憂い
ハイラントへ来てから一週間が過ぎた。
ユニスは日々、刺繍の練習にいそしんでいる。当初心配した通り、7年ぶりに針を持ったユニスの腕前は、散々なものだった。
最初に出来上がったのは、針目の長さが不揃いで、ほつれが散見される作品とは到底言えないようなものだった。
それを見た時は遠い道のりに呆然とする思いだったが、それでもこの作業はユニスにとっては苦ではなかった。テレサに教えてもらいながら、一針一針丁寧に刺していく。コツコツとした手仕事は好きなのだと気づけたのは、新しい発見だった。
一心に手を動かすユニスに、テレサが口を開いた。
「少しずつ糸目が揃うようになっておりますよ。練習を始めた頃より、格段に良くなっています」
そうだろうかと、ユニスはじっと手元にあるものを凝視する。どう見ても下手なのは変わりないが、そう言われれば悪い気はしない。
テレサは刺繍の腕前そのものよりも、以前と比べていかに上達したかに着目して褒めてくれる。努力の成果は出ているのだと。自分ではどうしても評価が厳しくなってしまうので、こうしたテレサの励ましはありがたかった。
そうした意味では、テレサは褒めて伸ばすタイプの教師であった。
しばらく刺繍に没頭していると、突然、低く唸るような笛の音がした。
「……今のは?」
ユニスが目を丸くして顔を上げると、テレサが立ち上がった。窓際に近づいて、外を見やる。
「軍の演習が始まるようです」
その言葉に一度手を止め、ユニスはテレサの傍へと近づいた。城の防御壁の向こう、一段低い場所にある演習場に大勢の兵達が集まっているのが見える。
先程の音は、どうやら角笛のものだったらしい。
囲いもない土を均しただけの広大な演習場。そこに武装した何千もの兵士が整然と並んでいるさまは、壮観であった。
「何をしているの?」
ユニスが尋ねると、テレサも少し首を傾げる。
「陣形の訓練かと思いますが」
テレサの言葉通り、もう一度角笛の音が鳴り響くと同時に隊列が動いた。まるで一つの生き物のように、迅速に隊形が変化する。
横陣から両翼が突出し、半包囲の陣形へ。
ユニスの視線は、自然とルディウスを探して彷徨った。そうして角笛を持つ兵士からそう遠くない場所でその姿を見つけた時は、小さく胸が高鳴った。
今日のルディウスは最初に会った時と同じく、厳しい顔で陣形を見つめている。遠くからでも分かるほど威圧感があるが、その姿を凛々しいと思うのは、ひいき目に過ぎるだろうか。
テレサはユニスの視線がルディウスの所で止まっているのに気づいたのだろう。ふと思いついたように口を開いた。
「見に行かれますか?」
唐突にそう言われ、ユニスは驚いてその顔を見返した。固まってしまったユニスに、テレサは言葉を重ねる。
「見学するための席などはありませんが、殿下なら駄目とは言われないでしょう」
ユニスはゆるゆると首を振る。
「お仕事の邪魔はしたくないもの」
我が物顔でルディウスの領分に立ち入るような真似はしたくない。その目的が単なる好奇心だという自覚があれば、尚の事できなかった。
ユニスの言葉に、テレサはあっさりと引き下がった。もとより強く押す気はなかったのだろう。
それでもここから見ている位ならば許されるだろうかと、ユニスはルディウスを見つめる。結局テレサからもう一度声を掛けられるまで、ユニスは窓辺から動けなかった。
その日の夜。
ルディウスから改めて昼間の話題を持ち出された時、ユニスは少なからず動揺した。
「昼間、演習を見ていただろう」
夕食をとりながらそう切り出され、ユニスは一瞬黙り込んだ。
「……気づいていたの?」
いたずらが見つかったような気持ちでおずおずと口を開くと、ルディウスは笑顔になる。
「演習場からユニスの部屋が見えたから。途中でユニスが顔を出したのに気がついたよ」
ユニスの方は、見られていた事に全く気づかなかった。ルディウスは城の方を一度も見なかったはずなのに。
「いくつ目がついてるの?」
ルディウスの空間認識能力は、常人とはかけ離れているようだ。そう思ってユニスが言えば、ルディウスは声を立てて笑い出す。
「人外のものになった覚えはないが」
そうだろうかと、ユニスは首を傾げた。ユニスを神獣の末裔だと言ったルディウスの方が、よほど不思議な能力を持っていると思うのだが。
「今日は部屋で何を?」
ルディウスから聞かれ、今度こそユニスは押し黙った。その質問に深い意味はないことは、ルディウスの口調から分かる。
けれど刺繍の練習だとは口が裂けても言えない。勘の鋭いルディウスのことだ。言えば、その最終目的まであっさりと見抜かれてしまう気がする。
ユニスがぐるぐると考え込んでしまった理由を、ルディウスは別の意味だと解釈したようだった。
「……部屋で過ごすことをどうこう言いたいわけじゃない。無理に外に出る必要もないが、この間一緒に城を回った時は楽しそうだったから」
ルディウスが何を言いたいのか、分かる気がした。
ルディウスがいない時、ユニスがあまり部屋から出ないことを心配しているのだ。自分の居室に籠もっていては、王都にいた頃と変わらない。
ルディウスはユニスができるだけ自由な生活を送れるようにと、考えているようだった。ルディウスがいない時は守備隊の兵士を必ずつけるようにと言われているが、それさえ守れば城塞内での行動を制限したくはないらしい。
そんなルディウスだからこそ、ユニスがあまり外に出ないことを案じているようだった。
「……ごめんなさい」
ポツリと呟くと、ルディウスは困った顔をした。
「謝る必要はない。何か外に出たくない理由があるなら、知りたいんだ」
理由はある。
刺繍の練習もその一つだが、もっと大きな理由が。――ルディウスがいないと、人に会うのが恐いのだ。
気後れする、と言ってもいいかもしれない。
ルディウスの話によれば、ユニスの王都での暮らしぶりを知っている者はハイラントではほとんどいないらしい。アレスの側近や信頼できる少数の人間のみに伝えられたことで、それ以外の者はユニスを普通の王女だと思っているのだ。
一緒に旅をした面々はユニスの事情をよく分かっているようだったので、城塞の人々も知っているのだと思い込んでいた。
けれど、少し考えれば分かることだ。
父にとって、ユニスは隠したい事柄だったのだから。ユニスがどのような扱いを受けているか、外に漏れぬよう手を回すことは当然していただろう。
故にここにいる人々の多くは、ユニスが戦の勲功によって与えられた褒賞であると信じているのだ。
それが、ユニスを悩ませた。まるで雲上人を見るように、眩いものであるかのように、彼らはユニスを見るから。
向けられる視線は純粋で、だからこそ恐かった。
自身に向けられる好意や敬愛に、申し訳ないような、後ろめたい気持ちになるから。――王女らしい事など、何一つできないのに。
ユニスは己に流れる血筋だけでもって、人々の好意を漫然と受け入れられる性格をしていない。
人々の中にある王女像との大きな隔たりに、ユニスは臆していたのである。
けれどそれをルディウスに伝えたら、ますます心配をかけてしまう。ルディウスはユニスの事を知りたいと言ってくれた。けれどこれは話して良いことだろうか?
悩む顔になったユニスに、ルディウスはそれ以上の追及をしなかった。
落ち込んでしまったユニスの気持ちを明るくさせるように、ルディウスは話題を変える。
「――次の休みは、城下に行ってみようか」
気分転換に、と言うルディウスの優しさが今日は胸に痛かった。




