第2話 名前のない部屋
朝は、音が薄かった。
重力がわずかに軽いせいで、カーテンが揺れるたび、空気がふわりと“持ち上がる”。
部屋は観光客向けの宿舎の最上階。
窓の外には、断崖に沿って連なる石段と、遙か下の発光する河。河は水ではなく、微細な光藻が漂う“流れる灯り”らしい。
枕元の鈴を手に取る。
しゃら、と鳴らすと、ドアの向こうで、返事の代わりに別の鈴がひとつ鳴った。
――言葉はなくていい。
そういう約束。
少しして、ドアが静かに開く。
公爵レイ=アルトが、トレイを持って入ってきた。
湯気。
甘い香り。
焼き立てのパンの匂いが、部屋の空気を“朝”に変える。
「……食事」
彼は短く言い、トレイを置いた。
銀色の器に、淡い金色のスープ。
表面に浮かぶのは、星屑みたいに細かい発光粒子――光藻を乾燥させたものだと、後で聞く。
「これ……きれい」
私が見とれていると、公爵は少しだけ視線を逸らし、窓の外を見た。
「栄養は足りる。甘味は控えめ。あなたの体は地球より乾きやすい」
合理的。
本当に、合理的だ。
「……名前、呼びたいんじゃないですか」
ふいに、聞いてしまった。
彼の声は低く落ち着いていて、もし私の名前をそこに載せたら、きっと安心するのに。
公爵は、答えなかった。
代わりに、星灯を一つ、私の目の前へ滑らせた。
「この灯りは、あなたの“現在”を示す。触れると温度が安定する」
私は星灯に指を触れた。
ぬるい。
まるで、誰かの手の体温を借りたみたいに。
「呼ばないことが、最適解なんですね」
公爵の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「最適解は、あなたが消えないことだ」
言い切る声は、感情が見えないのに、妙に強かった。
私は、スープを一口飲む。
舌の奥に、淡い塩と、果実のような香りが広がる。
涙が出そうになる味だった。
「……期限って、どれくらいですか」
公爵は、懐から細い板を取り出した。
透明な石板に、光の文字。
――残り 二十八夜
「二十八……」
「この星の一夜は、地球の一・二夜に近い」
短い換算。
けれど、それは思ったより短い。
私は息を吸って、吐く。
大丈夫。絶望しない。
限りがあるなら、好きに生きるだけだ。
「やりたいこと、あります」
公爵の眉が、微かに上がる。
「観光計画か」
「はい。……この星、世界遺産級なんですよね。せっかくだし、見たい。食べたい。歩きたい」
我ながら、図太い。
でも、そうしないと、消える前に“私”が先に萎れてしまう。
公爵は黙って、紙とペンを私に差し出した。
昨日の紙片の裏だ。
――リストを書け。
私は書いた。
発光する河のほとりでパンを食べる。
環状神殿の夜を見上げる。
断崖の石段を登る。
星灯の市場に行く。
鈴の共鳴を聴く。
書き終えると、公爵は紙を受け取り、折り畳んだ。
「実行する」
「……契約だから?」
「契約だ」
淡々と。
それなのに、彼は星灯をもう一つ置いていく。
「夜は冷える。足元に」
部屋を出る前に、彼は私の方を一度だけ見た。
名前を呼ばない代わりに、視線で確かめるみたいに。
ドアが閉まる。
残された私は、鈴を握りしめて、笑ってしまった。
――呼ばれないのに、
こんなに“ここにいていい”って思えるなんて。
(引き:窓の外、観光客のガイドが大声で私の名前を読み上げようとしている気配――)




