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レオニダス・バルトー

 しばらくルディウスの胸に頭を預けた後で、ユニスはおずおずと顔をあげた。


「……泣いてしまってごめんなさい」

「気にしなくていい」


 ルディウスは穏やかに答えながら、ユニスの目尻に溜まった涙を拭う。

 ユニスの目元はまだ赤いが、声は落ち着きを取り戻している。それを確認して、ルディウスは安堵した顔になった。


「少しここでゆっくりしよう。さっきはあまり、食べられなかっただろう」


 ルディウスは先程包んでもらったパンを取り出すと、ユニスにそれを手渡した。

 パンはまだほんのりと温かく、口に含むとほのかな甘みが広がった。


「……美味しい」


 ようやくユニスの顔に笑顔が戻ると、ルディウスは表情をやわらげる。

 二人並んで昼食をとりながら、他愛のない会話を交わす。

 食事が終わる頃、ルディウスが口を開いた。


「実はもう一つ連れていきたい場所があるんだが」

「連れていきたい場所?」


 ユニスが小首を傾げると、ルディウスは笑顔で頷いた。


 そうしてルディウスがユニスを連れて行った先は、とある邸宅だった。

 庭付きの広々とした屋敷であるが、ユニスにはここが誰の住まいであるか皆目検討がつかない。

 門扉から中に案内されると、一人の女性が待っていた。


「お待ちしておりました」


 柔らかな声でそう言ったのは、品の良さそうな老婦人である。


「ユニス殿下でいらっしゃいますね」


 柔和な顔で微笑まれ、ユニスは戸惑いながら口を開いた。


「はじめまして」

「レオニダスの妻のエウフェミアと申します」


 さぁ中へと、ルディウス達の後ろに控える守備隊にも顔を向ける。


「主人が待ちくたびれておりますので、どうぞこちらへ」


 エウフェミアに連れられ客間に足を踏み入れると、一人の男が立ち上がった。灰色の瞳に、渋みのある顔立ち。

 ひと目見て、彼が軍の関係者であることがユニスにも分かった。眼光の鋭さが、一般人のそれではなかったからだ。

 頭髪の白さを見れば老齢といえる歳だろうと予想できたが、姿勢と体格が良いので、実年齢より若々しく見える。男はユニスを見ると、目を細めた。


「――大きくなられましたな」


 思いがけない言葉に、ユニスは戸惑った顔になる。


「……以前、お会いしたことが?」

「これは失礼を。覚えておられないのも無理はない。何しろ拝謁したのは、殿下が5歳の時でしたから」


 ユニスは幼い日の記憶を辿ったが、目の前の人物のことは思い出せない。男は改めて名乗った。


「レオニダス・バルトーと申します。8年前にハイラントに来る以前は王都におりましたので、謁見もその頃に」


 8年前という言葉に、兄がハイラントに来た時期と同じだとユニスは思った。


「レオニダス翁は、俺の前に東方軍の将軍だった方だ。俺にとっては、用兵と剣の師でもある」


 ルディウスが横から説明をつけ加えた。レオニダスは1年前、肉体的な衰えを理由に将軍職を退いたという。ルディウスはレオニダスの方へ視線を移すと、笑みを浮かべる。


「衰えたなんて言っても、いまだに鍛錬を欠かしていないと聞きましたよ。今からでも軍に復帰できるのでは?」

「老体をどこまでこき使うつもりだ。もう第一線ではやれんよ」


 応じるレオニダスは肩をすくめた。

 ルディウスとレオニダスの間に流れる空気には、互いに対する親しみと信頼が含まれている。二人のやり取りを見ながらきっと良い師弟関係なのだろう、とユニスは感じた。


「ここに連れてきたのは、レオニダス翁を紹介したかったからなんだ」


 信頼の置ける方だから、と言われユニスはその顔を見上げて頷いた。ルディウスが信頼しているのだから、レオニダスは立派な人物なのだろう。

 レオニダスはユニスの方へ顔を向けると、表情をやわらげた。


「婚約したとは聞いておりますが、ルディウスは殿下に非礼を働いてはおりませんかな」

「いいえ、ちっとも」


 ユニスが首を振ると、レオニダスは尚も訊ねた。


「軍人としてのこの男は、なかなか恐れられているようですが」


 そう言われて、ユニスは少し考える。

 確かに以前、剣を振るうルディウスを恐いと思ったことはある。けれどそれは軍人として必要な厳しさなのだと、ユニスはもう理解していた。


「……それは彼がとても厳しい世界に身を置いているからではないでしょうか。自分が恐れられても、この国の人々を守ろうという覚悟を持っているのだと思います」


 だからそれらは、ルディウスを構成する大切な要素なのだ。ユニスは慎重に言葉を探しながら言う。


「――ですから、そういった所も含めて、とても尊敬しています」


 それはユニスの心からの言葉であった。静かに耳を傾けていたレオニダスは、意外そうな顔つきになる。


「どうやら想像していたよりも、仲良くやっているようだ」


 と、レオニダスはルディウスに視線を向ける。


「理解のある方で救われたな」


 その言葉に、ルディウスは目線だけで同意を示した。

 その後は守備隊の面々が自己紹介を始めたので、ユニスは聞き役に回ることになった。皆があれこれとレオニダスに質問する内容に、ユニスは興味深く耳を傾ける。

 どうやら軍人として、レオニダスは伝説的な人物らしい。ハイラントに来る前は東方軍まで含めた国軍の総司令官だったと聞いて、ユニスは大いに驚いた。

 ルディウスの師は、大層凄い人なのだ。

 しばらくして部屋に入ってきたエウフェミアは、武骨で華のない話題に呆れた顔になった。


「あらあら、難しい話をなさっていること」


 エウフェミアは聞き役になっているユニスが退屈していないか、心配になったようだった。


「殿下、よろしければ庭をご覧になりませんか」


 優しく問われ、ユニスは迷う顔になる。ここで話を聞いているのも楽しいが、エウフェミアの申し出も魅力的だ。どうしようとルディウスの方を見ると、穏やかな瞳と目があった。


「行っておいで」


 後で迎えに行くからと言われて、ユニスはエウフェミアと共に庭に出る。

 バルトー家の庭は、小さな森のようだった。幹の太い落葉樹が何本も植えられ、足元に木陰を作っている。木漏れ日の下には、白く可憐なスズランがそこかしこに咲いていた。

 温かく愛らしい庭は、エウフェミアの人柄をそのまま表しているようだ。

 庭を案内しながら、エウフェミアは客間の話題を持ち出した。


「主人も殿下のような若い方を楽しませる話題にはとんと疎くて。申し訳ありません」


 軍人という人種は困ったものだと、エウフェミアは溜息をついている。ユニスは思わず笑みをこぼした。


「いいえ、とても楽しかったです」

「それなら良いのですけど。軍は男性ばかりでしょう? 放っておくと戦だの国際情勢だのと、そんな話ばかりするものですから、殿下を困惑させていないか心配しておりました」


 事前に主人には色々言ったのですけれどと、エウフェミアは唇を尖らせる。おっとりとした口調に反して、言っている事はなかなかに手厳しい。レオニダス相手にも、エウフェミアに遠慮はないようだ。


「ご夫婦で、何でも話し合われているのですね」


 ユニスがそう言うと、エウフェミアは朗らかに笑った。


「色々な事がございましたが、かれこれ40年以上も連れ添ってきましたから。何でも話し合うのは、長く一緒に過ごす為の秘訣かもしれません」


 その言葉に、ふとユニスは気になって訊ねた。


「……例えば、相手の負担になるような事でも?」


 思いがけず切実な声色になってしまったことで、エウフェミアは何かを察したようだった。


「何か、気がかりなことがおありですか」


 聞かれて、ユニスは迷う顔になる。初対面の人間に、相談していいものだろうか。

 エウフェミアは、ユニスの答えを急かさなかった。ゆったりと包み込むようなエウフェミアの表情に、やがてユニスはとつとつと話しはじめた。

 居室からあまり出ないことで、最近ルディウスを心配させていること。その理由を、ルディウスに話せていないこと。自分の弱さをさらけ出すのに、躊躇いがあること。


「これまで随分彼には迷惑をかけているんです。今だってとても心配してくれているのに……。なのに私は、言えなくて」

 

 これまでも正直に話すべきだとは、何度も考えた。ルディウスにはユニスの事情は全て知られている。ユニスが無力で足りないものだらけの人間だと、既に分かっているだろう。今更隠した所で大した違いはないのだから、今回の件も正直に打ち明けるべきではないかと。

 けれどその一方で、既に重荷になっているからこそ、これ以上負担になりたくないとも思う。

 仮に胸の内を打ち明けても、ルディウスは嫌な顔をしないかもしれない。けれど積み重なる負担はあるだろう。それが少しずつルディウスの中に降り積もり、心を疲弊させはしないだろうか。

 そんなことがずっと続けば、ルディウスはいつかユニスといる事に疲れてしまうかもしれない。――もし一緒にいることが、辛いと思われたら。

 ユニスにとって、それが何より恐ろしかった。

 話を聞きながら、エウフェミアは理解を示すように目元をやわらげる。


「自分の弱い部分を見せるのは、勇気がいりますものね」


 その気持ちはよく分かります、とエウフェミアは頷いた。


「でしたら、逆の立場で考えてみてはいかがでしょう」

「逆?」


 意味を掴みかねて、ユニスは首を傾げた。


「相手が自分にだけ悩みや弱さを打ち明けたとしたら、殿下ならどう思われますか? 面倒だと感じるでしょうか。それとも信頼されているのだと、嬉しく思いますか」


 その問いに対する答えなら、決まっていた。


「私なら、嬉しいです」


 自分の気持ちなら分かる。けれどルディウスは、そうではないかもしれない。


「……でも、相手も同じだとは限らないでしょう?」

「ええ。それを知るには、自分をさらけ出す勇気が必要です。もしかしたら、受け入れてはもらえないかもしれません。それでもずっと一緒にいたいと思うなら、互いのことをよく知らなければ」

 

 そう言われ、ルディウスの言葉を思い出した。


 ――君が悲しみを感じた時は、ひとりで泣かせたくない。


 ルディウスはユニスの事を知りたいと言ってくれた。弱さや情けない本音も、伝えていいのだろうか。

 ルディウスはそれでも、受け入れてくれるだろうか。

 そんなことを考えていると、エウフェミアは何かに気づいたようにユニスの後ろに視線を向けた。


「噂をすれば、迎えが来たようですね」


 ユニスが振り返ると、ルディウスが庭の方に近づいてくるのが見える。

 ルディウスが来るのを待って、エウフェミアはユニスの手をとった。


「また是非おいでくださいね」


 先に部屋に戻っていますと口にすると、そのままユニスの手をルディウスの手の平に置く。その動作があまりにも自然だったので、二人ともされるがままだ。

 エウフェミアの後ろ姿を見送って、ルディウスが口を開いた。


「何の話を?」


 聞かれて、ユニスは握られた手をじっと見つめた。


「……最近、ルディウスを心配させているでしょう?」


 問いに対する答えとは違っていたが、ルディウスは真剣な顔になった。ポツリと呟かれた言葉に、ルディウスは黙って耳を傾ける。


「あまり部屋から出ないのは、自分に自信がないからなの」

「自信?」


 ユニスはこくりと頷いた。


「王女ならできて当たり前のことも、知っているべきことも何も知らないから。それでもここの皆は、私が王女だというだけでとても良くしてくれる。本心から敬愛してくれている。それが嬉しい反面、とても後ろめたいの。――私は王女としての義務を、何も果たせていないのに」


 罪悪感を感じるのだ。こんな扱いを受けていいのだろうか、と考えてしまうから。それに値するものを、何も持っていないのに。

 ユニスの告白に、ルディウスはどこか痛むような顔になった。


「それは、ユニスのせいではないのに?」


 王女としての義務を果たす場を、最初から与えられなかった。

 言外にあのような生活を強いられていれば仕方がないと、ルディウスは言っているようだった。


「それでも、私は王女なのに」


 ユニスは暗い顔になる。

 王族とは、民の為に存在しているのではないだろうか。何の役にも立たない王族に、一体何の価値があるのだろう。

 口を閉ざしたユニスに、ルディウスはそっとその頬に手を伸ばす。


「言ってくれて安心した」


 ルディウスのほっとした声音に、ユニスもまた安堵した。こんなことを伝えて大丈夫か、ずっと不安だったからだ。

 ルディウスは少し考え込んだ後で、口を開いた。


「ユニスが後ろめたいと感じるなら、解決策は二つしかないな」


 安易な慰めを、この時ルディウスは口にはしなかった。


「二つ?」

「ひとつ目はユニス自身の考え方を変える方法。これが一番簡単で手っ取り早い。王家の正当な血を引く自分こそは、周囲から敬われて当然だと思うようにすればいい」


 言われて、ユニスは困惑した。そんな風には、とても思えそうにない。眉を下げたユニスの反応を、ルディウスは予想していたようだった。


「もう一つは、ユニスが周囲の期待に見合う人間になればいい。周りの見る目と実際のユニスの姿が一致すれば、罪悪感を覚えることもないはずだからな。自信が持てないのは、裏付けになる経験がないせいだ。ならば、これから努力すればいい」


 これはユニスにとっては目から鱗が落ちるような案だった。驚くと同時に、この後ろめたさをなくすには、それが一番良いという気もした。

 

「できるようになるかしら?」

「それは、ユニス次第だな」


 無責任にできると言わないところが、ルディウスらしいとユニスは思う。


「勿論、俺も協力する」


 それでいて、こんな風にいつも手を差し伸べてくれるのだ。


 ――私自身が、期待に見合う人間になる。


 口で言う程、簡単ではないだろう。また弱音を吐きたくなるかもしれない。

 それでもそこに、一条の光を見出したような気持ちだった。気がつけば、胸にわだかまっていた憂鬱が消えている。

 ルディウスの言葉に、いつの間にかユニスの心は軽くなっていた。

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