第八十一話 女絵描きの悩み
今回は絵描き女学生の視点で、変装したリナと出会うお話です。
私はクロエ・ディナール。マルセイユの美術大学に通う女生徒だ。
クリスマスの朝。
私は絵の道具を抱えて歩いていた。
マルセイユは港町で、美しい海の景色が広がっている。
丘の上から街を見下ろせば、それはもう壮観だ。
美しい西洋建築の家々が立ち並ぶ向こうには、霧で薄れた水平線が見える。
いい眺めを見れば、インスピレーションが湧いて絵が描きたくなる。
そう思って、ここに来てみた。
でも、やっぱり今は何も湧いて来なかった。
私はあの日から、スランプになっている。
それは、リナ・マルデリタがチタルム川に魔法をかけた日。
私もニュースであの映像を見て、リナの鮮烈な姿に衝撃を受けた。
汚れた川が浄化される瞬間は、あまりに美しく、あまりに印象的だった。
美術学校の仲間たちは、みんなその話題で盛り上がっている。
「彼女は現代のジャンヌ・ダルクよ。私は月日をかけてでも、あの場面にふさわしい絵を完成させてみせるわ」
母国の古き聖人に例えながら、クラスメイトは熱心にリナの油絵を描いていた。
彼女の絵の中では、リナが地球から黒い何かを吸い出しているようだった。
水彩画の教授も、リナ・マルデリタについて熱を持って語っていた。
「彼女は絵のモチーフとしてふさわしく、なによりも清らかな人間だ。
その献身的な行動理念は、今後起きるであろう美しい光景を幾つも連想させる。
いずれ後世から見た時。この21世紀前半の象徴的な絵画として、リナ・マルデリタを描いた絵が幾つも残るだろう」
それは、もはや誰にも否定できない事だった。
彼女を描いた絵は今、とてもよく売れるそうだ。
商業的な需要が高い事もあって、彼女の絵をテーマにしたコンクールも始まっている。
私も、彼女の絵を描こうとした。
流行に乗るなんて、自分らしくはない。
私はずっと、自分が描きたい、ささやかなものを描いて来た。
庭に咲いた小さな草。家に巣を作った鳥。靴を磨く職人。
そんな日常の小さな景色を切り取った絵を、ずっと描いて来た。
でもあの映像を見てから、リナという名の英雄を描きたくなってしまった。
皆と同じように、創作意欲がそちらに向いてしまったのだ。
それから、衝動的に何度も何度も彼女を描く事に挑戦した。
でも、一度も満足には描けなかった。
私の描いたリナは、あの美しい光景には、あの偉大さには到底及ばないものだった。
やっぱりスケールの大きな存在を描くのに、私は向いていないのだ。
そう言い聞かせて、何か他に描きたくなるものを探している。
今は、そんな最中だった。
丘の上には、マルセイユのシンボルとなる荘厳な建築物が見える。
ノートルダムのバジリカ聖堂だ。
とても美しいが、自分が描くような対象ではない。
私は丘のあたりを歩き、小さな被写体を探した。
と、その時だった。
聖堂の前に、一人の少女がやってきた。
彼女は黒髪で、帽子を被っていた。
愛らしい、丸い瞳をした少女だった。
その姿は、なぜかある人物を想起させた。
「リナ……?」
いや、そんなわけはない。彼女がここにいるわけもないし、あの子はただの地球人だろう。
それにしても他人をリナに重ねてしまうとは。
私はそんなにまで彼女について考えていたのか。
そんなことを考えながら、彼女を眺める。
黒髪の少女は、外から建物を眺め、スマホで写真を撮ったりしていた。
やはり、普通の観光客だろう。
だというのに、彼女から目が離せない。
なぜだろう。
私は、彼女を描きたいのだろうか。
自分の腕に問いかけると、ペンを握り続けて来た手が疼いた。
ああ、そうか。描きたいのだ。
なら、行くしかない。
「あの、ちょっといいかしら」
声をかけると、彼女は振り返った。
「なんでしょうか」
すると、フランス語で返事が返って来た。
「その、いきなりごめんなさいね。私は地元の美術学校の生徒で、課題で描く被写体を探しているの」
「美術学校、ですか?」
「ええ。あなたは、観光客かしら」
「ええと、まあそうですね。少しの間、フランスを見て回るつもりです」
フランス在住ではないらしい。長時間もらうのは難しいだろう。
「なら、今日だけ、いや、午前中だけでもいいの。あなたを描かせてもらえないかしら。モデル代に昼食分くらいは出すわ」
「私をですか。そんなに描きたいと思います? 私ですよ?」
丸みを帯びた顔を前に突き出してくる少女。
「え、ええ。描きたいという気持ちは衝動だし、説明はできないけど。
そこのベンチで、少しだけでもいいの」
頭を下げて頼み込むと、彼女は少し考えた後で言った。
「そうですか。それくらいならいいですよ」
「よかった。じゃあ、そこに座ってくれる?
別にポーズはとらなくていいから、自然のまま、あまり動かないでほしいの」
彼女はベンチに腰掛け、私の指示通りに背にもたれて動きを止める。
私は少し離れた場所に腰かけ、画板を出して画用紙に絵を描き始めた。
よく観察すれば、彼女は本当にリナに似ていた。
頬のふんわりした感じ。背の低さ。やわらかい髪。
小さな鼻に、丸い瞳。
それは、私が模写していた写真の中のリナのパーツに繋がるものがあった。
初めて見た時にリナを重ねたのも、無理はないのかも知れない。
ただ目の前にいる少女は、あの映像で見た英雄とは全く印象が違っていた。
パーツが似ていても、雰囲気が全く違う。
おっとりしていて、丸みがあって。普通の可愛らしい女の子だった。
そんな等身大の人間を描いているからだろうか。
リナを描いた時より、すんなりと鉛筆が走る。
描きたい線に、より近いモノが描ける。
私は夢中で描き続け、昼には彼女のデッサンをある程度形にする事ができた。
今までスランプ気味だった私としては、久しぶりに満足のいくものだった。
「ごめんなさい。長くかかっちゃったわね」
「いえいえ。ちょっと見せてもらえますか?」
そう言って、彼女は私の絵を覗き込む。
「へえ……。上手いですね。写真、撮っていいですか?」
「え? ええ、いいわよ」
彼女は絵をスマホで撮影し、嬉しそうに画面を眺めていた。
うん。
やっぱり私は英雄なんかより、こういう普通の女の子を描く方が性に合っているらしい。




