第五章
「あ、ちょうどよかった古賀さん。俺は二年の深谷、新聞部長」
公輝はさっきまでとまったく同じ口調で自己紹介した。かえって勝呂や奈波が一歩引いてしまう。公輝と話していた一年生はとっくに(逃げるように)去っていた。
綾瀬は返事をせず、公輝の顔を見つめている。勝呂には少しだけ公輝が動揺したように見えた。
無理もない。天下の美少女に正面から見つめられてどぎまぎしない男などいないだろう。自分ならあっという間に全身の血が顔面に集中したに違いない、と勝呂は奈波の手前もあってほっとしたような、なぜか残念なような不思議な気分になった。
勝呂が綾瀬を見る距離はだんだん縮まっていて、今は1メートルと離れていない。間近で見ても人形のように滑らかな肌をしている。大きな瞳は公輝に無言で先を促していた。
「それで、えーと、ちょっと話ができたらと思うんだけど」
柄にもなく言葉を途切れさせながら聞いた公輝に、綾瀬はあっさり答えた。
「はい」
時枝の一件の際少しだけ聞いた、低く深みのある声。
勝呂は内心、もしかしたら綾瀬は自分たちを無視して行ってしまうのではないかと思っていた。傲慢というのではなく、そうしても当然の雰囲気が綾瀬にはあるのだ。
知らない上級生が三人もやってきていきなり話しかけてきたら、普通でも当惑するだろう。だが綾瀬はきちんと応対してくれるようだった。告白しようとして呼び出した三年生を空気のようにきれいに無視して帰ったという話が広まったことがあるが、それはやはりデマのようだった。
綾瀬が応じてくれたので、公輝は少し場所を変えようと提案した。教室内にはほとんど生徒は残っていなかったが、綾瀬と上級生の会話は興味津々に違いないだろうし、明日にはまた光輝たちが綾瀬を“直撃”したことは知れ渡るにしろ話くらいは落ち着いてしたい。
だがひと気がないからといってあまり寂しいところに呼びだすのも綾瀬に警戒心を抱かせる(綾瀬が怯えるとは思えなかったし、話の内容はすでに怪しいには違いないのだが)ので、結局四人はいったん外に出て、非常階段の踊り場に移動した。校庭とは反対側なので他の生徒に気付かれにくく、一応は屋外なので息苦しさもない。もっともひとつの部屋にこもって話すのに息苦しさを感じるのは、綾瀬でなく緊張した勝呂たちのほうだった。
階段に少しずつずれて座る。綾瀬は手すりにもたれただけで座ろうとしなかった。
「あのさ、古賀さんってヒイロさんなの?」
開口一番、公輝はあまりにもストレートな質問をした。ひたすら見守るだけの勝呂と奈波のほうがおたおたしてしまったが、それに対する綾瀬の返事こそが誰も想像していないものだった。
「…ヒイロさんって、なんですか?」
聞き上手の公輝は今回もある程度計算した上で真っ正面から切り込んだに違いないのだが、この答えには一瞬口を開けて黙り込んでしまった。
「なんですか、って、そりゃ…例の噂のだよ」否定されることや笑われることは覚悟していたが、ヒイロさんそのものを知らないと言われては話ができない。「校内中が知ってるよ。一度くらい聞いたことない?」
「他の子と話すことがないので」
言われてみれば、いつもひとりでいる綾瀬には情報源がない。教室でのおしゃべりを小耳に挟もうにも、ヒイロさん本人といわれている綾瀬に聞こえるような場所で話す者もいないだろう。
「じゃあ、自分がヒイロさんだと思われてることも知らないんだ」
公輝は困惑している。こうしてとぼけ通すのがヒイロさんのやり方かもしれないが、もともと信憑性のない噂であり、普通に考えればこの反応は明らかに綾瀬が無関係であることを示している。
「わたしが?」
綾瀬は小首をかしげた。絵になるポーズだが、綾瀬の顔には感情がうかがえない。そういえば綾瀬が笑っているところを見た者はいるのだろうか、と勝呂は関係ない思考に流れた。そんな奴がいたらずいぶん果報者だが、その笑顔に一生悩まされそうでもある。
ヒイロさんであるかどうかを本人に問いただす、という目的はあっという間に果たしてしまった。上級生のくせに噂を真に受けて夢みたいなことを信じ込んだ間抜けとして綾瀬に見られているのかと思うと、勝呂は逃げ出したくなる。奈波は勝呂と目が合うと肩をすくめた。公輝はなりゆき上、綾瀬にヒイロさんの説明をしている。ものはついでと鏡の話も始めた。
「…時枝先生がそんな状態ってことも初めて聞きました。それでなんですね、さっきまで職員室でいろいろ訊ねられたんですが」
相変わらずの無表情で綾瀬はぽつりと言った。表向き時枝の状態は伏せられていたから、無関係ならば誰とも話さない綾瀬が知らないのは無理もなかった。綾瀬が何かしたという噂がすごい速さで伝わってしまったため、教師たちも念のため綾瀬に確認をとったのだろうか。
「でもわたしはヒイロさんという存在ではありません。ヒイロさんというのが自覚なく現われるものならば別ですが」
その言葉に勝呂はある光景を想像した。自分がヒイロさんであることを知らず、子供の頃からの虚構の記憶を持って高校に現われる少女。ごく普通の人間であると思い込んでいたのに、高校生活が終わった瞬間消えていく自分を知る少女…。
(それはとても悲しい)
勝呂はそんな可能性があるか、公輝に目で問い掛けた。公輝もその説は思いつかずにいたらしく迷っている。もしそうだとしたら、たとえ正真正銘のヒイロさんをつかまえて問い詰めたところで意味はない。
綾瀬は聡明で、大人っぽい話し方をする。若い女の子には不釣り合いなほど硬いその話し方も綾瀬にはおかしくなかった。
しばらく迷った末、公輝はこれ以上綾瀬を引き止める理由が見つからなかったらしく腰を上げた。「いきなり変なこと言ってごめん。バカな二年生につきあわせて迷惑かけちゃったな」
お開きを宣言した公輝に、綾瀬が目を向けた。
「その鏡、まだ調べてないんですよね」
「近いうち調べようと思ってたんだけどね。…まあこっちもどうせ単なる噂に決まってるけどさ。新聞部どころかオカルト研究会みたいでしょ俺たち」すっかり自嘲気味になってしまった公輝の様子も気にとめず、綾瀬はまた意外なことを言いだした。
「わたしも興味があります。今から行ってきます」
行きましょう、でなく行ってきます、というところが綾瀬らしかった。上級生に(でなくても)ついて行くでもなく、ついて来てもらうでもなく、常にひとりで行動する者の言葉だ。
だがそう言われて見送るわけにはいかない。勝呂たちは同行を申し出て、一行は非常階段を下り始めた。
「おい、こら、そこっ!なにしてるんだ?」
下から怒鳴られて思わず足を止める。体育教師の川路がこちらを見上げていた。川路は常日頃から居丈高な態度で生徒たちに疎まれており、特に女子からは『目つきがいやらしくてキモい』と忌み嫌われている。
「話をしてました」
公輝が少し大きめの声で返すと、川路は綾瀬から公輝に視線を移す。「なんの話だ?一年生を取り囲んでこんな場所で。古賀、何か妙な因縁でもつけられたんじゃないだろうな」
「いいえ」
短く答える綾瀬の声で力を得たように、川路は勝呂たちを睨んだ。「本当か?いいんだぞ正直に言って。口止めされてるんだろう、どんな脅しをかけられていようと先生が守ってやるから大丈夫だ」
勝手に話を作る川路を勝呂は呆れて見下ろしていた。綾瀬に頼られたくてたまらないのだ。綾瀬はそれを喜ぶタイプとも思えないから、長いこと話しかけて相手に調子に乗らせないよう最低限の返事しかしなかったに違いない。
これが綾瀬と一対一で会話している男子生徒であれば、さらにねちねちと苛められることが想像できた。が、勝呂たちは複数であり女子の奈波も加わっていたので、とりあえず叱るきっかけがつかめずにいるようだ。
(因縁付けてるのはそっちじゃないか)
勝呂はしつこく綾瀬に語りかける川路を見た。一年全部と、二年の一部のクラスで体育を担当しているその教師は、勝呂たちを受け持ってはいない。だが彼が綾瀬ファンということはだれもが知っていた。本人は生徒たちに気取られないようにしているつもりらしかったが、態度が正直すぎるのだ。
「本当に、なんでもありませんから」
綾瀬がもう一度答えると、ひとりでしゃべり続けていた川路ははっとした表情で黙った。
綾瀬の声は時枝の背中に投げかけた言葉同様、凄んでいるわけでもないのに迫力を帯びていた。川路は女王の機嫌を損ねた召使のようにおろおろしている。
四人が階段を下りて川路の脇を通り過ぎようというとき、矛先が勝呂たちのほうに向けられた。「何時だと思ってるんだ?授業が終わったらさっさと帰れよ」
川路は憎悪の感情をむき出しにして、吐き捨てるように言った。
そのまま旧校舎に向かいかけて、四人は結が駆けてくるのに出会った。
「一年の部員の子が、テルたちが古賀綾瀬に会いにきたって教えてくれたの」
綾瀬に聞かれないようにうつむいて囁く結に、公輝はこれから鏡を調べるのだと説明した。
「あたしも行く」
綾瀬をちらりと見てすっと目を逸らし、結は公輝に並んで先を歩き始めた。公輝は小声で綾瀬との会話を話してやっているらしい。
パーティは五人になった。
少し離れて歩く綾瀬を気にしながら、勝呂は奈波に話しかけた。「もう遅いけど平気?」
川路の憎まれ口は当たっていないこともなかった。テストのため半日で終わった今日、準備室で調べものをしていた勝呂たちや職員室に呼ばれていた綾瀬は別として、ほとんどの生徒がとっくに下校している時刻だったのだ。結は熱心なことに今日から部活に出ていたようだが、周囲を見回してみても生徒の姿はすぐに見つけられない。
奈波が笑った。「大詰めで仲間外れにしないで」
「そんなつもりじゃないよ、遅くなったらまずいかなって、その…」
「わかってる、心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから」
今日こそ帰りは送っていこう、と勝呂は突然思いついてその考えに満足していた。何も知らない奈波は前を行く公輝と結の背中を見ながら言う。「それに、鏡の前に立つのは 暮れだか日没直前だかだったよね?ちょうどいいよ」
確かに噂の真偽を確かめるにはちょうどいいが、それはつまり危険ということではないのか。勝呂は準備室での会話を思い出し、奈波が向こうへ行ってしまうのではと根拠のない不安にとらわれる。過去に消えた三人はどことなく似た雰囲気を持っていた。その雰囲気は奈波の持つ雰囲気に近く、それが危なっかしくてできれば先に帰っていてほしかったのだが、ここでメンバーから外されるのが嫌だという奈波の気持ちもよくわかった。
入る前に念のため慎重に様子を見たが、旧校舎に人の気配はなかった。五人は周囲に気を配りつつ中に入る。
この前入った時よりもたくさんの足跡が埃を乱していた。引きずられたような足跡は、錯乱した時枝を半ば抱えるように連れ出した跡だろうか。勝呂はなんとなくその跡を蹴散らすように消しながら歩いた。
二階に上ると、公輝がノートと一緒に持ってきていたペンケースから銀色のものを取り出した。
「なんだ、それ?」
「かぎ針。編み物用の」
前回時枝に見つかった後、結に借りてずっと持っていたという。
「いつチャンスがあるかわからないからな」
奥の資料室の前まで来ると、公輝はノートとペンケースを結に預け、南京錠に手を伸ばした。錠は以前見たときのままだ。時枝は鍵を持っていたから、中に入るのに壊す必要はなかった。
南京錠の鍵穴にかぎ針を差し込み、くい、とひねる。ぴきっ、と軽い音がしてあっけなく錠は外れた。
「…こんなに早く開くとは思わなかった。だからかぎ針って言うんじゃないだろうな」
全員が見守る中、公輝はそう呟きながら扉から外した南京錠をポケットに入れると、一度振り返って勝呂の顔を見てから扉を開けた。
乱雑なのは、時枝が暴れたというせいだろうか。資料室と呼ばれている割に資料といえるものは何もなく、せいぜい物置がいいところだ。広さは先ほどいた準備室と大差がなかったが、準備室より空気が新しく感じるのは、最近慌ただしい空気の入れ替えがあったことを知っているからかもしれない。
壊れた椅子。古くて役に立たなくなった大判の世界地図。錆ついた裁断機。そんながらくたがあふれる中、鏡の嵌め込まれた壁の周囲だけが比較的片付いていた。
窮屈ながら五人が鏡を囲んで立つ。場所を工夫すれば全員の姿を映せそうな大きさだ。
なぜこれほど大型の鏡を、こんな部屋に取り付けたのだろうか。今まで考えもしなかった疑問が勝呂の頭に浮かんだ。洋裁部のため?でもそれなら被服室につけたほうが便利に決まっている。いったいいつから、なんのために、この鏡はあるのか?
古いにもかかわらず、また誰も磨きにくる者などいないのに、鏡の表面にはわずかな曇りもなかった。
部屋に入ってからの沈黙を勝呂が破った。「…日没直前って、いつなんだ?」
「今差し込んでる夕陽が完全に消える、つまりこの部屋が真っ暗になる寸前くらいだろ」
公輝が答えた。室内は薄暗かったが、まだお互いの顔は見分けられる。もう少し間があるようだった。
「ひとりで立つのが条件なら、五人もいたら何も起こらないんじゃないの?」
奈波が言い、勝呂と公輝は顔を見合わせた。それはそうなのだ。だが、ひとり残して外にいては何か起こったときにそれを目撃することも、残ったひとりを万一の時に助けることもできない。
「…鏡に映る範囲にひとりだけなら、いいことにしようか」
公輝は勝手に決めた。もともと半信半疑で来ているのだ。細かいことはこだわらないことにしたらしい。
「じゃあ俺が立つよ」
勝呂は一歩前に出た。もしも本当に辻朋江が中に閉じこめられているというなら、自分が行かなければいけないような気がした。
「いや、俺がいく」
公輝が勝呂を手で制する。ふたりとももとより女子にさせるつもりはなかったので、お互いを止めることだけに必死になった。
「もうそろそろじゃないですか?」
冷静な綾瀬の言葉に、反射的に外を見る。確かに先程より濃く、日が陰っていた。「わたしが、立ってみます」
「でも危ないよ…あ、もちろん何もないに決まってるけど」珍しく理屈に合わないことを言いながら、公輝は綾瀬を引き戻そうとした。もともとひとりでも来る気でいた綾瀬だから、最初から決めていたに違いない。
「ヒイロさんなら、大丈夫なんじゃないですか」
少し口元を緩めて綾瀬は答えた。微笑の前段階にも見えたその表情は、だがそれ以上変化しなかった。
「だから古賀さんがヒイロさんなんかじゃないってことはよくわかったよ。だからここは念のために、俺か勝呂が…」
「それって意味ないんじゃない?」黙っていた結が不意に口を挟んだ。「テル、あれだけ調べてたのに聞いたことないの?」
「なにをだよ」
「基本的に、あの噂は女の子の間だけで広まってるでしょ?その理由はね、ヒイロさんが必ず〈女生徒〉であることと同じく、鏡の前に立って受け入れられるのが女の子だけっていう、限定モノだからなの」
公輝と勝呂は顔を見合わせた。やがて公輝は結のほうを向く。「だからって、古賀さんに行かせろとでも言うのか?」
「テルや高崎くんじゃ無駄だって言っただけだよ」結はいつになく素っ気ない。こんな場合でも女子同士の連帯、というより排他的な意識が生まれたのだろうか。
「じゃああたしが」今度は奈波までが立候補しはじめた。「女の子しか駄目なんでしょ?松永さんに何かあったら深谷くんが悲しむし、古賀さんなら学校中が泣くから、あたしが行くよ」
「そんな無茶苦茶な」勝呂は情けない声を上げた。その奈波がいちばん囚われそうなタイプなのだ。勝呂の慰めなどやはり役には立たなかったのだ。奈波は今も自分を無用の人間だと思い込んでいる。
「ほら、もう時間じゃない」
鏡に手を伸ばす奈波に、公輝が怒鳴った。「やめろよ、有村のこと心配してる奴いっぱいいるんだぞ。勝呂だって、俺だってそうだ」
「ひっ」
その時結が突然、か細い悲鳴を上げた。驚いて全員が結のほうを見ると、戸口近くにいた結の隣にいつのまにか季里子が顔を出している。
「…先輩…」
「こら深谷、ここに来るなら来るってなんであたしに言わない?探偵団の数はずいぶん増えたみたいだけどさ、だからあたしはのけ者ってわけ」
背の高い季里子が入ってきたことで、資料室はちょうどいっぱいになった。まあ綾瀬ちゃんまで、などと呑気に全員の顔を見回す季里子に、公輝がため息をついて聞く。
「先輩、どうしてここが?」
「偶然だよ。帰ろうとして旧校舎の脇を通りかけたら、二階の廊下に人影が見えたの。それでこっそり上がってきたら、なんだか聞き覚えのある声がするじゃない。…ところで、みんな鏡の前に立つ役を譲りあってるみたいだね。じゃあお姉さんが試してあげようか」
「違います!取り合ってるんですよ」公輝は慌てて、だが声を落として答える。外に筒抜けなようでは他にも声を聞き付けてくる者がいるかもしれない。
季里子は暗がりでもはっきりとわかるほど目を輝かせた。「それじゃますます、先行き短い三年生に譲るべきじゃない」そう言うが早いか、季里子は強引に前に出てくると公輝を軽く押し退け、鏡の正面に立った。
どうしてみんなそう、自分が行きたがるんだ?勝呂は季里子を止める気力もなく見守った。はなから信じていないから気楽にできるのか。それとも誰もが(この季里子までもが)心の奥では鏡の向こうの世界に憧れているのか。
「今くらいかな」鼻歌でも歌いだしそうな声で季里子は呟くと、なんのためらいもなく鏡に触れた。鏡に映らないよう戸口に固まって見ていた勝呂たちは息を呑む。
季里子の指先が、鏡の中に消えていた。
「えっ?…なに、これ、マジ?ちょっとぉ」
季里子は目を見開いて、反射的に手を引っ込めようとした。が、腕を激しく動かしても鏡にめりこんだ指先はびくともしない。
「…なんか、ひっぱられてる。どうしよう、あたし…」その言葉どおり、指先はさらに深く鏡の中に引き込まれ、手首が見えなくなろうとしていた。
助けを求めるように、季里子の自由なほうの手がこちらに差しだされ、いちばん近くにいた綾瀬の手を掴む。綾瀬は一瞬びくりとしたが、すぐに自分も握り返して季里子を引き戻そうとした。
だが、鏡の中からの力は想像以上だった。逆に綾瀬がよろめき、引きずり込まれそうになる。とっさに公輝が綾瀬のもう片方の手を掴み、一見季里子と公輝が綾瀬を引っ張り合っているような図になった。
「ちくしょう、なんだこれ?すごい力だ」
公輝は決して非力ではないというのに、驚いたことに公輝までもが二、三歩鏡の前に出た。
季里子は既に、身体の半分ほども鏡の中に入ってしまっていた。その嘘のような光景に、勝呂は恐怖を感じることも忘れた。
他の者も同様らしい。「テル!」と、結が公輝の腕に手をかけた。我に返った勝呂がその結を支え、一瞬後れて奈波も協力する。
奇妙な手つなぎ鬼の状態が出来上がった。
(童話にこういうの、なかったっけか)
のどかにも勝呂はそんなことを考えた。
「やだ、やだ、やめてよぉっ」
これだけの人数で踏み止まろうとしているのに、鏡の中の得体の知れない力は意にも介さず季里子をまず呑み込んだ。
季里子は綾瀬に託した片腕だけをこの世界に残しており、その腕につながった綾瀬は心なしかこわばらせた顔を鏡からほんの数センチのところまで近付けている。
呑み込まれた季里子を目のあたりにして、遅れてきた恐怖のせいかある種の諦めか、一瞬全員が気を抜いた。
その瞬間を見逃さなかったかのように、鏡はいっそうの力をこめて全員を引っ張る。
…あっという間のことだった。
勝呂たちはまとめて、鏡の中に転がり込んだ。
「…どうなったんだよ」
座り込んだ公輝は、目を丸くして周囲を見た。そばに同じように倒れこんでいる勝呂たちも戸惑う。
そこは元通り、資料室の中だったのだ。
「確かに鏡の中に入ったと思ったのに…集団幻覚でも見たのかな」
「ちょっと待って、なんか…おかしくない?」
奈波が左側を見て言った。左側には季里子が入ったときのまま開いた扉がある。
「…あれ?なんでこっち側に入り口があるんだ」
勝呂の言葉に奈波がうなずく。「全部逆さまになってる。ここはさっきまでの資料室じゃなくて…やっぱり鏡の中なんだよ」
そう思って見ると、雑然と積み重なっているがらくたの山、ちっぽけな窓、なにもかもが逆になっていた。
自分たちは今、異世界にいるのだ。
誰の顔にも、その事実を受け止めかねているのが見て取れた。これが現実とは似ても似つかない禍々しい世界であればともかく、ほとんど先ほどまで自分たちがいた世界のままなのだ。実感がわかないのも無理はない。
「じゃもしかして、この部屋の外もちゃんと学校があるの?」結が怯えた声で聞いた。
「きっとそうだろうな。見にいってみよう」公輝が立ち上がり、横にいた綾瀬に手を貸した。
「全員巻き込んじゃってごめん」季里子がスカートを払いながら言った。「ほんと物凄い力で…つい綾瀬ちゃんの手を…」
勝呂たちが総掛かりでもかなわなかったあの〈力〉はなんだったのだろうか。こちらの世界そのものの引力のようなものか。勝呂が聞くと公輝は「まだなんとも言えないけど、とりあえずはみんなで固まって行動しよう。その力の持ち主が…ひとりとは限らないし」
公輝の頭の中には、消えた三人の少女の姿が浮かんでいるに違いなかった。
勝呂は嫌な予感がして、奈波を守るように最後尾についた。
そろそろと出た廊下は、これもまったく勝呂たちには馴染んだものだった。方向が逆なことも、全てがすっかり逆であればそう戸惑うこともない。それ以外のものはなにしろまるで同じなのだから。
先頭の公輝が慎重に進んでいるので、勝呂はゆっくりと歩きながらふと窓を見た。完全に日は落ちて夜が訪れている。こちらの世界も窓からの景色は同じなのか(だとしたら町も──勝呂の家すらきちんと存在していて、そこには両親がいるということではないか?)、確かめようと勝呂は窓に近づく。暗いので自分たちの姿が映ってしまい、目を凝らさないと外は見えないのだ。
「わあっ」
勝呂が思わず上げた悲鳴に、全員が振り返った。「どうした」と聞きかけた公輝も、勝呂の視線の先を見て絶句する。
窓に少女が映っていた。
「…辻…」
「高崎さん、あたしを救いにきてくれたの?」
窓からの声は明瞭だった。朋江は最後に勝呂が見たときよりも荒んだ表情をしていた。
それなのに目は異様に輝いている。「鏡を越えて助けにきてくれる王子さま…だったら良かったのに」自分の言葉を嗤うように、朋江は顔を歪ませた。「あたしのためじゃない、あたしのことなんて本当はなんにも気にしちゃいない!あんなことがあった後であたしが消えたから、後味が悪いだけなのよね?それともその子に近づくための口実に使ったの?」
燃えるような目が奈波に向いた。勝呂は奈波の前に立ちはだかるような姿勢になる。
朋江が笑う。「お姫さまはそっちってわけね。あたしはずっと見てた。全部見てたの。高崎さんたちが調べてるところも、クラスの子たちがあたしの悪口を言うところも。消えたあたしのことを誰も、心配するどころか…笑ってた」
朋江の幽霊騒ぎは今と同じ状況で起こったに違いない。公輝が朋江を刺激しないよう穏やかに話しかけた。「現実の世界にも、そうやって現われることができるんだね」
「そう。姿が映るものであればそこから向こうがのぞけるの。学校は窓やなにかがたくさんあるから、ほとんどどこにでも出られた。戻ることはできないけど…。脅かしてやろうと思って教室に飛び込む真似したけど、結果はこっちの世界に帰ってきただけだった」
(「戻ることはできない」?)
勝呂は深く考える前に聞いた。「辻…もとの世界に戻りたいのか?」
朋江がきっと勝呂を見る。「…戻りたくなんかない!あんななんにもわかってない子たちに囲まれて、だらだら年を取りたくなんかない。あっちではみんなあたしのこと馬鹿にするもの。あたしは受け入れてもらえないんだもの」
「受け入れてないのは辻のほうじゃないか!」勝呂は思わず叫んだ。「辻のほうから周りに壁を作ってたことに気付いてなかっただけだ。あんたたちにはわからない、自分は選ばれた人間だ、なんて言ってたら誰だって背を向けるに決まってる。現実の世界を拒絶したのは辻のほうだ」
そうだ。勝呂は思った。確かに朋江には表面的な友人しかいなかった。それはある意味孤独だ。だがそうなったのが周りの人間の責任だと言い切れるだろうか。
自分の場所がないから、手っ取り早く世界そのものを移動したくなる。そこには自分の場所が最初から用意されていると信じて。
「こっちは、辻を受け入れてくれる場所なのか?」
勝呂の言葉に答えたのは朋江ではなかった。
「受け入れたわ」
その声はなぜか、勝呂たちの側から聞こえてきた。今度は全員が前方を向き直る。
(なぜこの人が返事をするのか?)
「…き、キリコ先輩?」
呆けたような公輝を見て、季里子はくすくすと笑った。先ほどまでとまったく変わらない、朗らかな笑い声だった。「今はそういう名前。本当の名前は深谷たちが最近よく噂してくれてたじゃない」
全員が硬直した。
「…先輩が、ヒイロさん…」
読んでいただき、どうもありがとうございました!




