第3話 発光する河とスープ
市場は、音が柔らかかった。
屋根のない回廊に、発光石のランプが吊られ、風に揺れて淡く瞬く。
呼び込みの声はあるのに、角がなく、言葉が丸くなる。
公爵は、私の半歩後ろを歩く。
守っているというより、私が転ばない距離を計算しているみたいだった。
「ユ――」
通りすがりのガイドが、名簿を見て声を上げかけた瞬間。
しゃらん。
公爵の指先が、彼の手元の鈴を軽く鳴らした。
音が空気に滲み、ガイドの口が止まる。
「……失礼。こちらの方は、呼称禁忌でしたね」
ガイドは小声で謝り、頭を下げる。
公爵は一言も発しない。
ただ、私の前に立って、視線で“進んでいい”と示した。
市場の屋台で、丸いパンを買う。
焼き目の香りと、甘い果実のジャム。
私は思わず頬が緩んだ。
「これ、おいしい。……公爵様も食べます?」
公爵は首を横に振る。
「あなたの栄養が優先」
「合理的すぎません?」
「合理的だ」
またそれ。
私は笑って、パンを半分に割った。
湯気が立つ。
湯気が立つだけで、私の存在が確かになる気がした。
発光する河へ降りる石段は、張家界のように垂直に切り立つ岩肌に沿っている。
けれど怖くない。
手すりが整備され、足元の星灯が“ここだよ”と道を照らす。
河は、光そのものだった。
水面の代わりに、無数の光粒が流れ、ゆっくりと曲がり、時々、魚のような影が透ける。
「……きれい」
私が息を漏らすと、公爵は小さく頷いた。
「この星は、見せるためにある。観光惑星だから」
「……それでも、神聖ですね」
公爵は答えない。
代わりに、トレイを取り出し、スープの器を置いた。
市場で買ったものだ。
湯気が河の光と混ざり、匂いが胸の奥をほどく。
「食べながら、見ろ」
「命令形だ」
「必要だ」
私はスープを飲み、パンをかじり、河を見た。
食べるたび、体が温まり、手足の輪郭がはっきりする。
不安定な座標が、少しずつ“いま”に張り付いていく。
「……公爵様、どうして引き受けたんですか」
自分でも、急だと思った。
でも、聞きたかった。
この人は、仕事としてでも、優しすぎる。
公爵は河を見たまま、少しだけ指を動かし、私の鈴を鳴らした。
しゃらん。
それから、短く言った。
「規定だから」
「嘘だ」
言ってしまった。
公爵の視線が、私に向く。
冷たいのに、逃げない目。
「……根拠は」
「灯り。鈴。食事。散歩。私が転びそうになると、先に足が出る。合理主義の人が、そこまで“余計”しない」
公爵は黙った。
沈黙が長いほど、この人の中で“言葉にするのが苦手”が確かになる。
そして、やっと。
「……余計ではない」
それだけ。
私は笑って、パンをもう一口かじった。
河の光が、私の頬を照らす。
(引き:公爵の手が、鈴を鳴らす指先だけ、微かに震えていた)




