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第8話 沈黙が終わる夜

環状神殿の夜は、星空の底が抜けたみたいだった。

回廊の石は冷たいのに、星灯が足元をやさしく照らし、鈴の音が遠くで薄く鳴っている。


共鳴井の縁に立つと、底から“風”が吹き上がってくる。

風は音を含み、音は光を含む。

ここは、声が宇宙に届く場所。


管理官が言った。


「通常は声で呼びます。しかし、あなたのケースでは――声は危険」


公爵が一歩前に出る。

手に持っているのは、鈴でも星灯でもない。

透明な細い輪――共鳴輪きょうめいりん

古代文明の道具だ。


「これで、名を落とす」


管理官が驚いたように目を見開く。


「共鳴輪は“音の形”を刻むもの。声を使わず、周波数で座標を固定する……しかし、それは――」


「可能だ」


公爵の声は短く、揺るがない。


私は、隣に立つ。

名前が思い出せないまま、でも、ここに立つのが“正しい”気がしていた。


公爵が私に、紙片を渡す。

そこには一行。


――新しい名を、あなたが選べ。

――それを座標にする。


新しい名。

それは、喪失ではない。

再点火だ。


私は星灯を握った。

ぬるい。

この温度が私をここまで運んだ。


紙に、ゆっくり書く。


「ルイ」


口に出してみる。

軽い。

でも、芯がある。

鈴の音みたいに、澄んでいる。


管理官が儀礼的に問う。


「確定しますか。あなたの座標名――ルイ」


私は頷く。


「はい。……私、好きに生きるって決めたから」


公爵が共鳴輪を持ち上げる。

輪が、淡く光る。

星灯の光と同じ色だ。


「……目を閉じろ」


私は目を閉じた。

音が、近づく。

声じゃない。

鈴でもない。

“形のある沈黙”が、私の胸に触れる。


共鳴輪が、私の新しい名を“音の形”として刻み、共鳴井へ落ちていく。

落ちていくはずなのに、音は落ちない。

むしろ、星空へ上がっていく。

宇宙の壁に、新しい座標が打ち込まれるみたいに。


管理官が宣言した。


「座標固定、完了。存在安定――確定」


私は目を開いた。

風がやさしい。

大気が、私の輪郭を撫でる。

“消えない”が、体の中で静かに鳴る。


私は公爵を見た。


「……あなたの名前は?」


公爵は、一拍だけ止まった。

そして、初めて自分の名を私のために差し出すように言った。


「レイ=アルト」


私はその音を覚えた。

呼んでも消えない。

いまは、もう大丈夫。


「レイ」


呼ぶと、公爵の目が微かに揺れた。

驚きと、安堵と、――長い沈黙の終わり。


私は笑った。


「ねえ、レイ。私のことは……呼ばなくていいよ」


「……なぜ」


「だって、あなたの沈黙で、私はここまで来たから。だからこれからは――呼ばれなくても、ここにいる」


公爵は、何も言わなかった。

でも、星灯をひとつ、私の掌に置く。

いつもの温度。いつもの優しさ。


神殿の回廊を歩きながら、私は言った。


「やりたいことリスト、続きがあるの。明日は、発光する河でパンを食べよう」


公爵は頷いた。


「……実行する」


「契約だから?」


「……契約だ」


建前のまま、あたたかい。

それが、この人の愛し方だと、いまなら分かる。


星が近い夜。

灯りが柔らかく広がる大気。

鈴が遠くで鳴る。


そして私は、確かにここにいた。


呼ばれなくても、消えない。

それでも、隣にいてほしい人がいる。


――この宇宙の静けさは、私たちのためにあるみたいだった。


(最終文)

星灯が揺れるたび、私は“ここにいる”を、何度でも好きになった。

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― 新着の感想 ―
物語全体を静かで美しい余韻の中に着地させる最終話です。 「呼ぶ/呼ばれる」という危険だった行為が、沈黙と選択によって乗り越えられ、ユイ(ルイ)が自分の意思で存在を確定させる展開はとても象徴的。公爵が“…
「沈黙による愛」を、ここまで美しく肯定した結末は稀。 声を使わず、 名前を呼ばず、 周波数と温度で座標を固定する―― 設定の回収が論理的でありながら、 同時に感情の救済になっている。 最後にユイ…
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