執政官
新任の執政官という紹介を受けて、ユニスは驚きに目を見開いた。
執政官とは、ハイラントでの政務を取り仕切る最高責任者のことを指す。アレスの即位に伴い執政官不在が続いていたが、ついにその席が埋まる時が来たのである。
「こちらが任命書になります」
ゼノはそう言って、アレスからの書簡をルディウスに手渡した。
ルディウスは封蝋を確認した後、丁寧に封を開けると、それを一気に読み下す。目線を書簡から上げたルディウスは、イグナーツの方へと視線を向けた。
「確かに陛下の印璽で間違いないようです。申し遅れました。ルディウス・ランバルトと申します」
ルディウスが姿勢を正して、イグナーツに礼をとる。イグナーツは柔和な笑みを浮かべたまま頷いた。
「ご勇名は、かねがね耳にしております」
そう言うと、イグナーツはユニスの方へと顔を向ける。
「ユニス殿下でいらっしゃいますね。どうぞお見知りおき下さい」
簡単な挨拶を済ませると、ルディウスはイグナーツを執務室へと案内する。ユニスも呼ばれて、二人の後をついていった。
執務室に入ると、ルディウスはユニスの為に椅子を運んでくる。全員が腰を下ろした所で、口火を切ったのはルディウスだった。
「イグナーツ殿は、前任地はどちらに?」
「北のカリソルで、行政官をしておりました」
カリソルはハイラントと同じく直轄領のひとつである。ルディウスはいくつかイグナーツに質問をした後、本題を切り出した。
「イグナーツ殿は、ラザロス殿下がバラキアと通じているという話をご存知でしょうか」
イグナーツは何をどこまで知っているのか。単刀直入にルディウスが訊ねると、おっとりとした頷きが返ってきた。
「ええ。デュカリス卿がハイラントに来て告げたそうですね。彼はそれより以前にアレス陛下に謁見し、バラキア帝国のことを具申しています。既に陛下は内々に調査を済ませ、ラザロス殿下がバラキア帝国の人間と接触していることを確かめました」
穏やかな口調でありながら、イグナーツの瞳は笑っていない。続く声は、一段低くなった。――つまり、と彼は言う。
「ラザロス殿下は国家の逆賊です」
まるで裁判官が宣告を下すように、イグナーツはそう切り捨てた。
「陛下はラザロス殿下の処分についてはどのようにお考えなのでしょう」
ルディウスの問いに、イグナーツは淡々と答えを返す。
「大罪人とはいえ、まだラザロス殿下には利用価値がある。陛下は監視をつけ、バラキア帝国の動向を探ることを優先されました」
「つまり、捕まえずに泳がせると」
「その通りです」
誠に不本意ながら、とイグナーツは嘆息した。
「恐らくは、戦になるでしょう」
と、イグナーツはユニスの方へと顔を向ける。
戦、という言葉にユニスの胸には不安ばかりが湧き上がった。戦争になれば、その前線に立つのはルディウスなのだ。
瞳を揺らしたユニスを見つめて、イグナーツは真面目な顔になる。
「バラキア帝国の恐ろしさは、ラザロス殿下の比ではありません。この国を守る為には、まずかの国への対処を優先する必要があるのです。ラザロス殿下を処罰しないことに対して、ユニス殿下のお心を乱すこと、誠に申し訳なく思っております」
続けて謝罪を口にしようとしたイグナーツに対して、それ以上の言葉は不要だというように、ユニスは首を振った。
今己が抱いている感情は、ラザロスを処罰しないことへの不安でも、ましてや不満でもなかったからだ。
「私の事はよいのです」
静かな声で、ユニスは言った。
「国の難事に、個人の事情より公の利益を優先するのは当然です」
恐れているのは、この地が戦場になり、多くの命が失われることだ。ユニスの言葉に、イグナーツもそれ以上の言葉を止める。
「……戦を回避することはできないのでしょうか」
ぽつりと呟かれたユニスの問いに、イグナーツは首を振った。
「難しいでしょう。バラキア帝国は、腹の満たされることのない獣です」
噛んで含めるように、イグナーツは言葉を紡ぐ。
「既に祖国より属領地の方が広く、自国の民より隷属させた臣民の方が多い。にもかかわらず、バラキアは満足することを知りません」
侵攻を続け、版図を広げているという。
「恭順を示し、属国になることで国家の体を守った国もありますが、莫大な税と徴兵に喘いでおります」
その収奪ぶりたるや凄まじく、わずか数年で国民の数が半減した国もあるという。
服従か、抗戦か。
バラキア帝国を相手にして、融和の道は存在しない。
イグナーツの話を聞いて、ユニスは絶句して黙り込む。重苦しい沈黙が場に落ちた後で、話を変えるように口を開いたのはルディウスだった。
「私が奏上した件については、どうなったのでしょう」
「兵の増員と見張り台の建設ですね。陛下は、許可を与えるとの仰せです」
二人の会話の意味が分からずユニスが不思議そうな顔をしていると、ルディウスが説明をしてくれた。
「戦になれば、バラキアは東の国境を越えてくるはずだ。王都を目指しているなら、ハイラント以外の別の所領を行路に選ぶ可能性がある。それでアレス陛下に兵の増員と、国境沿いにある見張り台を増やす許可をもらいたいと書簡を送ったんだ」
現在、ハイラントのある直轄領には、国境線沿いに一里ごとに見張り台が置かれている。
国境線の監視がその目的であるが、直轄領を南下した貴族たちの領地には、この監視塔が存在しないのだ。
理由は2つあって、ひとつはハイラントに比べて土地が痩せていて、他国から狙われる心配が少ない為である。そしてもうひとつの理由は、監視塔に対する貴族達の反発が大きい為であった。
見張り台を立てれば、当然軍がそこに駐留することになる。そして国軍が自領に留まることを、貴族達は快く思わない。
「国軍を自分の領地に入れることを、貴族達はひどく嫌うから」
「どうして?」
軍が所領を守ってくれるのに。ユニスが疑問を口にすると、「そうは思わない者が多いという事だ」とルディウスは苦笑した。
「守られていると思うより、監視されていると感じるらしい」
だからこれまで、貴族達の領地に見張り台が建てられたことはない。
「だがそうも言っていられない。工兵を連れ、国境線沿いに見張り台を築く」
戦に備えて、今できることをする。ルディウスの言葉にユニスが納得したように頷くと、ここまで二人の会話を聞いていたイグナーツが口を開いた。
「見張り台の件については、もうひとつ陛下より申しつかっております。見張り台を置く諸侯への説得の任には、閣下があたるようにとの仰せです」
貴族達を説得し、反発を抑えるための措置だと、イグナーツは説明した。
「しかし彼女を残して行くわけには……」
ユニスの顔を見ながら、ルディウスが迷う顔をする。心配を滲ませたその表情に、続くイグナーツの口調は鋭いものになった。
「閣下の心配は分かりますが、ハイラントは難攻不落の城塞都市。バラキアはまだ遠く、すぐに侵攻してくることはありません。ユニス殿下を守るのは、貴方が直々に鍛え上げた一万の兵達でしょう。部下を信じてやらずにどうします」
尚も厳しい顔のルディウスに、イグナーツはユニスへと視線を移した。
「ユニス殿下の身を案じて、閣下は迷っておられるようです。ですが本当に優先すべきは何なのか、殿下ならお分かりになるはずです」
イグナーツの言葉は、まるでユニスを試しているようだった。
ユニスはわずかに表情を固くして、唇を引き結ぶ。
正直な気持ちを言えば、ルディウスが一時でもいなくなるのは、心細さがつきまとう。ずっと傍にいてくれて、心から信頼を寄せている人なのだ。
その上今の話を聞く限り、ルディウス自身も安全とは言いがたい。貴族達が反発すれば、ルディウスが危険な目にあうかもしれないのだ。そう思うと、不安の種は尽きなかった。
それでもルディウスは、ハイラント防衛の重責を担っている。だからその責務を邪魔することなどあってはならないと、ユニスは自分に言い聞かせた。ましてや、自分は王女なのだから。
民を守る為に、何を優先しなければならないか。頭では、ちゃんと分かっていた。
ユニスは小さく息をつくと、躊躇いを捨てるようにルディウスの方を見た。
「私の事は気にせず、あなたの務めを果たして。私はハイラントで皆と帰りを待っているから」
そう言って、ルディウスを安心させるようにユニスは微笑んだ。それが今のユニスにできる、精一杯の強がりだった。
ルディウスがどこか痛むような表情をしたので、ユニスは途端に眉を下げた。
「大丈夫。分かってるから」
ルディウスが迷っているのは、ユニスを守るというあの約束のせいなのだと。
誠実な人だから、約束を違えることになるとそう思っているのかもしれない。けれどルディウスが諸侯の説得に向かうことで、ユニスとの約束が破られるとは思わなかった。
ルディウスの行動は、最終的にはユニスやハイラントの民を守る事に繋がっているのだから。
それが分かるから、いっときの心細さには、耐えねばならないとユニスは思った。
「私は大丈夫。だから、ルディウスはあなたのやるべきことをやって」
そっとルディウスの手に触れて、ユニスは自分に言い聞かせるようにそう言った。




