怖いボクサー 恐怖とは
世良は皆を、サンドバックが吊るされているエリアに集めた。
そして、1つのサンドバックを選んで水沢に言った。
「この丸めがけて、左ストレートを打ってください。全力で!」
そのサンドバックにはマジックでいくつか丸が書かれていた。狙いを定めて打つ練習の為だ。
水沢は少しスタンスを確認しつつ、言われるがままにサンドバックを叩く。
スパン!と鋭角的な音が響き渡り、鎖で吊るされたサンドバックがギシギシと揺れた。
遠くで見ていた練習生が「すげぇ」と呟くような一撃だ。
「うん!いいですね!そのまま構えていてください」
世良はそう言うと、水沢の立ち位置をチョークでなぞって、床に足形を描いた。
それでは、今度はここに立って同じように打ってください。
世良は先ほど描いた足形の右隣に、別の色で足形を描いた。
「そういうことか!」
それだけで阿部は納得したようだ、
「何がですか?」
と水沢。
「まぁ、いいからやってみろ」
水沢は言われるままに、世良が描いた足形の上に立ち、サンドバックの丸印を見た。
スタンスがしっくり来ないのか、2度3度ステップを踏む。
スパン!と、やはり見事な一撃を打つ水沢。しかし・・・
「ダメですね」
彼は一旦足形を外れた。そして軽く深呼吸して、また戻る。
ズンッ!
ステップを踏まずに放ったパンチは、芯を捕らえきれない鈍い音を立てた。
「コツを掴みすぎたんでしょうね」
世良が言った。先ほどの水沢と所沢の会話を拾っての言葉だ。水沢か頷く。
「全身をフルに使って打つのが上手くなったが為に、いつの間にか十分な体勢で打つことに拘るようになった」
「しかし、試合では十分な体勢で打てる位置に相手がいることなんて、ほとんど無い。動きの激しい中間距離は特に」
世良の言葉に阿部が続いた。
「だから、カウンターは右ばっかりだったんだ。手加減されてるのかと思ってた」
と、所沢。
元々強打を狙わない右ジャブは、変わらず多彩に打てる。だから相手に合わせて咄嗟に出るのは右が多くなるのだ。
しかし右だけでは所沢ですら止めきれなかった。A級ボクサーの突進を止めることなど出来ないだろう。
水沢は、言われた言葉を噛み締めるように頷きながら、様々な角度で左ストレートのシャドーをしている。
「十分な体勢でしか打たないということは、相手から見たら、構えたまんまの位置にしか左ストレートは来ない。だから怖くないんです。予測しやすいから」
世良の言葉に水沢は深く頷いた。
「恐怖とは、『ヤバイことが起きそうな気がする』という予測なんです。『ヤバくない』ことが予測できてしまったら、怖くないですよね」
世良は以前に、子供の体育指導の議論をした時のことを思い出しながら話す。
水泳、鉄棒、跳び箱等、初めてやる子供にとっては怖い。未知故に『ヤバくない』という確証が持てない。だから、『失敗したらヤバイことが起きそう』という予測が抜けないのだ。
「確かに。ホラー映画も、先が読めたら怖くないもんな。。。」
色々納得した水沢が呟いた。
確かにその通りだが、意表を突いた答えに世良が噴出す。
「ん?オレ変なこと言いました?」
「いや、その通りだと思いますよ。ということで!」
世良が軽く咳ばらいをして言った。
「調整しましょう!一昔前ならこういうのは『筋トレで使えない筋肉が付いた』とか言われていましたが、原因が明確なので、調整すりゃいいんです。不十分なスタンスから左ストレートを打つ練習すればいい!」
阿部、水沢、所沢が同時に頷く。
「まずは、こんな感じで、わざとベストからずらしたスタンス位置をいくつか作って、それに合わせて打つ練習したりとかは、どうでしょう?」
「いいですね。私もミットを持つ時、わざと打ちにくい位置を織り交ぜます」
「小さめのサンドバッグや、パンチングボールとか、動く物を左ストレートで捉える練習はどうですかね?」
「なんならテニスボール投げて、それを左ストレートで打って見る?」
ジムにはディフェンスの練習用にテニスボールが用意してある。本来はそれを投げて避けるのだが、打ち返してみようという発想だ。
このように、一旦方針が決まると、次々と練習方法のアイデアが浮かんできた。
「なんか、いい意味で『ヤバイことが起きそうな』気がしてきましたね。でも、これは恐怖じゃないな」
水沢が言った。
「はい。『良いことが起きそうな気がする』という予測なら・・・」
世良が答える。
「それは『ワクワク』ですね!」




