第1話 呼ぶと消える名前
星は、近かった。
夜空が“天井”ではなく“壁”みたいに迫っていて、手を伸ばせば指先が冷たい光に触れてしまいそうだった。
断崖に沿って築かれた都市――ルミナリア。
石段の縁に、星灯と呼ばれる淡い青白いランプが等間隔に置かれている。観光地のように整備され、行き交う人々の足取りは穏やかで、笑い声さえ柔らかく薄く大気に溶けていく。
「ここは危険じゃない。……でも、あなたの状態は“危険”です」
案内所の診察室で、白衣の女性が言った。
彼女の胸元には、細い鈴がひとつ。しゃら、と小さく鳴ってから止む。
この星の合図は、言葉より先に音なのだと、その瞬間だけ理解した。
「あなたの“名前”は座標です。宇宙に存在を繋ぎ留める番号みたいなもの。――そして、あなたの名前は不安定」
私は椅子の端を掴んだ。
宇宙航路の事故で投げ出され、救助船に拾われ、なぜか“観光惑星”に搬入されて。
一息つく暇もなく、いま、“名前”を揺さぶられている。
「不安定……?」
白衣の女性は、視線を落とした。
怖がらせない配慮が、かえって怖い。
「呼ばれるほど、擦り減ります。呼ばれ続けると――消えます。存在が、座標から抜け落ちる」
喉が、からん、と乾いた。
泣きそうなのに、涙は出なかった。
絶望より先に、静かな計算が始まってしまう。
「じゃあ……呼ばれなければ、いいんですか」
声が震えなかったのは、自分でも意外だった。
私はいつも、こういうとき、心だけが先に立ち上がる。
白衣の女性が、うなずく。
「ええ。だから保護者が必要です。あなたはこの星の“滞在者”。規定に従い、守護家門が受け持ちます」
扉が開いた。
空気が一段冷たくなったような気配が入ってくる。
銀色の外套。
黒に近い紺の衣。
長身で、顔立ちは端正なのに、表情がほとんど動かない男が立っていた。
「守護公爵、レイ=アルト」
白衣の女性が紹介する。
その人は、私を見て――一拍だけ、まばたきをした。
そして、言った。
「……あなたの名前は?」
胸が跳ねた。
だめだ。呼ばれたら。削れる。
白衣の女性が即座に割って入る。
「公爵。呼ばないでください。彼女は“呼称禁忌”です」
男――公爵が、眉をほんの少しだけ寄せた。
「合理的ではない」
言い方は冷たいのに、視線は落ち着いていた。
怖くない。
この人は、怒っているのではなく“仕組み”に腹を立てている。
「最適解を選びます」
彼は私の前に、掌サイズの星灯を置いた。
石でできたランプは、私の鼓動に合わせるみたいに淡く明滅する。
次に、小さな鈴を机に置く。
最後に、紙片とペン。
紙片には一行だけ書かれていた。
――呼ばない。代わりに、これで合図する。
私は息を吸って、吐いた。
「……私、ユイです」
言ってしまってから、慌てて口を押さえた。
自分の名前を、自分で呼ぶのは大丈夫なのか。
白衣の女性が、安心させるように笑う。
「自称は問題ありません。第三者が“固定の音”で呼ぶほど危険」
公爵は、私の名を反芻しなかった。
代わりに、鈴をひとつ鳴らす。
しゃらん。
「それが、あなたの合図になります」
彼は立ち上がり、扉へ向かう。
振り返りもせず、言った。
「あなたの名前は呼ばない。期限が終わるまで」
冷たい宣言のはずなのに。
私は、その背中に、なぜか救われた。
「――待って」
思わず口にした。
公爵が止まる。
「……何か」
「ありがとう。……呼ばないって言ってくれて」
返事はなかった。
けれど彼は、外套の裾をわずかに揺らし、廊下の星灯が作る淡い道を、私のために開けるように歩いていった。
その夜、私は“呼ばれない部屋”で眠った。
星灯が静かに脈打ち、鈴が枕元で眠り、
星が近いだけの空が、やけに優しく見えた。
(引き:ドアの外で、誰かが私の名を呼びかける気配がした――)




