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インターローグ


 見回りと称して旧校舎に入った時枝かつ代は、普段は厳しく引き締めている表情を歪ませていた。

 …態度の悪い生徒を注意しただけのこと。成績がいいからといって素行の悪さが見逃されていいはずもない。

 時枝はそう自分に言い聞かせる。自分は正しかった、教師として生徒を指導しただけのことなのだ、と。

 それなのに、あの場にいた物見高い生徒たちはほぼ全員、時枝に非難の目を向けた。

 確かに掃除の手を止めていたこと自体が、あれほど騒ぐことではなかったとは時枝自身思う。だがむしろ問題は綾瀬の態度なのだ。素直に謝るでも、女子生徒がよくやるように媚を含んだ目で拗ねてみせるでもない。時枝ばかりが声を荒げ、まるっきりの独り相撲だった。

 それを見て時枝に冷笑を浴びせた生徒たち──彼らが綾瀬の味方をするのは仕方がない。いわゆるカリスマ的な生徒である綾瀬と、煙たい存在である中年の女教師では比較の対象にもなるまい。

 それだけなら我慢もできた。

 『時枝先生の言い分もわからないではないですがね。大勢の生徒たちの前で晒し者にするような真似は行き過ぎではないですか』

 『ただでさえ目立つ生徒ですからな。学校生活に馴染めないのもある意味無理はないでしょう。成績のほうは問題ないのだし、それほど目くじらを立てずとも』

 『あれだけの美人ですからね。あながち古賀だけの問題ではないと思いますよ。特別扱いされ一挙手一投足を注目され続けるというのは相当なプレッシャーがかかっているでしょうし』

 同僚の教師たちまでもがこの有様だ。なかには冗談混じりに『あまり叱り付けると、ひがみだと思われますよ』などと嘲笑する若い教師まで出てくる始末だった。

 足がひとりでに二階に向かう。数日前に樋口季里子と(あの生徒も人を食ったようなところがある。卒業前にもう少しきちんと指導しなければ)二年男子ふたりを見付けたあとは誰もここに入り込んではいないようだ。

 …嫉妬では断じてない。

 実際女教師の綾瀬に対する評価は複雑である。生活態度は感心できないが成績に問題はなし、というのを言い訳にあまり関わりたがらない。個人的な感想を言えばどんな言葉であれ素直にとられないことを承知で警戒しているのだ。

 逆に、男の教師は反応がまちまちだ。特別扱いしまいとしてかえって不自然な態度をとってしまう者、あからさまに贔屓して綾瀬に頼られたがる者(それは成功しているとは言いがたかったが)、時枝を嗤った若い数学教師などは、完全に生徒と同じレベルで綾瀬に憧れているのだ。

 真に教師として綾瀬と接することができるのは自分だけだ、と時枝は自負していた。女の教師は自分が張り合う気も失せるほど完璧な同性として、男の教師は程度はどうあれ意識せずにはおれない異性としてのみの見方しかできていない。全ての生徒と同じ距離を保って(それが生徒の側からかなり遠い距離になっていることもわかっているつもりだ)、公平に扱う自信のある時枝だけにできることだと思っていた。

 同僚の様子を観察し、綾瀬と顔を会わせるずっと前からそのようにわざわざ考えてしまったところから、自分が綾瀬を特別な目で見ていたことに時枝は気付いていない。

 たくさんの新入生に埋もれていても、すぐに見付けることができる、というより否応無しに目が引き付けられる綾瀬のことはもちろん入学したときから知っていた。美しいのは間違いない。同じ年代の、テレビ画面の中で微笑むタレントなど足もとにも及ばないだろう。

 だがそれきり、そばで見る機会もなかった時枝は、綾瀬を結局それだけの少女だと誤解していた。入学してすぐに真面目に登校しなくなったと知り、そしてそれを注意もできないほど同僚たちが圧倒されていることを察して呆れたときは、確かに純粋に、時枝は綾瀬を指導する義務を感じていたのだ。

 それが先日、綾瀬を見かけたときは、用意していた話──欠席日数が進級を脅かす数字に近付いていること──が頭から一瞬で抜け落ちてしまったのだった。生徒や同僚の熱狂ぶりを鼻で笑っていた時枝が、やっと綾瀬の不可解な<引力>のようなものを身体で感じた瞬間だった。

 これではいけない、他の教師と同じように自分までが女子生徒ひとりに屈するようなことは許されない。時枝は何も言えずに去ったその時の自分を思い出しては顔を紅潮させた。綾瀬に笑い者にされているような気がした。

 それがあんな形で爆発したのだ。正直にいって時枝にも、あんな風にみっともなくわめき散らすつもりはなかった。黙って時枝の目を見返す綾瀬が、その並はずれた美貌が、内心劣等感にあふれている時枝の癇に触ったのだ。身動きひとつせずそこにいるだけの綾瀬に、時枝は自分で自分を刺激してしまった。

 …それは、あのように感情でものを言ってしまったのは失敗だったと思う。

 公平に接しなければと思っておきながら、すっかり目の敵にしていた自分を時枝は恥じた。それを認められる点、時枝は間違いなく真摯な教師ではあった。

 考えに耽っている間に、廊下の突き当たりまで来ていた。未だ消息不明の辻朋江が失踪前夜、このあたりにいるのを見かけた者がいたが、彼女もまた噂に振り回されて鏡にすがろうとしたものか。

 ああいう噂はドライな現代の生徒にもまだいくぶんの魅力があるものとみえる。この高校に赴任してそろそろ十年になろうという時枝は、年代が変わるごとに新しいエピソードが加えられていくのをその目で見てきた。

 朋江がまさか本当に鏡の中に消えたとは思えない。が…

 ──あの生徒。

 赴任して四年目、やはり姿を消した女生徒のことを時枝はよく覚えていた。高校生にしては幼い、夢見がちな目をした少女。頭に思い浮かべる少女の姿が常に夏服なのは、少女が消えたのが夏の盛りのことだったからだ。

 無意識にポケットから鍵束を取り出す。今年、使用していない教室の管理は時枝の役割だった。

 いくつかの鍵がつながった輪の中で、おもちゃのような小さい鍵を選び出す。鈍い金色の南京錠を外すと、時枝はゆっくりと室内に入った。

 大きな姿見の前に全身をさらす。流行とは無縁のラインの、野暮ったいスーツに太り気味の身体を包んだ、背の低い中年女が映る。

 幼い頃から武骨な外見だった。それを補うように勉強に身を入れれば面白味のない子だと言われた。もう少し柔らかい容姿をしていたら、中身も相応に和らいだだろうか?

 綾瀬のように、いやあれほどでなくてもいい、美しい十代を過ごすことができていたら。

 自分も夢見るような瞳で、この鏡の言い伝えを信じて、こうして鏡に手を触れただろうか。永遠に老いることのない鏡の中の世界に、旅立つことを望んで。

 本来、時枝は他の同級生たちよりはるかに夢見がちな性格だった。それを知られると外見とのギャップから笑われるであろうことがわかっていたからこそ、あえて中身を器に合わせて矯正してきたのだ。

 時枝は鏡の表面に手を差し出した。

 (…!)

 鏡の冷たく、平らな感触は伝わってこなかった。代わりに、水よりも抵抗が強い液体の中に指を浸した感覚。だが指先は濡れていない。

 まさか、まさか、本当に。

 恐怖も忘れて、時枝は指を鏡の奥へ探らせた。この中には伝説どおりの、老いも死もない世界があるというのか。

 指はなんの障害にもぶつからず、どんどん鏡の中に潜った。

 厳格で奇跡や超常現象など一顧だにしたことのない時枝が、今は迷いもなくこの不可解な事態を受け入れようとしていた。

 …別の世界に行かれるのならそれもいい。

 本当の自分になれる、夢の世界に。

 時枝はだんだんと速度を上げて鏡に手を入れていった。

 手首まですっかり鏡に浸かったところで、見えなくなった自分の手首に何かが当たった。

 反射的に引っ込めようとしたが、手首は動かない。

 誰かの手が向こう側から、時枝の手をつかんでいるのだ。

 恐慌状態に陥った時枝は、目茶苦茶に手足をばたつかせた。だがその手はびくともせず、代わりにかすかな空気の震えのような…少女たちの笑い声が聞こえてきた。

 「ひいっ」

 息を吸い込んで今しも悲鳴を上げようとした瞬間、時枝の上半身は鏡の中に引きずり込まれた。

 くすくすと、そして徐々に大胆になって高笑いする少女たちの声。

 時枝は鏡を通り抜けた世界で、自分が少女たちに囲まれたのを知った。何人いるのだろう?怖さで顔を上げられず、見えるのは少女たちのスカートの襞ばかりだ。

 『いらないわ』

 笑い声に混じって、ひとりの少女が時枝に囁いた。それは悪意したたる口調でもなんでもない、ごく当たり前の軽やかで…無邪気な、少女の声。

 『あなたなんか、いらない』

 辛うじてそれだけを聞き取った時枝は、自分が受け入れようとしたこの異様な世界から逆に拒絶されたことを理解できただろうか。

 何本もの腕が時枝の髪を──袖を──裾を──足首を、汚いものに対するような乱暴な手つきで、持ち上げた。

 楽しげな少女たちのカウントに合わせ、時枝は再び鏡のこちら側へと、投げ捨てられた。

読んでいただき、どうもありがとうございました!

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