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再び、森へ

『遅い』


 眉間に皺を寄せたまま、白銀の獣はそう言った。

 神獣を前に、ユニスは困り果てた顔になる。具体的な約束はしていないはずだとは、この場合言っても意味がないのだろう。


「申し訳ありません」


 素直に謝罪を口にしたユニスに、リドは『まぁ、いい』と鼻を鳴らした。

 神獣の森の奥。

 呼び出しを受けて湖までやってきた二人を出迎えたのは、不機嫌顔の神獣だった。なんと声をかけようかユニスが迷っていると、リドが再び話しはじめる。


『――それで、何があった?』


 聞かれて、ユニスは目を瞬かせた。


『何かあったんだろう? 話してみろ』


 優しげな声音で言って、リドはユニスを隣に座るよう促した。

 草の上にゆったりと身体を横たえた神獣の傍らに、ユニスは腰を下ろす。ルディウスはわずかに距離をとった場所で、無言で控えていた。

 ユニスは言葉を選びながら、ここ最近あった出来事をリドに話して聞かせた。ファリオンの来訪と、ラザロスの動向。無論ルディウスに対する想いだけは口にはできなかったが、おおよその事情をリドは理解したようだった。

 一通りの話を聞き終えると、リドはひとつ溜息をついて感想をこぼした。


『人間と言うのは、愚かな生きものだな』


 淡々とした声だった。

 その言葉がキーランやラザロスに対してのものなのか、それとも人間全てに対してのものなのか、ユニスには分からない。

 瞳を揺らしたユニスを見て、不安になっていると思ったのだろう。紫の瞳が、ユニスの顔を覗き込んだ。


『……心配をすることはない。ハイラントにいる限り、お前は私が守ってやろう』

 

 庇護してやると、リドは言う。

 その言葉に、ユニスの胸には喜びよりも困惑が広がった。


 ――何故、リドは私にこだわるのだろう。


 それは最初に会った時から、気になっていたことだった。リドははじめからユニスに対して好意的だったが、それは一体何故なのだろう。

 ユニス自身は、何ら好かれるような事をしていない。それは己を卑下しているわけでも、卑屈になっているわけでもなく、純然たる事実だった。

 神獣の末裔だというのが理由なら、アレスやラザロスに無関心なのは辻褄があわない。


「……どうして私にそこまでしてくれるのですか?」


 疑問をそのまま口にすれば、返ってきたのは沈黙だった。どう答えるべきか迷っているというよりは、言いたくないという顔である。

 表情に出る分、リドは素直な気性なのだろうと、ユニスは思う。

 やがて沈黙を破ったリドは、この話題を打ち切るように言う。


『理由を、いちいち説明するつもりはない』


 互いに黙り込んだ後で、ユニスは考えていた事を口にした。


「私よりも、この国の人々を救っていただくことはできないのでしょうか?」


 ユニスを守れるというのなら、同じようにこの国の民を守ることも可能なのではないか。バラキア帝国が戦を仕掛けてくるのなら、何よりもアスティリアの民を助けて欲しい。

 そんなユニスの懇願に対して、神獣は一顧だにしなかった。


『なぜ私がそんなことをしなければならない』


 冷たく突き放され、ユニスは怯んで縮こまる。それでも、ユニスは懸命に言い募った。


「勝手な事をお願いしているのは分かっています。ですがこの国の民は貴方を神と崇め、敬い、信仰してきたのです。私よりも、どうか彼らに救いの手を差し伸べて欲しいのです」


 王女として何の義務も果たしていない己が助かって、この国の人々が戦禍に巻き込まれる。そんなことはあってはならないと、ユニスは言葉を重ねる。

 そんなユニスに、そうではないとリドは大きく頭を振った。――私は神ではない、とリドは言う。


『私は人間や動物と同じ生きものだ。人よりは長命だが、死はやがて訪れる。それに、人間に都合の良い神など存在しない』


 まるで子供に教えさとすように、リドはゆっくりと言葉を紡ぐ。


『そもそも神は国が滅びようが頓着などしないだろう。お前達人間は、蟻の縄張り争いに関心を示すか? それと同じだ』


 きっぱりと言い切られ、ユニスは肩を落とした。

 

『神獣という呼び名は、お前たち人間がつけたものだと言っただろう』


 では神獣とは、一体何なのだろう。人の言葉を理解し、水の上を歩く神業を見せるこの生きものは。


『私はお前たちが神と呼ぶものから生まれたが、神とは違う』

「……では神とは、何なのです?」


 人々は何に祈っているのだろう。


『神とはことわりであり力だ。それ自体に意思はない』


 抽象的な言葉に、ユニスは難しい顔になる。


「でもリドには意思があるのでしょう?」

『私は個別の存在だ。私を生み出したのは世界を司る大いなる力だが、この世に生まれた時点で私はそこから切り離されている。意思があり、死もまたあるという意味では、お前たちと変わらない』


 そこまで聞いて、ユニスの胸には新たな疑問が湧き上がった。


「ならば貴方自身の意思で、アスティリアの民に手を貸すこともできるのではないですか?」


 神としてではなく、自由な意志を持つ生きものとして。


『できなくはないが、やる気はない』


 なぜそんなことをしなければならないと、リドはばっさりと切り捨てた。


『それこそ、私の勝手だろう』


 正面から言われて、ユニスは続く言葉を失った。一方的に頼んでいるのは、こちらの方なのだ。

 どうすればいいのか考えあぐねているユニスを見て、神獣は厳しい顔で続けた。


『そこまで言うなら、ユニスが私の所に来るか?』


 告げられた言葉の意味が分からず、ユニスは当惑した。

 固まったユニスの代わりに口を開いたのは、ここまで沈黙を貫いてきたルディウスだった。


「どういう意味です」


 険しい顔になったルディウスに、リドは鼻を鳴らす。


『そのままの意味だ。お前達人間は何かを頼む時、対価を払うものなのだろう? ならば私にも、条件を言う権利があるはずだ。ユニスが私とともに生涯この森で生きるというのなら、協力してやらぬこともない』


 冗談めかした口調であったが、紫の瞳は笑っていない。ルディウスの表情は厳しいままだ。

 リドの出した条件を考えて、ユニスは眉をきゅうと下げた。返答に窮したユニスに、リドは返事を待つことなくあっさりと首を振る。


『無理だというのは知っている。人間というのは、人の中でしか暮らせないのだろう?』


 だから諦めろ、とリドは言う。

 迷いのない口調に、リドは最初から諦めさせるつもりだったのだと、ユニスは悟った。


『もうこの話は終わりだ、ユニス。せっかく来たんだ。ゆっくりしていきなさい』


 話題を変えるように、リドは森での出来事を語りだす。ユニスもそれ以上の言葉を胸に押し込めて、神獣の話に耳を傾けたのだった。



 その日の夕刻。

 城へと戻ったユニス達を待っていたのは、二人の男達だった。ホールに足を踏み入れたユニス達は、その姿を見にして足を止める。

 二人の内ひとりは、ルディウスが王都へ送った兵士である。


「閣下、ただいま王都より戻りました」

「ゼノ、長旅ご苦労だった」 


 ルディウスのねぎらいの言葉に、若い兵士が笑みを浮かべる。ゼノはハイラントまでの旅路を共にしたので、ユニスにとっても馴染み深い顔である。

 後ろにいるのは誰だろうと、ユニスは首を傾げた。官服を纏った壮年の男が、ゼノの後方に佇んでいる。

 ハイラントに来てからひと月以上が経つが、はじめて見る顔だった。

 色白の細面。怜悧な瞳を持つ黒髪の男である。

 ユニスと同じ疑問を、ルディウスも抱いたようだった。


「こちらは?」

 

 ルディウスがちらりと視線を送って訊ねると、ゼノは背筋を伸ばして声高に告げた。


「アレス陛下の命で就任なさいました、ハイラントの新しい執政官殿であらせられます」


 ユニス達の方へ身体を向けて、男が柔らかく礼をとる。


「イグナーツと申します。どうぞお見知りおきを」


 非の打ち所のない完璧な笑みを浮かべて、イグナーツはそう言った。

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