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第7話 忘却の朝

朝、鈴の音が分からなかった。

手に持っているのに、鳴らし方が思い出せない。

しゃらん、のはずなのに、指がどこを弾けばいいのか分からない。


星灯も、ただの石に見える。

温度が、遠い。


胸が、すうっと冷える。

これが、忘却。

喪失の入り口。


私は深呼吸した。

絶望しない。

泣き喚かない。

いま私ができることをする。


――書く。


机の上の紙に、震える手で文字を落とす。


「私はユイ。名前が不安定。呼ばれると消える。期限まであと――」


そこまで書いて、ペンが止まった。

“あと何夜”か、分からない。

数字が抜ける。


ドアの向こうから、鈴が鳴る。

返事の鈴。

でも、それが“合図”だと気づくまで、時間がかかった。


ドアが開く。

公爵が入ってきて、私を見る。


そして、何も言わずに――星灯を私の掌に乗せた。


ぬるい。

じんわりと、体温が戻ってくる。


私の喉が勝手に動いた。


「……あなた、だれ」


公爵の表情が、ほんの僅かに歪んだ。

痛みの形。

でも彼は、痛みを私にぶつけない。


代わりに、紙を取り、短く書く。


――保護者。

――あなたを守る。

――怖くない。


私はその文字を見て、なぜか泣きそうになった。

知らないはずなのに、知っている気がする。

体が覚えている。


公爵は、鈴を鳴らした。

しゃらん。

その音が、胸の奥の“何か”を叩く。


私は震える声で言った。


「……その音、好き」


公爵の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「……よかった」


短い一言。

それだけで、部屋の空気が温かくなる。


私は紙に書いた。


「私、最後に何かするの?」


公爵は頷き、指で窓の外を示した。

遠く、環状神殿が見える。

夜が近づくと、星霊の灯りが線になる場所。


――今夜。儀式。


忘れている。

でも、怖くない。

この人が“呼ばないまま”守ってきたことだけは、体が知っている。


(引き:今夜の儀式で必要なのは「一度きりの正式呼称」――それを、公爵は“声ではなく別の方法”で行うつもりだった)

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― 新着の感想 ―
忘却による危機と、それでも守られている安心感が対比的に描かれる回です。ユイが鈴や星灯の使い方さえ忘れる中、公爵の細やかな配慮と温かさが救いになり、読者にも二人の信頼関係の深さが伝わります。喪失の恐怖と…
喪失の描写が、これ以上ないほど静かで怖い。 名前が言えない。 鈴の鳴らし方が分からない。 灯りがただの石に見える。 ホラーに近いのに、叫ばない。 この“温度が引いていく感覚”の描写は、 非常に文学…
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