだ、やだ、うちに帰してぇっ!』
「やめろーっ」
川路は鏡に殴りかかった。少女は泣き叫びながらじわじわと消えていったが、川路は気がついているのかもあやしい。その勢いに、公輝は我に返って怒鳴った。「よせ、まだ結が中にいるんだ!」
「ぶち壊してやる、また…殺してやる」
憑かれたように暴れる川路を押さえ込みながら、公輝は鏡の向こうに叫ぶ。「結!頼むから出てきてくれ!お願いだから…出てきてくれよ」
どんなときでも余裕のある態度を崩したことのない公輝が、顔を歪ませていた。考えるより先に勝呂の身体は動いて、川路を押さえる役を公輝と替わっていた。綾瀬や奈波も手を貸す。
身軽になった公輝は鏡に手をつき、結を呼び続けた。これまで聞いたことのない公輝の悲痛な声に、結が向こう側からふらふらと近付いてくるのが見えた。
「…テル」
「結…ほら、こっちに来いよ。高校生なんて永遠にやるもんじゃないよ。留年もしてないのにさ」
こんなときでも公輝らしい言い方に、結は思わず微笑んだ。公輝は静かに呼び掛け続ける。
「俺たちはみんな一緒に卒業して、一緒に年を取っていくんだ。そんなところにいたいなんて嘘だ。そっちにいる奴らが本当に幸せそうに見えたか?結はあんながらんとした世界にいるより…俺といたほうがいいに決まってるんだ。そのほうが楽しいに決まってるんだ」
祈るような公輝の口調は、暴れる川路を必死で引き止めている勝呂の耳にも届いた。
(松永、早く戻ってこい…この馬鹿が鏡をぶち割らないうちに。俺からも頼みたいよ)
…やがて、結の手がおずおずと差し出された。鏡越しに公輝の手と合わさる。
ふたりの手がしっかりとつながれた。
鏡を越えて、結が公輝に抱きついてきた。
戻ってきた結を見て誰もがホッとして気を抜いたすきに、川路が勝呂たちの手を振り払って鏡に突進した。手にはいつのまにか、壁に立て掛けてあった椅子を持っていた。時枝がそれで鏡を割ろうとしていたという椅子だ。
あっという間もなく、椅子は鏡に力一杯振り下ろされていた。
──大きな、だが意外と鈍い音を立てて、鏡は粉々になった。
「…みんな、無事か?」
抱き締めたままの結を守る姿勢で、身を伏せた公輝がまず言った。
「大丈夫だ」
勝呂が起き上がる。とっさに奈波をかばうこともできず頭を抱えていた勝呂は、奈波が怪我らしい怪我もなく立ち上がるのを見てほっとした。綾瀬も平気な顔でスカートを払っている。
「先生。…川路先生?」
鏡のあったほうを見て勝呂は目を疑った。川路が鏡の破片にまみれるように倒れている。うつぶせになった喉元から勢いよく血が流れ出ていた。鏡が割れた瞬間、飛んできた破片を正面から受けたのだ。ぴくりとも動かなかった。
だが勝呂たちが見ていたのは、生死もさだかでない川路の惨状ではなかった。
鏡が嵌め込まれていた場所の壁が変色している。今にも崩れそうなほどにぼろぼろな壁は古いせいばかりではなさそうだ。その昔この場所に壁を塗った人物が素人であることが明らかな塗られよう、そして内側から何かに侵食されているような、不気味な湿気。
勝呂たちの見ている中、壁の一部が本当に崩れ落ちてきた。結が小さく悲鳴を上げて公輝にすがりつく。
崩れた壁から現れたのは、理科室でお馴染みの頭蓋骨だった。
読んでいただき、どうもありがとうございました!




