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第四章


 「もっと早く、見に行ってればよかったな」

 勝呂の沈んだ声に、公輝は目だけをちらと向けた。

 「それで?時枝の代わりに俺たちが得体の知れない目にあって病院送りになりたかったってのか」

 「そんなふうに言うなよ。行こうとして時枝に邪魔されて、その時枝があんなことになったんだぞ」

 時枝は夜の早い時間に、旧校舎資料室の鏡の前に座り込んでいるのを発見された。職員室から見回りに行くといって出ていったきり戻ってこず、戸締まりの確認をしていた別の教師が見付けたのだ。

 声をかけても返事をせず、だらしなく床に座る時枝の様子は、明らかに正常ではなかった。かすり傷ひとつなく、部屋も乱れておらず、何があったのか話すことのできる唯一の人間であるはずの時枝は精神障害を起こしている。見付けた教師がとりあえず職員室に連れていこうとすると、突然室内にあった背もたれの外れた椅子を振り上げて暴れたという。教師の上げた悲鳴で旧校舎の脇を通り掛かった生徒二人が駆け付けて目撃したというから確かだろう。

 時枝が回復する可能性は微妙だということだ。勝呂にしてみれば結局どんな衝撃が時枝を襲ったのかはわからずじまいでも、あの部屋で何かが起こったのならば以前自分たちが入ろうとしたときに起こったとしても不思議ではないのだ。ある意味時枝に救われたことになる、と言いたかったのである。

 「通りかかったっていう三年生に詳しい話聞きにいったんだけど、時枝は連れて行かれるのに抵抗して暴れたっていうよりは、あの鏡を叩き割ろうとしてるみたいに見えたんだってさ」

 相変わらず公輝の行動は素早い。

 「じゃ…やっぱりあの鏡に何かあるんだな」

 「幸か不幸か、鏡は時枝が取り押さえられて無傷だったらしいな。これであの部屋は名実ともに〈開かずの間〉になること確実だけど、近いうちに監視の目を盗んでもう一度行っておかないと」

 公輝の言い方が芝居がかっていて勝呂は笑おうとしたが、気丈な時枝が耐えられなかったような何かが起こる場所なのだ。向かうにはそれ相応に覚悟がいる。公輝はふざけているわけではなかった。

 「それにしても、時枝はずっと見回り続けてたんだな」

 テスト期間を利用してミステリースポットを探険しようというものがいたとは思えない。ずいぶんと律儀なことだ。

 「続けてたんだろうけど…昨日はあれだろ、職員室に居づらかったんじゃないか」

 綾瀬の一件のあと、時枝も他の教師にいろいろ言われたのだろうか。勝呂はあらためて時枝に同情する気になった。

 公輝は取材ノートの表紙に目を落として続ける。「あのことを根に持って、古賀綾瀬が何かしたんじゃないかって評判になってるの、聞いたか?」

 「なんだって?」勝呂は目を丸くした。そういえば教室に来るまでに何度か綾瀬の名を耳にしたが、それは単に昨日の一件が派手に広まっているだけだと思っていた。

 「昨日キリコ先輩が言ってた、ヒイロさん怒らすと怖いってやつ。案外有名みたいだな。案の定時枝があんなことになって、古賀綾瀬は別の意味でみんなから大注目だよ」

 「でも、噂絡みなら鏡のほうだろう?ヒイロさんじゃない」

 「そこはそれ、単にあの部屋が選ばれただけで鏡は関係なかったとか、実はお鏡さまの元締めはヒイロさんなんだとか、いろいろ辻褄合わせようとしてるよ」

 「お鏡さま?」無意味に繰り返しながら、勝呂はみんなの想像力の豊かさに呆れていた。綾瀬が時枝の精神を壊すほどの何をしたというのだろう。

 「で、古賀綾瀬は今日来てるのか」

 「来てるよ。最近続けて来てるのが珍しくて、時枝を『葬った』効果を確認しに来たんじゃないかってこじつけてる奴もいる。でもな、今日までテスト期間だろ?授業さぼるのとは違って、成績が良くても定期試験は受けなきゃまずいから当然なんだよな」

 「その通りだ、深谷!アタマいいだけのことはある」唐突に割り込んできたのは自称綾瀬のファンクラブ会員である。「俺は綾瀬ちゃんを信じてるぞ。だいたい時枝はああいう目にあって当然なんだよ。神聖なる綾瀬ちゃんを姑根性でいびろうなんて思うから悪い」

 「信じてるって言っといて、それじゃ古賀綾瀬が何かしたって言ってるみたいなもんだよ」公輝が苦笑して答えると、聞いているのかいないのか「綾瀬ちゃんは何をしても許されるんだ!誰にだ?俺が許す!」などとよくわからないことを言いながら行ってしまう。

 「ああいう目にあって当然、って…」勝呂は絶句した。精神が崩壊しても自業自得と言われるほどの罪を時枝は犯したのか。

 こんなことがあっても、テストは予定どおり行なわれた。時枝は体調不良で長期休暇を取ることになった、と担任クラスの生徒には説明されたそうだ。


 テストも全科目終了し、明日からは部活が再開される。取材の名目で今までどおり時間がとれる公輝とは違い、勝呂はできれば今日のうちに何か結果を出したいと思っていた。

 「まず、過去の名簿が見たいな」既に半分近くの生徒が帰った教室で、公輝が人差し指を折った。「以前消えた生徒のことと、中島千種、前ヒイロさんの記録が本当に残っていないのかどうか」

 「名簿なんて、生徒に公開してないよ」勝呂が首を振る。

 「俺も職員室にコネはないしな。…おっ、でも新聞記者に伝手はあるぞ。そこから何か出てこないかな」

 「新聞記者?そんな知り合いがいたのか」

 「本物の記者の生活を取材しにいったことがあるんだ。たまにはまともな記事も作る」

 こいつは本当にマスコミ関係に向いているかもしれない、と勝呂は思った。

 「以前の失踪者を調べるにしても、名前がわからなきゃしょうがないしな。よし、電話してみよう」

 公輝はスマホを取り出すと、教室の隅で堂々と話し始めた。それを見送った勝呂は、ふと思いついて奈波の席に行った。

 今しも帰ろうとしていた奈波に話しかける。「あのさ、卒業アルバムってのは、卒業してない生徒は記録されないのかな」

 奈波が不思議そうにうなずく。「中退したらそりゃ…。でも、ヒイロさんのこと言ってるんだったら、お姉ちゃんは確かに一緒に卒業したつもりでいるよ」

 「うん、そっちじゃないんだ。途中でいなくなった子の写真を見たいと思ったんだけど、一、二年のアルバムってのはないし」

 「クラス写真は撮ってるけどね」目を宙に泳がせていた奈波は、やがて勝呂に言った。「もしかしたら、準備室にしまってあるのがそうかもしれない」

 「準備室?」

 「正式な名前は知らないんだけど、図書室の隣にある狭い部屋。そこがいっぱいになったから、旧校舎に本を置くようになったんだよ」

 本好きの奈波は図書委員なのだ。

 「そこに写真が?」

 「前にね、奥の棚にずらっと並んでる卒業アルバムを見たことあるの。そのそばにも写真がたくさんあって、かなり古い日付が書いてあったような」

 「…それ、調べてみたいな。でもそこは一般生徒は立入禁止なんじゃない?」

 「うん。でも委員は入れるの」奈波がいたずらっぽく笑った。

 公輝が通話を終えて近づいてくる。「いないかと思ったけど、運良く社にいたよ。その人が担当したわけじゃないけど、女子高生が失踪したっていうのは確かに記憶にあるって、それで名前と簡単な状況くらいならすぐ調べて折り返し電話くれるってさ」

 勝呂が奈波と話したことを告げると、公輝は奈波に笑いかけた。

 「助かるよ。ほら、有村、役に立ってくれるじゃん」

 勝呂も同意して、奈波はかすかに顔を赤らめた。これで奈波の、理由もない自信のなさが少しは消えるといい、と思った。


 準備室の前で勝呂が待っていると、奈波が図書室から出てきた。当番である一年生をうまく言いくるめて鍵を持ってくることに成功したようだ。

 念のため廊下にひと気がないのを確かめて、二人は準備室に入る。なんとなく埃っぽさを感じるのは、あまり人の出入りがないせいだろうか。狭くて座れそうな椅子がひとつしかなかったので、勝呂は奈波に椅子を譲って自分は机の端に腰掛けた。

 奈波が示したスチールの棚には、確かにここ十数年の卒業アルバムが揃っている。布張りの背表紙が変色しているものもあった。

 公輝は電話待ちという名目で気をきかせ、校庭のベンチに出ていた。電話がかかってきて公輝が戻るまで調べようがないので、二人ははとりあえず美波の年のアルバムを開いてみた。

 当然中島千種の名前も写真もない。奈波が写真の脇を指した。

 「ここに三年五組四十三名って書いてあるでしょ?でも数えると四十二名しかいないんだって。これだけがヒイロさんが消し忘れた名残りなんじゃないかって、この前お姉ちゃんが言ってた」

 勝呂たちと話したあと、美波は懐かしがって卒業アルバムを引っ張り出して眺めていたそうだ。

 一応数えてみて、四十二名であることを確認する。ついでに高校生の美波を探したらすぐに見つかった。奈波と同じ制服を着た美波も、あまり奈波との共通点はなかった。

 勝呂は二人きりの状況に緊張して、沈黙を恐れていた。

 「有村、あんまり姉さんと似てないよね」

 自分の言葉にみるみる奈波の顔がこわばったことで、勝呂は自分がのっけから失策をやらかしたことに気付いた。姉と比較するようなことは言われたくないだろうことは充分察していたはずなのに。

 「みんなそう言うよ。お姉ちゃんは活発で社交的で、友達がいっぱいいる。あたしは陰気で自分の殻に閉じこもってる。あたしのぶんまで家をにぎやかにしてる、ってお姉ちゃんは言うけど、あたしから言わせれば生まれたときから家の中のお姫さまだったお姉ちゃんにかなわなくて黙ってるしかないの。これからだってかなわない」

 「そんなことないよ」

 本気で、力をこめて言ったにもかかわらず、奈波はあまり聞いていなかった。「ほんと言うとね、あたしお姉ちゃんと同じ高校に入りたくなかった。ここか大学付属の女子高かって言われたとき、親に公立に行ってくれって言われて仕方なく来たの。卒業したお姉ちゃんと入れ代わりに入学したあたしに、お姉ちゃんを受け持った先生がお前の姉さんには手を焼いた、なんて話しかけてきた。妹のほうが真面目そうだな、って言いながら、お姉ちゃんみたいな生徒のほうが可愛いと思ってることがわかるの。不公平だよね、真面目で先生を困らせたりしない子はすぐ忘れられてくのに。…あたしだって、すぐみんなから忘れられる」

 「そんなことないって!」

 勝呂はつい大声になり、こっそり準備室にいることを思い出して慌てて口をつぐんだ。奈波がこれほど長く、感情的に話すのは初めてだった。

 「もっと自信持っていいよ、有村は」

 それだけ言って、勝呂は言葉を探して黙る。兄弟のいない勝呂には奈波がなぜそこまで姉にこだわるのか正直理解できない。だが生まれた瞬間から十数年、同じ家で暮らしている年の近い同性を、いろいろな点で意識せずにはいられない気持ちも想像できる気はする。

 奈波は憑物が落ちたかのように、熱の引いた目になった。「やだ、あたし…ごめんね。こんなこと聞かせちゃって、高崎くんが困るよね」

 他の者に見せない面を見せてもらうのは大歓迎だ、と勝呂は思う。奈波はしきりと恥ずかしがっているが、学校では植物的な透明感のある奈波の人間くさいところを知るのは(それがどんな内容であれ)嫌な気のするわけもない。

 「やだなあもう。深谷くんが来ても今の話内緒にしててね」

 ますます勝呂は浮かれてしまう。二人の秘密というのは(これもどんな内容であれ)なかなか良い響きではないか。

 思えば、勢いに乗って告白するには絶好の機会だったのだ。それを浮かれるばかりであっさり逃すところが勝呂らしくはあった。


 「あたしね、鏡の前に立つ子の気持ちがわかる気がするんだ」

 勝呂にはずいぶん砕けた態度をとってくれるようになった奈波が、ぽつりと呟いた。 

 「ここではないどこかに行きたい、って思うことある?」

 「俺は…あんまりそういうこと考えたことない」勝呂は正直に答える。テストの難問を前にしたときや公衆の面前で派手に転んで消えたくなることとは別次元の話のようだ、ということはわかった。

 「高崎くんはそうだね、なさそう」

 「単細胞だから、ってこと?」

 「違うよ、この世界で自分の場所をちゃんと持ってる人だから…。もちろんそれは高崎くん自身が作りだしたポジションなんだけど、あたしみたいな人間は一から自分の場所を作るより、自分の場所が約束されてるどこかへぽんと行っちゃいたい、ってずるいこと考えるんだよね」

 鏡に救いを求める子がみんな、そうだとは限らないけど──と、奈波は付け加える。

 奈波の話は抽象的で、公輝にはわかるかもしれないが勝呂には難しかった。辛うじて質問を思いつく。

 「でも、そのどこかに自分の場所があるかなんて、誰にもわからないじゃないか」

 「そうなんだけどね。今この場所には間違いなく自分の場所がないんだから、きっと別のどこかには用意されてるはず、って思うのかな。もしなかったとしても今いるところと同じ状態になるだけだから」

 どうしてここには自分の場所がないなどと思うのだろう。辻朋江も確かにそんなことを周りにもらして消えた。もしも鏡の中にいるのなら、あちら側の世界には自分の場所が見つかったのだろうか。

 「でも、有村は行くなよ」

 考える前に口から出た言葉に奈波が何か答えようとしたとき、軽いノックの音とともに公輝が入ってきた。

 「電話あったぜ」

 言いながらさり気なく二人の様子を見比べ、勝呂と目を合わせる。『せっかく二人きりにしてやったのに、たいして進展もなかったみたいだな』とあとで耳打ちされそうだ。

 汚れた床にかまわず直接座った公輝に、奈波が聞いた。

 「どうだった?」

 「うん、まずは六年前に失踪した子について聞いた」

 「六年前だったのか」勝呂はうなずきかけてまた顔を上げた。「…まずは?」

 「まあ他はあとでな。ともかく六年前にいなくなったのは、当時三年生だった多加木舞。新聞に報道はされてない」

 「どうして」

 「最終的に家出らしいと結論が出たそうだ。その理由が受験生だというのに少し前から試験もすっぽかして何か考え込み、親とも喧嘩が耐えなかった。そして消えた日、本人が部屋をきちんと片付け、身の回りの整理を済ませていることが判明した。書き置きはなかったが、弟にそのうち自分はなににも縛られない世界に行くのだと話したことがあり、これが自殺を仄めかしてるんじゃないかとそっち方面の捜査はしたらしい」

 「…それって、本当に家出か自殺したんじゃないの」

 「ところが、片付いた部屋を調べた結果、多加木舞の私服はすっかり残っていたんだ。貯金も手付かず。手荷物をまとめた様子もなし。ときは夏休み」

 「学校へ行ったの?」

 奈波が口を挟む。

 「その通り。登校日でもなんでもないのに彼女は制服を着て学校へ向かった。夏期講習で希望者は一部授業を受けに出てきてたらしく、実際彼女を目撃したのはそうして授業を受けにきた同級生だった。旧校舎のほうへ歩いていく彼女を見て、受験勉強を放棄した彼女が何をしているのかと不思議に思ったそうだ。そしてそれっきり、今に至る」

 六年前のアルバムを急いで取り出したが、卒業アルバムにはやはり多加木舞の名はなかった。手分けして未整理の写真をチェックしていく。一、二年と何組にいたかがわからないので順に見ていくしかない。

 発見したのは奈波だった。「あった。二年四組」

 多加木舞は、どこといって特徴のない高校生だった。髪型が重たく見えるのは時代の流行のせいで、一緒に写っている女子生徒もみな似たり寄ったりである。可愛くないこともない顔立ちなのだが、年齢相応の溌剌としたところのない、ふてくされたような表情をしている。もちろん写真一枚では本人の印象はわからない。今年のクラス写真で少年Aとからかわれるほど凶悪な面相で写ってしまった勝呂は余計にそう思う。

 この一年後「なににも縛られない世界」へ行くことは、このころから考えていたのだろうか。

 「写真うつりの悪いタイプだ」公輝はなぜか断言した。顔立ちや雰囲気でわかるのだと冗談とも本気ともつかないことを言う。「生で動いてるところは数段可愛かったんじゃないかなあ」

 「そうかもな、よく見ると鼻筋が通ってるし」勝呂も反対せず写真を見なおした。じっと見ていると誰かに似ているような気がしてくる。誰だろう?

 「まあこれが六年前の顛末だ」

 公輝が電話をしながら取ったらしいノートをめくった。

 「これを聞くためにかけたんだから、俺は礼を言って電話を切ろうとした。そうしたら杉浦さんは──その新聞記者の人だよ──こう続けるんだ。『そっちの事件だけでよかったの?』」

 「そっちの、って…辻の件のことか?」

 「俺もそう思った。だから聞き返したら、そうじゃなかった。もうひとつはさらに古い、十三年前のことだ」

 「十三年、前…まさか、まだ他にも」

 「いたんだな。消えた女子生徒が」

 勝呂と奈波が顔を見合わせていると、公輝はノートに目を落として読み上げた。

 「当時一年生だった佐原浩美。入学早々いなくなったそうだ。熱心な美術部員で、当日も一年だってのにひとりで誰よりも遅くまで絵を描いてたらしい。ちなみにその頃の美術室は旧校舎の二階にあった」はっとした勝呂の目を一瞬見返して黙らせると、公輝は続ける。「杉浦さんの先輩が担当だったとかで聞いてくれたんだけど、佐原浩美の描く絵は抽象的というか、メルヘンチックなテーマばかりだったってさ。それがなにかの証明になるわけじゃないけど」

 たとえば上級生から鏡の噂を聞いて、わざわざ見にいくタイプだったかという証明には、確かになるわけではない。が。

 「その当時から鏡の噂はあったの?」

 奈波の疑問に、公輝は無念そうな顔をした。「残念ながらわからない。ただ鏡そのものはとっくにあったそうだよ。当時は洋裁部というのがあって、服を作るときの寸法取りやチェックに利用してたから、しょっちゅう解放されてた。その日もおそらく開いていた。そのふたつみっつ隣の美術室には、ちょっと用足しに出たというように置きっぱなしの鞄、描きかけの絵、絵の具が絞り出されたパレットなどがそっくり残っていた」

 犯罪に巻き込まれた可能性を考えて(高校の美術室でどんな犯罪に関わることができるかはともかく)、すぐに公開捜査に切り替わったが、結局今まで佐原浩美の行方はおろか、手がかりひとつ見つかっていない。公輝が話を終えると、少しの間三人とも口を利かなかった。

 やがて誰からともなく再び写真あさりに戻り、今度は勝呂が見つけだす。「あった」

 保存状態が悪いので、十三年前の写真はもっと古いように思えた。勝呂はその頃は今の制服と違っていたことを初めて知った。現在のブレザーではなくシャツとジャンパースカートのようなものを着ている。

 佐原浩美は二列目に写っていた。おでこを見せたおさげ髪。この写真を写すひと月前にはまだ中学生だったのが納得できる、意外なほど幼い顔。

 「色白だし化粧ばえしそうだし、このままいってたら今頃はもっと美人になってたかもだな」

 公輝が褒めているのか不謹慎なのかよくわからない感想を洩らした。もともとフェミニストであるから、いいところばかりを探す癖がついているようだ。

 行方は知れなくとも現在までどこかで生きているのなら、佐原浩美は二十七、八歳である。だが勝呂には、鏡の中で高一のまま彷徨っている姿しか想像することができなかった。

 入学早々いなくなったということは、この後すぐのことだ。佐原浩美も多加木舞や辻朋江のように、鏡の向こうへ行こうと決めて行ったのだろうか。それとも好奇心を出した結果の思わぬ事故だったのか。

 「こういう女の子、今でもいるよな」勝呂は言って、弁解するように付け加えた。「あの別に、よくいるタイプだって言ってるわけじゃなくてさ。隣のクラスにいてもおかしくないっていうか」

 「わかるよ。あたしもだれそれに似てるな、って今何人かの顔思い浮かべたもん」

 奈波が同調すると、公輝は意味ありげに写真から顔を上げた。

 「実際今もいるかもな」

 「どういう意味だよ?」

 「最初にこの名前聞いたとき、俺くだらない連想したんだよ。佐原浩美、ヒロミって名前がさ」

 勝呂は首をかしげたが、奈波は察したようだ。「もしかして、ヒイロさんの原型…?」 

 「そう、鏡はどうか知らないけど、ヒイロさんは佐原浩美が消えたときから生まれたんじゃないかってね。ヒイロさんはちゃんと三年間在籍するってことだから、佐原浩美がもともとヒイロさんだったわけじゃなくて、消えた後ヒイロさんになったんだ」

 「それじゃやっぱり、鏡とヒイロさんにはつながりがあるのか」

 綾瀬=ヒイロの鏡元締め説を補強するような意見である。

 「どうもこの二つの噂は同じところから発生した気がするんだよな」公輝がシャープペンで頭をかきながら答える。「念のためにそれ以外に女生徒が行方不明になったことはないか聞いたけど、さすがにもういないみたいだ。単なる家出と判明してるものは別としてだけど…まあ、創立以来しょっちゅう女子が消えるようじゃ、今ごろ廃校になっててもおかしくないよな」

 それに勝呂たちの記憶にも残っていただろう。佐原浩美のときは三つかそこらだったし、多加木舞は自発的に失踪したと結論付けられたのでニュースを見た覚えがなかったのだ。

 「三人か…」

 勝呂はふと思った。時枝は三人の少女を見たのだろうか。佐原浩美はともかく、多加木舞や辻朋江の顔は知っていたはずだ。

 (あの先生なら、状況の異様さも忘れて叱り付けるかもしれないな。「授業をさぼってそんなところでなにしてるの!」なんて…)

 だが現実には、時枝は生徒を叱り付ける気力をすっかり奪い取られたようになってしまっている。

 「でもヒイロさんがこの人だったとして、残りのふたりはなにしてるの?」

 奈波の質問に公輝は笑った。「なにしてるの、って、なんか日常的でいいなあ。鏡の向こうにもひょっとしてこっちみたいな世界がちゃんとあって、普通に生活してたりして」 そう言ってから視線を宙に向ける。「でも佐原浩美の顔は古賀綾瀬とはまったく違うな。好きなだけ美人に顔を変えられる世界なのかな」

 「古賀綾瀬がヒイロさんだって決まったわけじゃないだろ」

 勝呂が控えめに反論すると、公輝はまた考え込んだ。

 「…よしっ。本人に直撃しよう」

 「ちょ、直撃?」

 「気圧されないよう覚悟してくから、大丈夫だ」

 「そういう問題じゃないだろ、おい」

 「もう今日は帰ったかな。帰ってるだろうな。でも一応探してみるか」

 公輝は人の話を聞こうとせず、床から勢い良く立ち上がると制服の埃を払った。

 止める間もなくずんずんと部屋を出る公輝を、勝呂と奈波は呆気にとられて見守っていたが、やがて慌ててあとを追う。


 一年の教室が並ぶ廊下を、公輝は早足で歩いた。

 「まだ誰も本人に聞いた奴いないだろうな」

 「いないに決まってるよ」

 もとから近寄りがたい雰囲気の綾瀬に、不躾にそんな妙なことを聞ける人間はいない。…公輝の他には。

 奈波はなんだか楽しそうについて来ていた。勝呂もこうなったら心配しても始まらない、とだんだん開き直った気持ちになる。

 だが意気込んで来たにもかかわらず、綾瀬は教室にいなかった。

 「こうなったら級友インタビューしちゃうぞ」

 公輝は教室に残っていた一年生をつかまえて綾瀬のことを聞き始めた。突然おかしな二年生につかまった一年生は戸惑っている。

 「…同じクラスっていっても、わたし古賀さんとしゃべったことないんです。この前のことがあってからはいっそう遠巻きにして、みんな様子をうかがうようになったっていうか」

 意外にしっかりした返答をする一年生に公輝はさらに質問した。「時枝の件だね?あれが古賀さんの仕業だってのは一年の間でも噂になってるの?」

 「もうすっごい言われてます。それに最近は幽霊騒ぎまで」

 「幽霊騒ぎ?」

 朋江の幽霊事件が一年にまで伝わっているのかと勝呂は思ったが、実際には少し違っていた。

 「この前の事件よりちょっと前から、古賀さんの周りに変な人影が見えるって…。古賀さんの席は窓際なんだけど、その窓にときどき影がよぎったりするらしいです。わたしは見たことないんですけど」友達と、隣のクラスの子とその友達と、と一年生は影を見たという生徒を列挙しだした。

 朋江のときと似ている。そう思った勝呂の心を読んだように、一年生は声を落として続けた。「見た子によると、その影が行方不明になっている二年の人に似てたって言うんです」

 「でも、みんないなくなった二年生の顔知ってるの?」

 公輝が言うと一年生はわたしはわからないけど見た子がそう言ってたし、などとはっきりしない答えを返した。朋江は生徒会や委員会活動をするでもなく決して目立たない二年生だ。失踪したからといって現時点では顔写真も出回ってはおらず、一年生がよぎった影くらいで判別できるほどよく知っていたとは思えない。

 これだから噂は、と勝呂は軽くため息をついた。おおかた話を面白くするために尾ひれがついたのだろう。尾ひれどころか本体にしてもはなはだ心許ないというのに。

 だが鏡についてもヒイロさんに関しても、一年生の間には既に広まっているらしかった。上級生からこうして語り継がれていくうちに、本体より大きな尾ひれで飾られているかもしれない噂たち。

 「古賀さんがヒイロさんっていう話はどう思う?」

 「えー、でも古賀さん足もあるし、透き通ったりしないし。だいいちヒイロさんってただの噂じゃないんですか?やっぱり人間だと思うけど、でも人間離れしてきれいだからそうでもおかしくないかもしれない」

 さっぱり参考にならない意見を述べていた一年生は、まだ何か言いかけて唐突に口をつぐんだ。

 その時勝呂たちは教室の入り口付近にいた。一年生と公輝はほとんど教室の中に、勝呂と奈波は廊下寄りに。だから勝呂と奈波は一年生より先に気付いており、公輝に急いで合図をしようとしていたところだったのだ。

 多少は予想しているような顔で、公輝は振り返る。

 そこには思ったとおり、綾瀬が立っていた。

読んでいただき、どうもありがとうございました!

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