城下町
忙しいルディウスが次の休暇を得られたのは、それから一週間ほどしてからだった。
「さぁさぁ、今日入荷したばかりの貴重な香辛料だよ! 大陸南岸の海の向こう、マルカ諸島でしかとれない希少品だ!」
「この羅紗を見てみてよ。滅多にお目にかかれない代物だろう? 丈夫で保温性も良いから、王都だったらこの倍の値段はするよ」
ユニスが初めて訪れた城下町は、別世界だった。
何という活気だろうと、ユニスは驚きに目を瞬かせる。声も出ない様子で目の前の光景を眺めるユニスに、隣にいるルディウスが口を開いた。
「城下町の中でもここが最も賑やかな区域だな。バザールの規模もおそらく大陸随一のものだろう」
バザールは、小さな商店がいくつも集まった屋根つき市場である。巨大な石造建築の中をアーチ状の歩廊が縦横に貫き、実に3000もの店舗が並ぶ。
ここで扱われる商品は、多種多様である。宝石、陶器、貴金属、織物、皮革製品、塩、香辛料。
国外から持ち込まれた品も多く、見慣れない模様の絨毯や、精巧な細工物が目を引いた。
店先で話し込んでいる者の中には、異国風の服装や、この国では珍しい褐色の肌の者も混じっている。彼らが交易商人だろうかと、ユニスは首を傾げた。
「欲しいものがあったら、何でも買っていい。王都から持ってきたものは、ほとんどなかっただろう」
そう言われ、ユニスはルディウスの顔を見上げる。下から覗き込むと、琥珀の瞳と目があった。
「……でも必要なものはテレサが用意してくれたから」
遠慮がちにそう言うと、ルディウスは首を傾げた。
「しかし君自身が選んだものはないだろう? こういう場所で経済を回すのも、我々の義務の一つだ」
義務と言われて、ユニスは曖昧な表情で頷いた。よく分からないが、そういうものなのだろうか。上手く丸め込まれてしまっただけのような気もするが。
今日の二人は、お忍びで城下町へ降りている。守備隊の者が平服で近くにいるが、何事もなければ他人を装うつもりであるらしい。
ユニスは旅の時に使っていたフードを目深に被り、顔を見られないようにしていた。
顔を上げた拍子にユニスのフードがずり落ちそうになったのを、ルディウスがそっと直してくれる。
「じゃあ、行こうか」
そう言うと、ルディウスは自然な仕草でユニスの手を取った。思いがけないぬくもりに、心臓が跳ねる。
「はぐれないように」
と言われても、それで鼓動が鎮まるわけではない。心臓の音が隣に聞こえていないだろうかと心配になりながら、ユニスはなんとか平静を装った。
バザールの中は、売り物によって大まかに場所が分けられている。香辛料なら南の区画、衣料品なら北の区画というように。
ルディウスの案内でぐるりとバザールの中を一周することになった。縦横40本もの歩廊があり、1日で全ての店を回る事はとてもできないが、こうして歩きながら店先を眺めるだけでも楽しい。
途中いくつか気に入った服をルディウスに買ってもらうと、ユニスは品物の入った袋を大事そうに抱えながら礼を言った。
「ありがとう」
でも本当にいいのだろうか、と伺うようにルディウスを見ると、ルディウスは目元を緩ませた。
「どういたしまして」
爽やかなルディウスの笑顔に、ユニスもほっとした顔になる。
ルディウスが荷物を持つというのを固辞し、二人は散策を続ける。
店をいくつか回っていると、同じ意匠の品が売られているのに気がついた。
似たような鳥をモチーフにした服や宝飾品、絨毯などが色々な店で売られているのだ。何か意味があるのだろうかと疑問に思っていると、銀製品を取り扱っている店まで来たところで、また同じ意匠の髪飾りを見つける。
ユニスは思わず、店先に座っていた男性に尋ねてしまった。
「これは、何という鳥?」
ユニスが聞くと、店主とおぼしき男性が人当たりの良い笑みを浮かべた。
「翠烏だね」
カワセミに似た青く美しい鳥なのだという。
「縁起物なんだ。お守りとして自分で持つ者もいれば、親しい人に贈る人もいるよ」
幸福を運ぶ瑞鳥。その説明に、ユニスは心惹かれた。
翠烏は万里を飛び、海を渡る。
またこの鳥はどんなに遠くまで行っても、翌年には必ず帰ってくるという。この習性が縁起物になったゆえんであった。
世界中を旅する商人や戦に赴く兵士の無事の帰還を願って、この鳥が描かれた品を本人やその家族が身につけるのだ。
――大切な人が無事に帰ってきますように。
――愛する者の元に帰れますように。
この翠烏には、そんな願いが込められている。
ユニスが目を輝かせて店主の話に耳を傾けているのを見て、ルディウスが尋ねた。
「気に入った?」
ユニスは笑顔で頷いた。
ルディウスに贈る刺繍の図案は、これにしよう。戦場に身を置くルディウスが怪我なく無事に帰って来られるよう、願いを込めて。
そんなことを考えているとルディウスはひょいと髪飾りを手に取ると、店主に渡す。え、とユニスが戸惑っている内に、ルディウスは髪飾りを購入してしまった。
「どうぞ」
と、ルディウスから穏やかな顔で差し出され、これが欲しかったわけではないのだとは言い出せなくなってしまった。結局、何度も礼を言って、ユニスは髪飾りの入った袋を受け取った。
刺繍の図案はこれを参考に作ろうと、固く心に誓いながら。
色々な店を回っていると時間はあっという間に過ぎてしまう。昼を少し回った頃、ルディウスが食事にしようと言い出した。
「とはいえこの中にはないから、一度外に出ることになるが」
市中で食べ物を提供している店は、数が限られている。宿屋の食堂か、道端にある屋台くらいのものだ。
旅人向けに食事を提供している店がほとんどで、地域住民向けの大衆食堂は存在しないのである。酒を提供する居酒屋は夜になれば開くので、この街に暮らす人々は主にこちらを利用する。
結局ルディウスがユニスを連れて行ったのは、市内で最も大きい宿屋に併設された食堂だった。ここでは宿泊客でなくとも、食堂だけを利用することができるのだという。
壁際の席が空いていたので、そちらを選ぶ。こっそりと随行していた守備隊の面々は、近くの席に陣取った。
「こんなに沢山の人がいるなんて思わなかった。凄く賑やかなのね」
食事が運ばれてくるのを待つ間、ユニスは興奮気味に市場の感想を口にした。
「ハイラントには、世界中から人や物が集まる。交易都市と呼ばれるのは、あれがあるからだな」
「異国の言葉を話す人もいたけれど、どうやってやり取りを?」
「交易商人は基本的には通訳を雇っている。中には何カ国語も話せる商人というのもいるが。ハイラントにも通訳を生業にしている人間がいるから、彼らに頼む者もいる」
なるほどと、ユニスは頷いた。二人で会話を続けていると、間もなく料理が運ばれてくる。
温かいスープを口にしている時、近くの席の会話が聞こえてきた。ざわざわと混み合う店内の中で、ユニスがたまたまその会話を拾ってしまったのは、話の中に王女という単語が混じっていたからだった。
「ハイラントは最近めでたい事続きだねぇ。アレス様の即位に、今度は王女様がお嫁に来たんだから。うちの店もこの慶事にあやかりたいもんだ」
中年男性の声である。どうやら後方にいるらしく、ユニスのいる位置からは、会話主の姿を見ることはできない。話ぶりから、この街の住人のようだとユニスは思う。
「めでたいって言っても、相手はあの首切り将軍だろ? お気の毒じゃないかね」
応じる声も、男性のものだった。
首切り将軍という不穏な言葉に、ユニスは手を止めた。思わずルディウスの方を見れば、会話は聞こえていないのか淡々と食事を口に運んでいる。
「……まあなぁ。戦はめっぽう強いらしいけど、残忍な性格だって噂だね。王女様が酷い目にあっていないといいがなぁ」
「アレス様が即位して、今は首切り将軍が城代なんだろ? 大丈夫なのかねぇ」
心配だねぇと、二人で言い合っている。
その内容に、みるみるユニスの表情は強張った。何という酷い噂だろう。一片の真実も含まれていないような話を、この街の人々がしているのか。――ルディウスが命がけで守る人々が。
ユニスの顔が色を失くし、次第に蒼白になっていくのを、この時ユニス自身でさえ気づいてはいなかった。
「早く新しい城主様が来てくださるといいんだが」
「安心して夜も眠れないってもんだよな」
その言葉に耐えきれず、ついにユニスは立ち上がろうとした。何もかもが誤解だと、ルディウスは優しい人なのだと声をあげるために。
しかし、それは叶わなかった。
ユニスの手にそっとルディウスの手が重ねられ、制止されたからだ。ルディウスは静かに首を振る。
やめろと言われているのが分かって、ユニスは眉を下げた。
――でも。
ルディウスがこのまま誤解されるのは、耐えられない。悲しげなユニスの表情に、ルディウスは困ったように微笑んだ。
「外に出よう」
あまり食事に手を付けられないまま、二人は店を後にする。出されたパンを店員に包んでもらい、ルディウスが向かった先は広場であった。
ルディウスは噴水の周囲に広がる芝生の上にハンカチを敷くと、ユニスをそこに座らせる。隣に腰を下ろしたルディウスが最初に口にしたのは、意外にも謝罪であった。
「……すまない。今日はユニスの気分転換になればと思ったんだが」
そんな顔をさせてしまったと言われ、ユニスはますます悲しくなった。ルディウスが謝る理由など、何一つないというのに。
「謝らないで。あなたは悪くないのに、どうしてあんな酷い噂……」
悔しくて、悲しくて声が震える。そんなユニスの頭をポンとひと撫でして、ルディウスは口を開いた。
「首切り将軍という呼び名は、根拠のない話ではないんだ。昔の話に尾ひれがついて、広まってしまったものだから」
10年前の事だと、ルディウスは話し始めた。当時ハイラントから馬で1日ほどかかる国境沿いに、隣国が侵攻してきたのだという。
東方軍が守るのは、ハイラントの街だけではない。広大な東方地域で変事があれば、王都の軍ではなくまず東方軍が出陣するのがならいであった。
「そもそも敵兵の数を見誤って、出兵した東方軍の数は、相手よりかなり少なかったんだ」
初めから不利な戦いだったとルディウスは口にした。それでもしばらくは、互角の戦いができていたという。
「だが乱戦の中、俺のいた部隊が本隊から孤立したんだ。本隊は既に退却を開始していて、仕方なく敵陣後方の山の中に逃げ込んだ」
ルディウスを含め、部隊の生き残りは30名余り。小隊を指揮していた下士官は、乱戦の最中命を落とした。
「日が落ちて、山の中でこの窮地をどう切り抜けようかと皆で話しあった。朝になれば、敵が山狩りをはじめる。そうなれば命はない、とね」
ここで策を講じなければ、確実に死ぬ。追い詰められた状況の中、その時声を発したのは、小隊で最も若いルディウスだった。
――夜襲をかけましょう。
「奇策といえば聞こえはいいが、まぁ無謀な策だ。だがその時は、それ以外道がないと思ったんだ」
敵は緒戦に勝って気を抜いている。ルディウス達の部隊は少数で、背面にいるからといって脅威とは思われていない。だからこそ今攻勢に転じれば、敵の意表をつくことができるのではないか。
そう言って、ルディウスは仲間を説得した。
「狙いも絞った。敵軍を指揮していたのは名のしれた猛将で、この男のもとで敵は高い士気を保っていた。指揮官自ら先陣を切って、軍を引っ張るような男だったから――」
この男の首を取れば、敵は統制を失い瓦解するのではないか。
その可能性にルディウスは賭けたのだ。
話し合いの末、最終的にルディウスの案が採用された。狙うは、敵将の首一つ。
「夜陰に紛れて敵の軍服を奪い、仲間が騒動を起こした。その隙に他の仲間とともに敵将の幕舎を探して、――俺が首をとった」
最後の部分だけ、多くが省略された説明になった。ユニスに聞かせるには不適切な内容だと思ったのかもしれない。
「その時の話に色々と尾ひれがついたんだ。単身乗り込んで敵将の首を刎ねたとか、天幕の上に首を晒したとか」
自嘲気味にルディウスはそう言った。仲間の三分の一を失い、ルディウス自身も怪我をした。この作戦は、決して簡単なものではなかったのだ。
「結果的に、賭けには勝った。指揮官を失って、敵は完全に統制を失ったようだった」
翌日は、一転して東方軍が圧倒した。将を失った敵軍は烏合の衆と化し、一度陣形が崩れるとそれを立て直すことができなかった。
「だから今どのように言われようと、あの時のことを後悔はしていない」
きっぱりとルディウスは言い切った。
その時の話と、その後異例の早さで出世した話があいまって、首切り将軍などと呼ばれるようになったらしい。残忍だなどという町の噂も、その通り名の不穏さから来ているようだ。
「戦で多くの命を奪ってきた。恨みなら、既に散々買っている。今更、どうということはない」
少し寂しげな表情でそう言ったルディウスに、ユニスの胸は締めつけられた。
敵から恐れられ恨まれるのと、守るべき民から忌避されるのでは、意味合いが全く違う。
――ルディウスが悪く言われる理由などないのに。
やるせない感情が胸の中で渦を巻いて、ユニスはルディウスの方へ手を伸ばす。そっと両手でその頬に触れると、お互いの視線が絡み合った。
「私はあなたがとても優しくて、強くて、温かい人だと知ってるわ。東方軍の皆も分かってる。だから、だからね――」
言いながら、ポロリと涙が頬をつたう。
――そんな顔をさせたくないの。
寂しそうな顔も、辛そうな顔もさせたくない。
ルディウスがユニスの心を温かくしてくれるように、自分もルディウスの力になれたらいいのに。
静かに涙を流すユニスを、そっとルディウスが抱き寄せた。
「大丈夫だよ、ユニス。俺は大丈夫だから」
ルディウスはユニスの背中に腕を回すと、優しくポンポンと背を叩く。ユニスを安心させるように、ルディウスは大丈夫だと繰り返した。
「ユニスやちゃんと分かってくれる人がいる。――だから、大丈夫なんだ」
慰めるつもりが、逆に慰められている。
ルディウスから優しく抱きしめられて、それ以上の言葉が続かない。
――ほら、こんなに優しい人なのに。
そう思ったら、また涙がこぼれた。
そうして何かを言う代わりに、ユニスもまたルディウスの背中に手を回したのだった。




