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神獣の森

 ユニスがこの森を目にするのは、産まれて初めてである。

 なぜこれほどまで惹かれるのかわからぬまま、ユニスは目を離せずにいた。

 息を詰めて一心に見つめるユニスに気づいて、ルディウスも森の方へと視線を移す。


「あれが原始の森だ。ハイラントの者は、単に森と呼ぶ事が多いが」


 この地に住む者にとって森といえばあそこ以外にないからだと、ルディウスは説明した。


「本当に神獣があそこに?」

「俺の知る限り、実際に見たことのある人間はいない。人の立ち入らない神域の奥深くにいるのだとも、普通の人間には見えないのだとも言われている」


 その存在の有無さえも謎に包まれた、神秘の生き物。誰もその姿を目にしたことがないにもかかわらず、人々の間には確かに神獣に対する信仰心が存在するのだ。

 ユニスが真剣な表情で耳を傾けている様子を見て、ルディウスは目元を緩ませた。

 

「生活が落ち着いたら、二人で行ってみようか」


 その提案に、ユニスはぱっと表情を輝かせた。なぜルディウスには、己の考えていることがわかるのだろう。

 しかしすぐに先程のルディウスの言葉を思い出して、ユニスは心配そうな顔になる。


「……でも神域だって」

「奥まで入らなければ、問題はない。それに神獣はユニスの遠いご先祖様でもあるから、訪ねていけない理由などないだろう」


 本気とも冗談ともつかぬ口調で言ったルディウスに、ユニスはその顔をまじまじと見つめた。


「神話のお話?」

「そう。国民の誰もが知っている話だ」


 開祖アステア女王にまつわる物語。

 この国の王族は、神獣の末裔だと言われているのだ。

 アステアは知勇に優れた女傑であったが、私生活においては生涯独身を貫いた。にもかかわらず、男児を一人産んでいる。

 相手は誰かと尋ねた周囲に、アステアは子の父は神獣だと答えたという。この子には特別な力が宿り、神々から祝福されている、と。

 子供の名を、ヴァシリスという。

 実際、王位を継いだ彼には、不思議な力があったと言われている。

 霊獣と言葉を交わし、天候を自在に操ることができた。伝説も多く、竜退治や洪水から街を守った話は、知らぬ者がいないほど有名だ。

 元々は小国に過ぎなかったこの国の領土を拡大し、国を富ませたのはヴァシリスの功績である。

 歴史書にも神話にも童話にも、アステアとヴァシリスは登場する。人々はこうした物語を通して、幼い頃から王室に対して畏怖と敬意の心を持つようになるのだ。

 一方、政治的な側面に目を向けると、この話が王権の正当性の論拠になっているといえた。神聖なる血を継いだ一族こそが国を治めるのにふさわしい、というわけだ。


 ルディウスの語ったユニスの遠い先祖というのは、これらを受けてのものである。ユニスは小首を傾げた。


「自分の中に神獣の血を感じたことなんてないけれど……」


 神獣の末裔だといわれても、正直なところ実感は湧かない。神話で語られる祖先の話と、今の自分自身とを関連づけて考えたことはなかった。


「神話になるほど昔の話だからな。神威というのを目にしたことはないが、それでも森に入ると、やはりあの場所には何かがあると感じる」


 たとえ神獣の姿が見えなくとも、人々の信仰を集めているのは、故ないことではないのだ。ルディウスの言葉に、ユニスはますます興味をひかれた。


「私も森へ行ってみたい」

「では、そうしよう」

「ありがとう」


 嬉しそうに微笑むユニスに、ルディウスも穏やかな笑みを浮かべる。

 そんな風に話をしながら進んでいると、街の入口まであっという間についてしまった。

 堀の上に架かった跳ね橋を渡ると、城門の兵士がルディウスの姿を認めて声をかけてきた。


「閣下。無事のご帰還、お喜び申し上げます」


 顔見知りなのか、ルディウスが馬を止める。


「テオ、街の様子はどうだ?」

「皆アレス陛下戴冠の報に喜んでいるという他は、変わりありません」


 テオと呼ばれた兵士が笑顔で答えた。

 ルディウス達より一足早く戻った早馬が伝えたのだろう。街はアレス即位の慶事に湧いているという。

 城門をくぐると、ハイラントの街並みが眼前に広がった。城壁の内側に20万人が暮らす、国内有数の都市である。

 まだ朝も早い時間帯。人々は目覚めている頃だろうが、店はほとんど開いていなかった。朝の静けさに包まれた街を、騎馬の一隊がゆっくりと進んでいく。


「内側にも壁があるわ」


 ユニスが驚いたように呟くと、ルディウスが頷いた。


「ハイラントは防衛拠点だからな。戦になったら、あの城壁がものをいう」


 外壁、内壁、さらに城を囲む防御壁と三重の城壁によって守られているのだという。 

 城塞は街よりも更に高地にある、灰色がかった堅牢な建物である。

 この城が籠城戦においては、最後の砦となる。単に城主の居館というだけではなく、東方軍の司令本部としての役割も担っていた。

 内壁の敷地内には、兵舎をはじめ武器庫、貯蔵庫、馬場、厩舎きゅうしゃ、軍需工場にあたる工廠こうしょうが存在する。

 これまで度重なる包囲を受けたが、築城以来一度も侵略を許さなかった難攻不落の城塞である。


「疲れていなければ、後で城の中を案内しよう」


 疲れはあるが、休むよりも早く城の中を見てみたい。ルディウスの言葉に、ユニスは笑顔で頷いた。

 城塞の入口前まで来ると、ルディウスの手を借りてファスから降りる。

 城の中に足を踏み入れると、大ホールが広がっていた。石材でできたホールは絢爛というより素朴な印象で、装飾よりも機能性を重視していることが見て取れる。

 高いホールの天井をユニスが眺めていると、ルディウスが声をかけた。


「こちらだ」


 ルディウスがまずユニスを連れて行ったのは、城主の居室区域だった。

 

「アレス陛下が使っていたこの部屋が、今度はユニスの部屋になる」

「……ルディウスの部屋も近くに?」


 おずおずと尋ねると、ルディウスは首を振った。


「いや、今は兵舎の近くに居館がある」


 ルディウスの部屋はこの城の中にはないという。それを聞いて、ユニスは少し心細さを感じた。

 ルディウスはユニスの表情を見ながら、そっとその頬に手を伸ばす。急に触れられて、ユニスの鼓動はみるみる速まった。


「心配しなくていい。すぐに城内の守備隊区画に移るつもりだから」

 

 頬が熱を帯びるのと同時に、ユニスは恥じ入った。あまりにも、ルディウスの優しさに甘え過ぎていると思ったからだ。

 ルディウスはさらにユニスの侍女となる女性を連れてきていた。


「ユニスの身の回りの世話は、彼女がやってくれる」


 紹介されたのは、優しげな表情が印象的な女性だった。少しふっくらとした体型に、焦げ茶色の髪と瞳。歳は40歳くらいだろうか。


「テレサと申します」


 にっこりと微笑むと、柔らかな印象はさらに強まった。第一印象で彼女を嫌う者などいないだろうと思わせる、温かみのある笑みだった。


 ――とても、優しそうな人。


 ユニスはすぐにテレサに好感を持った。


「ようこそ、ハイラントまでお越しくださいました。城内の者を代表して、心から歓迎致します」


 誠実で親しみに溢れた声音に、ユニスも感謝の気持ちが伝わるようにと笑みを返した。


「ありがとう。これからよろしく頼みます」


 ユニスの表情に、テレサが眩しそうに目を細める。


「これまで大変なご苦労をなされましたね。殿下がこの地で憂いなく生活できるよう、微力ながらお手伝いをさせていただきます」


 テレサは単に旅のことを指して、ねぎらっているだけかもしれない。しかしその言葉が、これまでのユニスの人生に対するいたわりのように思え、じんわりと熱いものが胸の奥からせり上がってくる。

 気がつけば、一筋の涙がユニスの頬をつたっていた。


「あらあらあら! どうしましょう」


 テレサがびっくりして目を丸くしている。彼女を誤解させてしまうと、ユニスは慌てた。これは悲しみではない。――ただ嬉しかったのだ。

 テレサがそっとユニスの頬を拭う。その様子を、ルディウスが優しい眼差しで見守っていた。

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