第三章
奈波が遠慮がちに話しかけてきたのは翌日のことだった。
「遅くなってごめんね、あの、例の話だけど」
「うん、どうだった?お姉さん知ってるって?」
もちろん内容にも興味はあったが、勝呂は奈波と二人で会話をしているという事実に思わず声を熱くしていた。聞いたのが自分だからだろうが、公輝にでなく自分に伝えてくれているのも嬉しい。
「それがね、いろいろ聞いたことはあるんだって。やっぱり当時もそういう話が流行ったことがあったみたいで。でもその、肝心の内容をね」
奈波はなぜか言葉を濁した。勝呂は奈波の気を軽くしようと明るく言う。「覚えてないよなそりゃ、昔のことだし無理ないよ。有村がすまなそうな顔しなくたっていいって」
「そうじゃないの。あのね、高崎くんたちに直接説明したいんだって…」
奈波の姉は現在大学生である。時間の融通が利くので放課後にでも待ち合わせようと言い出したそうだ。
もう少し二人で話したい気もしたが、そういうことならと勝呂は公輝を呼ぶ。
「それはこっちとしても願ったりだけど、でもいいのかな、高校生の部活につきあわせたりして」
話を聞いた公輝は奈波の顔を見る。奈波は珍しく素っ気ない態度でうなずいた。「かまわないんじゃないかな。本人が乗り気なんだし」
奈波の姉の都合を聞いてから日時の打ち合せをすることに決める。
(有村、実は姉さんとそんなに仲良くないのかな)
普段あまり勘のはたらかない勝呂だったが、この時なんとなくそう思った。
ちょうどそれから24時間ほど後、勝呂は前日同様奈波に控えめな声をかけられた。
「姉に聞いたら、今日はどうかって言うんだけど」
「今日?」
「テスト前だし高崎くんたちも勉強があるから、って言ったんだけどね」この場にいない姉を非難するような表情になった奈波に、勝呂は答える。「俺はいいよ。どうせ帰ったって勉強する気になれないし」
公輝もあっさりOKした。公輝のほうはテスト直前になって焦る必要がないからである。奈波にしてもそうなのだろう。
段取りのよいことに、奈波の姉は場所の指定もしていた。学校から少し離れた隠れ家的なカフェで、高校の近くでは他の生徒に見られる(見られて困ることはないが落ち着かないだろう)から、との選択らしい。そのあたりはやはりもと同じ高校生だった感覚である。
よければ姉に連絡することになっている、と言って奈波はスマホを出すと一階の玄関に向かった。原則として校内での通話は禁止されているが、みんな平気でかけている。奈波はふだん使わないぶん、スマホを使うことが落ち着かず目立たないところまで移動したのだろう。
見送っていた勝呂を公輝がつつく。「もう連絡先は交換したんだろうな」
まだ聞けていなかった。戻ってきたら何気なく提案してみようかと思ったが、ふと思いついて勝呂は答える。「みんなの前でそういうことするの、有村は嫌じゃないかな」
公輝はうなずいた。「そうかもしれないな。最近俺たちと話してるだけでも女子に注目されてるし」
一緒に校門を出たりすればさらに噂が飛びかうだろう。いつか奈波と二人で帰りたいと勝呂は思っているが、そしてその時は堂々としていられるが、まだ何もそういった話のない今は噂の種にされると奈波に悪い。
結局、勝呂と公輝は奈波と少し離れて下校することになった。駅で合流すると待ち合わせの喫茶店に向かう。
奈波の姉が指定したきカフェはこじんまりとしていたが、洒落た店だった。勝呂たちと入れ違いにひと組のカップルが出ていくと、中には三人組の主婦がケーキを食べているだけになった。
大声で笑い会う主婦から離れた奥の席を選んで落ち着く。公輝がアイスコーヒー、勝呂がコーラ、奈波はアップルティーを注文してすぐに、店の扉がちりんと音を立てて開いた。
振り返った勝呂は、別の客が入ってきたのだと思った。が、その女性は勝呂たちを見ると笑みを浮かべながら近づいてきて、公輝の向かい、奈波の横にすとんと座った。
「お待たせ。奈波の姉の、美波です」
奈波とはまるで似ていなかった。パーマをかけた髪は赤みがかった茶色で、明るい顔立ちをしている。勝呂の意見としては奈波のほうが素材は上だと思ったが、化粧や服装が垢抜けていることは認めざるをえない。
性格もまったく違うということはすぐにわかった。席に着くなり「みんな、ケーキ頼んだ?飲み物だけ?だめだなあ、ここはケーキが美味しいことで有名なんだから。あたしが奢るから注文しなよ」とメニューをばんと広げる。
勝呂はわりと甘いものが好きなほうだったが、奈波が首を振ったので遠慮した。公輝はもともと食べない。
「いいの?つまんないな、じゃあたしだけ食べていい?えーとね、レモンメレンゲパイとアメリカン」
引き返してきたウエイトレスに注文を済ませると、美波は勝呂と公輝の顔を交互に見た。面白がっているような表情だった。
「で、ナナの彼氏はどっち?」
「お姉ちゃん!」
奈波の抗議を無視して、美波は笑う。「二人とも結構イケてるよ、うん。特にそっちの子、年上にモテるタイプじゃない?」
言われた公輝は苦笑している。勝呂は呆気にとられていた。こちらの話の内容を美波はわかっているのだろうか。
「そんなことどうでもいいから、噂のこと話してよ。自分で話すって言ったのお姉ちゃんでしょ」
奈波は本気で姉に腹を立てているようだった。運ばれてきたアップルティーを受け取ると、あとは黙り込んでしまう。
「そうだった。噂、噂ね…あったよいろいろと。きわめつけはやっぱりヒイロさんだね。まだあるんでしょ、この話」
「じゃまずそれから聞かせてください」
すかさずノートを広げた公輝に美波が話した内容は、今広まっている話とほとんど変わりがなかった。勝呂はつい話より、並んだ姉妹の比較をしてしまう。美波のエメラルドのピアスは、自己主張の激しそうな彼女によく似合っていた。奈波が耳に飾るならきらきらした石より可憐な珊瑚か真珠あたりだろうか。
聞き役を公輝に任せてぼんやりそんなことを考えていた勝呂だが、美波の話にはとんでもない続きがあったのだ。
「それがさ、噂だけじゃなくなっちゃったんだよ」
「というと?」
「いたんだよ、あたしたちの学年に。ヒイロさんがね」
ケーキをつつきながら何気なく言ってみせた美波は、実際は三人の反応をうかがっていたようだ。全員がぽかんとして動きを止めてしまったことに満足気な顔になる。
「…つまり、記憶にあって記録にない生徒がいたと?」
「そう。うちの学年の女子は短大に進んだ子が多くてね」公輝の質問に美波は奇妙な返答をよこしたが、要するにこういうことだった。
短大に進んだ同級生はもう卒業となるため、その前に高校の同窓会を開こうという話が持ち上がった。美波にも連絡があり、その時幹事から住所が変わっていて連絡先のわからない二、三名の級友の行方について質問された。不明だった級友たちの消息はつぎつぎ判明していったが、誰も卒業後のことを知らない級友がひとり残ったのだった。
「それって家の事情かなんかで誰にも言わずに引っ越した人なんじゃないですか」
「最初はみんなそう思ったよ。でもさ、同窓会に呼んだ担任の先生までが首をひねるわけ。口振りからいってどうも、在校記録すら見つからなかったらしいんだよね」
かの生徒が進学したのか就職したのかもわからなかったという。
「なのに誰もがその生徒の存在をはっきり記憶していた」
「そりゃもう、当時の思い出ならわんさとあったんだから。顔や声はもちろん、しゃべった内容から授業中のエピソード、みんななにかしらその子のこと覚えてたよ」
「その生徒の名前は?」
意気込んだ公輝に、美波はふっと懐かしそうな表情になって、言った。
「…ナカジマ、チグサ」テーブルに指で中島千種、と書いてみせる。「今だからそう思うのかもしれないけど、不思議な子だったなあ。美人なんだけどさっぱりしてて、男も女も友達がやたらといて、先輩には可愛がられてたし後輩からも慕われてた。…でも、親友って呼べるような子はいなかったんだね。あの子の家に遊びにいった子はいなかったんだし、学校の外でのつきあいもなかったみたい。あたしも結構仲良かったほうだけど、考えてみたら放課後や休みの日につるんで出かけたことないんだよね。そういう話になるといつも自然な理由をつけて断ってたし、親の方針でスマホも持たせてもらってないって」
学校に潜り込むヒイロさんは、学校の中でしか存在できないのだろうか──公輝がノートに書き付けた文字を、勝呂は横目で読み取った。
「写真はどうなんです?」ふと思いついて勝呂は訊ねた。「クラス写真とか修学旅行とか、全員が必ず写ってる写真があるでしょう」
「あるよ。でも彼女は写ってないの」
食べ終わったケーキの皿を横に押しやり、美波は紙ナプキンで口をぬぐった。「まずクラス写真ね。新学期二日目くらいに撮らされたけど、その日千種は欠席してた。そういう子はあとで撮って隅に載るはずだけど、なぜかなかったんだよね。先生は確かに撮影したって言ってるんだけど…それから修学旅行。これはもう旅行自体参加してなかった」
勝呂はもう一度公輝のノートに目を落とした。学校の外に出ていく修学旅行には、ヒイロさんは参加できなかったのだ。
「クラス写真の撮影日も修学旅行も、欠席理由は病気だったと思う。こうやってひとつひとつ確認してって、千種は本当にヒイロさんだったんだなあってみんなで納得したの」
同じ教室で時を過ごした仲間が異世界の人間だったとわかっても、美波の口調には恐ろしげな様子がなかった。それどころかかえって記憶は薄れず強烈に残ってしまい、会えるものならもう一度会いたいとまで言う。
「記録にだけ残ってても、数年で誰の記憶からも消えちゃうクラスメートよりよほど懐かしいよ。ナナ、あんたなんかすぐ忘れられそうだから気をつけなよ」
美波の言い方に悪気はなかったが、奈波は何も返事をしなかった。
(忘れるわけないよ)
口に出して言うことはできなかったけれど、勝呂は心の中で呟いた。
「ああ鏡ね。聞いたことあるな。千種の…ヒイロさんの話は卒業してからのほうがよく話したけど、そっちは学校にいる間に聞いた」
美波は砂糖をたっぷり入れたコーヒーをすすった。完全にインタビュアーと化した公輝がシャープペンの先でテーブルを軽く叩きながら聞く。
「その頃から開かずの間でしたか?」
「うん。だから入ったことはなかった。でもあの中に鏡が作りつけになってて、深夜あの前に立つと見たことのない女の子が映って、知りたいことなんでも教えてくれるとか」
ニューヴァージョンの登場だ。昔だから旧ヴァージョンだろうか。公輝が急いでメモを取った。
「実際やってみた人はいたのかな?」
「さあ、少なくともあたしの周りにはいなかったけどね。だって深夜あんなとこまで忍び込むなんて、他のものが出そうで気持ち悪いじゃん」
「他のもの」
「裸足で廊下を走り回る子供の霊とか」
子供の噂は意外と根強い。こうしてそれぞれの噂を年代順にさかのぼっていけば、どの噂がいつ発生し、どのように形を変えていったのかが明確になりそうな気になる。噂などという漠然とした、目に見えないものであっても。
「今じゃ、そのふたつの噂はずいぶん変形してますよ」
公輝は美波に子供と鏡の話の現代版を聞かせる。「…で、その鏡の噂を信じてた子が姿を消しました」
美波にどこまで話すか、特に打ち合わせていたわけではなかった。公輝はさらりと言ったが黙って聞いていた奈波は目を見開いている。
「へえ、あの鏡の中に閉じこめられてるってわけ?」
笑い飛ばしもせず美波は身を乗り出す。考えてみればヒイロさんをその目で見ているのだから、頭から疑うようなことはなくて当たり前だ。
「それはどうでしょうか」
「う、ちょっと待ってよ」
美波は公輝の返事にかぶせるようにして人差し指を立てると、その指を自分のこめかみに持っていった。「確か…一年の時だったかな、ずっと昔にやっぱり学校でいなくなった子がいるって聞いたような」
「本当ですか?!」
「そうそう、聞いたよ絶対。先輩が教えてくれたんだ。その先輩が一年だったときだったか、その前の年だったかな?とにかく女の子が失踪したんだって」
みっつ年上の美波が高校一年だったのは四年前。その時の先輩が入学したかその前かというのはさらに一、二年さかのぼるので、今から五~六年前のことになる。勝呂は必死で計算しながら考えた。その頃勝呂は小学生だ。それも高学年。そんなニュースを聞いたことがあっただろうか?
「その子は見つかったんですか」
「あたしが聞いた限りでは、それっきり。生きてるのか死んでるのかも不明」
もともと噂で聞いただけなので、消えた女生徒の名前など詳しいことはそれ以上知らないと美波は言った。
それから店を出るまでは、美波は学校の怪談に飽きてきたのか勝呂たちの高校生活を知りたがった。「あの先生まだいるの?」「うそっ、あたしたちの時は禁止されてたのに、ずるーい」「あたしがいたときはねえ」とコロコロと笑い、早口でしゃべる。それに反比例するように、奈波はひとことも口を利かなかった。
そんな奈波を美波は指さす。「この子って家でもこう。ろくにしゃべらないんだから。あたしがそのぶん家をにぎやかしてるわけよ。学校でもどうせ無愛想なんでしょ?」
「そんなことないです」勝呂は思わず答えた。確かに物静かであまり話さないが、無愛想なのとは絶対に違うと思った。美波の、かすかに妹をこき下ろすような調子に反発を覚えたせいもある。
ところが美波は勝呂の言葉を社交辞令としかとらず「いいよー気を遣わなくて」とのんびり言うだけだった。
「本当ですよ。有村は騒ぐほうじゃないけどみんなに好かれてます。ひそかに思いを寄せる男子もちらほらいるとか」
すました顔で公輝があとをつぎ、勝呂は公輝の足を蹴飛ばした。にらみつけてやろうかとも思ったが、それでは自分で白状しているようなものだ。
「…へえ」
美波が奈波を見る。「ナナ、やるじゃん」
奈波は美波のほうを見ようともしなかった。
これから友達と会うのだという美波と別れた。どうやら大学から夜の約束までの暇つぶしを兼ねていたらしい。公輝が取材のお礼だといって勘定を払い、最初に言ったことを忘れたかのように美波はそれを受けた。
「じゃね、ごちそうさま。ナナ、今日遅くなるって言っといてくれる?それともあんたも遅い?」
「そんなわけないでしょ」
怒ったように奈波は答えた。
美波の姿が見えなくなると、奈波は勝呂と公輝に向き直って軽く頭を下げた。「ごめんね、あたしお姉ちゃんの分も払うから」
財布を出しかけた奈波を公輝が止める。「いいよそんなの。すごいネタいろいろ聞かせてもらったんだから当然だって。有村も協力してくれたんだし」
「でも…変なことばっかり言うんだから。お姉ちゃんは」
奈波は姉に接すると学校にいるときより感情が顔に出るようだ。だがそれはプラスの感情ではない。
「家で話したときからなんか誤解してるみたいだったの。あたしに彼氏ができたんだって思い込んで顔を見たがったんだよ。お姉ちゃんにしてみればあたしが男の子と話をしただけでもすごく意外だったみたい」
「気にしてないよ。それどころか光栄だ、な?勝呂」
いちいちうるさいんだよ、と勝呂は目で公輝を制した。
駅で奈波と別れてすぐ、公輝のスマホが鳴った。「もしもし。…ああ、ごめん。今勝呂と一緒にいる。さっきまで有村と有村の姉さんに会ってたんだ」
相手は結らしい。勝呂は公輝へのお返しとばかりに横から大声で割り込んだ。
「有村の姉さん美人だったぞ。こいつ気に入られちゃってさあ、松永、こいつが年上に可愛がられるタイプだって知ってた?」
「雑音が入ってるけど、気にするな」公輝はカバンを振り回して勝呂を遠ざけると、ひとことふたこと話して通話を終えた。
「彼女からラブコールかあ、いいよな」囃し立てようとして勝呂は気付いた。最近公輝を勝呂が独占しているせいで、結は公輝と一緒に帰ることさえできないでいるのだ。
「うらやましいと思うなら早く有村口説けよ。だからさっきお前が送ってやればよかったんだ。そうすれば連絡先の交換だってさり気なく言い出せただろうに」
勝呂も奈波を送ろうと思わないではなかったが、まだ明るいのにそれも不自然ではないかと迷っているうちにタイミングを逸してしまったのだ。そう抗弁しようと口を開きかけた勝呂を無視して、公輝はカバンから取材ノートを出す。
「それはともかくとして、以前消えたっていう女生徒の話は面白いな。学校の名簿を調べるか、無理なら図書館で新聞にあたれば女子高生の失踪は報道されてるかもしれない」
それともさらに昔のOBに噂について聞くべきか、とひとり考え込む公輝に、勝呂は慌てて言った。
「どっちにしても、それはテストが済んでからにしような」
「今さらなんだよ。急に勉学にいそしもうという意識に目覚めたのか?焦って一夜漬けしたところで結果は変わらないと思うぜ」
「おまえは余裕だからいいだろうけど、俺のほうは少しはあがいてみせないと親がうるさいんだよ」
そういったものの、実際は先ほど突然気付かされた結への罪悪感のせいだった。調査はまだかかりそうではあるし、それならばせめてテストで学校が早く終わる間くらい公輝を結に返さなければいけない。
期末テストは惨憺たる結果だった。
とはいえもともと平均点に手が届くかどうかという成績の勝呂である。公輝にはああ言ったがそれほど勉強しろとせっつく親でもないので、多少順位が下がったくらいならたいして怒られることもないだろう。勝呂はそう判断して特に落ち込みはしなかった。
涼しい顔の公輝は今回もひとケタ台をキープできたようだ。テスト期間も勝呂が思ったとおり結と過ごしていたようだが、それは一緒に勉強していたのではなくひたすら遊んでいたらしい。勝呂は結の成績を知らないが、勉強の必要がない公輝につきあってしまって大丈夫なのかと余計な心配をしてしまう。
「古典、どうだった?」
「うーん、まあまあかな。でも昨日の地理が最悪」
テストの合間、笑って答える奈波に「俺なんかまあまあって言える科目もないよ」とおどけながら、こうして自然に声をかけられるようになったことを勝呂は喜んでいた。こころなしか奈波のほうもだんだん打ち解けてきたように感じる。
「あの、例の調査、どうなったの?」
少しためらいながら奈波が聞いてきた。協力してくれた以上奈波も関係者といえるのだから、興味があるのが当然だ。だが奈波のほうはまるでちょっと関わったくらいで首を突っ込むのは図々しいと決めてかかっているように見える。勝呂にしてみればもっと興味を持ってくれたほうが嬉しいのだが。
「明日でテストも終わるし、そうしたらまた再開するつもりだけど。有村も一緒に調べてみない?」
「えっ、でも、あたしじゃなんにも役に立てないよ」
できるだけ気軽に(聞こえるように)誘ってみたのだが、間髪を入れずに奈波に断られて勝呂はがっかりしてしまった。
そんな勝呂の様子を観察していたらしい公輝が、すかさず割り込む。「なに、有村スカウトしてんの?いいじゃん、協力してよ。この前も助けてもらったしさ」
「あれはあたしじゃなくてお姉ちゃんだし…」
「でも有村が聞いてくれたからだろ?これからも協力してくれるよね?」
強引な公輝に、奈波はちょっと笑って「あたしにできることなら」と言った。
奈波の席を離れると、公輝は勝呂を小突く。「お前なあ、あっさり引き下がってどうすんだよ」
「でも本人がやりたくないならさ」
「やりたくないわけじゃないよ。有村は自分のことを低く評価しすぎなの。自分なんかになにもできるわけがないって思い込んでるわけだな」
どうしてそんな、と言いかけて勝呂は美波の顔を思い浮かべた。奈波は姉にコンプレックスがあるらしい。鈍い勝呂にもそれは感じられた。
勝呂の沈黙を別の意味にとったらしく、公輝は声をひそめてつけくわえた。
「安心しな。辻の件は黙っててやるから」
そうだった。勝呂は自分を殴りつけたくなった。調査は脱線して、違う方向へ突っ走っているものの、出発点はそれなのだ。
常にものごとを全体から見られる公輝と違い、勝呂は目先のことしか考えることができない。気が滅入ったまま自分の席に着いた勝呂がその後行なわれた物理のテストに玉砕したのも、この性格では当然のことだった。
「その態度はなんですっ!」
時枝の声は、百メートル四方に響き渡るかと思えるほどに大きかった。そしてそればかりではなく、妙に裏返ったヒステリックな声で、驚きながらもひそやかに笑う女生徒もいたほどだ。
放課後になっていた。テスト中なので午後になったばかりだ。校庭を横切って帰ろうとする生徒がもっとも多いときなので、誰もが時枝の声がしたほうを注目した。
公輝と勝呂、それに結も校舎を出たばかりだった。「なんだ?テスト中に風紀指導はしないよな」
「時枝ならやりかねないよ」公輝と結の会話も聞き流し、勝呂は前方を見ていた。
時枝と対峙しているのは、綾瀬だったのだ。
好奇心に満ちた瞳で駈けていく生徒たちに混ざり、三人は時枝と綾瀬に近づいた。
時枝と綾瀬は校庭に面した通路に立っている。綾瀬は掃除当番らしくほうきを持ったままだ。
「高校生にもなって返事もろくにできないんですか。人を見下すのも大概になさい!」
一方的に時枝はわめき立てている。それに対して綾瀬は、勝呂たちが見ている限りひとことも発していなかった。
「だいたい、あなたは普段から問題が多過ぎます。気が向いたときに登校して、飽きれば下校時刻でなくとも勝手にいなくなる。そんないい加減な気持ちならばいっそ退学しなさい」
「おいおい、あや姫様に退学されたらこっちが学校来る気なくしちゃうよ」
三年らしい男子生徒が小声で言い、それを聞いた周りの者がこれまた小声で笑いあった。
その言葉が聞こえたのか、時枝はますます興奮したように続けた。「生徒たちにちやほやされていい気になって、教師まで甘く見ているのでしょう。少しばかり人気があるからといって、そんなことではこれから社会に出たときどうするつもりなの」
またも周囲から一斉にひそひそ声があがる。「人気があるのは少しどころじゃないよねえ」「どうするもなにも、あれだけ可愛けりゃ社会に出たってどうにでもなるじゃん」そんな言葉の断片が勝呂にも聞こえてきた。
勝呂から見ても、時枝の言っていることに説得力があるとは思えない。人気だのなんだのというのは置いても、
(彼女がちやほやされていい気になっているとは、どうしても思えない)
のだ。
公輝が綾瀬とともに当番をしていた一年に手招きし、声を落として事情を聴いた結果、時枝の叱責の原因は実に些細なことだった。通路の掃除をしていた綾瀬が、時枝が通り掛かったときに手を止めてぼんやりしていたらしいのだ。それを注意、というにはかなり大げさに時枝が咎め、その時枝を見返した綾瀬が馬鹿にしたような視線を向けたといって騒ぎだしたという。
たちまち他の者から、時枝への抗議の声があふれた。
「なんだよそれ、ババアの被害妄想じゃないの」
「ちょっと手が止まるときなんて誰だってあるじゃんねー。たまたま時枝が通ったのが不運だっただけで」
「時枝の言ってること、もうそんなことと関係ないじゃん。退学とか言っちゃってさ、どんどんエスカレートしてる」
「因縁つけてるとしか思えない」
「ひがんでんじゃないの?男の先生の中にも隠れ綾瀬ファンいるらしいしさ」
「それにしても、綺麗だな」
公輝が一見場違いな、だがあまりにも素直な感想をぽつりともらした。
黙って時枝の顔を見据えている綾瀬は、本当に綺麗だった。校舎の中は昼間であろうと電灯がついていようと、やはりどこかしら暗い。こうして何も遮るもののない太陽の下で、背筋を伸ばして髪に光を反射させている姿はまったく神々しいとでも言いたくなる。お世辞にもロマンティストとは言いがたい勝呂さえ、このまま消えてしまいそうだ、とふっと思ったほどだ。
時枝の注意が正しかったとしても、この光景は時枝にははなはだ不利な状況を生んだ。ただでさえうるさ型の時枝が生徒たちに受けの良いはずもなく、相手が綾瀬ではなおさらだ。綾瀬がほうきを持っていることで、シンデレラをいびる性悪な継母のようだと陰口をたたく者もいた。
「前から狙ってたらしいよ」いきなり耳元で声がして勝呂は飛び上がりそうになった。
いつのまに割り込んできたのか、季里子が三人の真後ろに立っている。
「なにをですか?」驚きながらも公輝が聞き返すと、季里子は時枝の視界から外れるように位置を微調整しながら答えた。「あの子を叱れる機会を、よ。真面目に登校してないのに成績は良く、生徒には崇拝され、なんて、時枝みたいな人間には許せないことなんだろうね。でも一年は受け持ってないし、なかなかチャンスがなかった。…この前もやっぱりつまんないことで何か言おうとしたらしいんだけど、あの美貌に気圧されて引き下がったんだって。それもあのセンセイには屈辱だったんじゃない」
「…先輩、いつのまにそんな情報を」
ついこの間まで、綾瀬の顔すら見たことがなかったというのに。そう言うと季里子はこころもち胸を反らせた。
「そう、実際見てすごく興味わいちゃったんだよね。それでいろいろ調べたわけ。前部長の底力を思い知った?」
「古賀ッ!人の話を聞いてるの!」
完全に逆上した時枝が怒鳴ったとたん、よく響くアルトの声がそれに答えた。
「はい」
短く、時枝の声とは比べものにならないほど静かに発せられたにもかかわらず、それは全員の耳に届いた。勝呂は綾瀬の声を初めて聞いたことに気付く。もっと可愛らしい声かと思っていたが、涼しげな低めの声は聞いてしまうと綾瀬にこれ以上ないほどふさわしいような気になる。
時枝とは対照的に落着き払った声に、時枝もはっと冷水を浴びせられたような顔になった。急に自分の狂態に恥ずかしさを覚えたようだ。
「…わたしの言ったことを忘れないように」
適当な文句でこのひと幕を終わらせにかかる。逃げるように踵を返した時枝の背中を、綾瀬の台詞が追った。
「忘れません。…絶対に」
時枝の足が止まり、周囲には不気味な沈黙が落ちた。
やがて、得体の知れない迫力に負けたのか、時枝は振り返った。だがその時はもう、綾瀬は何事もなかったかのように遅くなった掃除の続きを始めていた。
引っ込みのつかなくなった態の時枝が視線をさまよわせ、何十人もの生徒に囲まれていることを思い出して「早く帰りなさいっ」と叫んだときには、矛先が自分に向くことを恐れて人垣も急速に崩れつつあった…
「危ない危ない。あんなとこで時枝と目が合っちゃったら次の生贄はあたしだよ」
公輝の陰に隠れるように歩きながら、季里子が舌を出した。勝呂も結ももちろん崩れる人垣に調子を合わせ、校門に向かっている。
「最後の台詞、なんか恐くなかった?」
結が勝呂に言う。季里子が公輝から離れないので、仕方なく勝呂と並んでいるのだ。
「うん。なんていうか…時枝とは器が違うって感じかな」
我ながら妙なたとえだと思ったが、黙ってうなずくところを見ると結もそう感じていたようだ。
「恐いのはこれからかもよ」
公輝の身体の向こうから季里子がひょいと顔を出す。「ヒイロさんを怒らせると大変なことになるんだから」
「そんなの聞いたことないですよ」
「知らないの?ヒイロさんの不興を買った人間はね、罰を受けるんだって」
「罰ってどんな」
公輝は真剣な顔で聞いている。数年前にヒイロさんが実在したことを知り、綾瀬=ヒイロ説を信じかけているのかもしれない。
「さあね。買った不興の度合いによるんじゃないの」
勝呂はたった今目撃した光景を思い返してみた。大勢の生徒たちの前で理不尽なほどの攻撃を仕掛けた時枝は、怒らせたどころか完全に憎悪を抱かせてしまったのではないか。
まだ何か聞こうとした公輝から季里子はつと離れ、なにも持っていない両手を見た。
「あ、しまった。あたし教室に鞄置いたままだ」
「珍しいもの忘れますねえ」
呆れ声の公輝に季里子は破顔した。「忘れたんじゃないよ。クラスの子があや姫と時枝の対決をライブで見られるって教室に知らせにきたから、野次馬根性出して見にきたわけ」
さすが新聞部前部長、と今度は勝呂が呆れた顔になった。それじゃここでね、と明るく手を振る季里子と別れると、公輝が歩きながら誰にともなく言った。
「三年の教室にまでリアルタイムで広まってたってことは、あの時学校にいたほとんどの生徒が知ってたんだろうな」
「明日になればいなかった子にも話が伝わってるよ」
やっと公輝に横に並んだ結が答える。
ほとんど全ての生徒が綾瀬に同情するだろう。たとえ綾瀬が本当に悪いことをして叱られたとしてもそれは変わらない。綾瀬には校則や、もっと言えば法律など関係ない世界で生きているような空気がある。
(かえって時枝のほうが針のむしろかもしれない)
さっきは綾瀬の引き立て役のようだ、と意地の悪い感想も抱いたが。
勝呂は、少しだけ時枝が可哀想になった。
読んでいただき、どうもありがとうございました!




