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怖いボクサー 体験

(遠いな)

 世良は思った。


(こんなの届くわけがない)

 目の前の水沢の顔は、世良の伸ばした腕のさらに1mは先にある。

 しかし、だからと言って何もしないわけにはいかない。

 世良は思い切って踏み込んで左ジャブを出した。


 それはあっさり左構え(サウスポースタイル)の水沢の右手で払われた。

「いきなりは無理ですよ。小刻みに!」

 そう言って水沢は、右ジャブで世良の左のグローブを叩く。

(なるほど)

 世良も合わせるようにジャブで水沢のグローブを打つ。拳と拳をぶつけ合うような形だ。

(こうやって牽制しながら、隙を見て・・)


 スパン!


 踏み込んだ所に見事にカウンターを貰った・・・のだと思う。

 音と衝撃と共に視界が無くなった。そしてヘッドギアをした頭がぐりんと後ろにのけぞったのは分かる。


「大丈夫ですか?!」

 リングサイドの阿部が声をかけた。

「大丈夫です」

 世良はそう言うしかなかった。

 『怖さ』を言語化する為には、体験するしかない。その為に自分から申し出たスパーリングだったからだ。もちろん本気ではない。水沢は一番大きいグローブを使用して、パンチは軽く当てるだけ。連打もしない。顔に当てるのは右ジャブだけという条件付きだった。

 しかし・・・


(見るのとやるので、こんなに勝手が違うものか・・・)

 世良は思った。自分のパンチは当たらない。というか、届く気がしない。しかし相手のパンチは届いてしまう。この意味が分からない。


 しかし、これで怯んでたら何も分からない。勇気を出してもう一度踏み込んだ。


 スパン!


 まったく、同じ衝撃が来た。

「もうちょい軽くやれ!」

 阿部から水沢に指示が飛ぶ。

「いや、このままで願いします!」

 それを世良が制する。困ったように所沢を見る阿部。所沢は「このままで」と小声で言った。


「頭振って!」

 所沢から世良に檄が飛ぶ。

 世良は言われるままに頭を振り、左右にステップを踏む。少しでもリズムを変えてタイミングを読まれないようにするためだ。


 スパン!


 しかし、同じだった。素人の考えなど手に取るように分かるのだろう。世良は打ち合いどころか、自分のパンチが届く間合いに入ることすら出来ない。

 

「インファイトやってみましょうか!」

 このままやっても埒が明かないと判断した所沢が提案した。

「うっす!」

 そう言うと水沢は右構え(オーソドックス)にスイッチした。本来利き腕は右手の彼は、接近戦ではこの構えを得意とする。二人は足を止め、頭と頭が交差する距離を取った。


「水沢は左ボディ限定な。世良さんは好きにやってください」

 阿部のその言葉を合図に世良がパンチを放つ。

 しかし当たらない。

 こんなに近づいているのに、パンチは全て水沢の腕、肩、グローブでブロックされた。


 後で聞いたことだが、お互いに体が触れている状態では、相手の動きが読みやすいのだそうだ。そして、接近して強いパンチを打つのは技術がいるので、世良のような素人は大振りになる。だから、よけいに当たらないと。


 加えて見た目以上に疲労が激しい。グローブというのは使い慣れない者にとってはかなり重いのだ。これをつけてパンチを打つだけで世良は肩で息をしていた。


「うっ」

 不意に世良は息が詰まった。そして、吐き気に似た不快感がこみあげてくる。

 水沢の左ボディがヒットしたのだ。水月は外して横の肋骨を叩いていたものの、それでも世良は膝をついた。


「ここまでにしましょう」

 阿部が中断を宣言した。

「吐きますか?」

 所沢がバケツを持って来る。うずくまる世良に対して過度に心配することなく、淡々としている。グローブをはめてリングに上がる以上は、これは普通のことなのだ。世良もこういう光景はさんざん傍では見ていたが、改めて自分がその中に入ると、凄まじい世界だなと思う。

「大丈夫。ありがとう」

 世良は立ち上がった。

「しかし、ボディブローはジワジワ効くってのは嘘だな」

 そう言って笑って見せる。


「そうっすね。でも20発食らって倒れないぐらいの体が出来たら、ジワジワ効くようになりますよ」

 水沢が言った。彼も淡々としている。称賛もしなければ労いもしない。


 実際には、どうしていいか分からないと言うのが本音だ。

 世良は自分の為に、仕事として体を張ってくれている。ボクシングの怖さを理解しようとしてくれている。そういう目的と覚悟でリングに上がった人に対して、親睦会のような慣れ合いをしても意味がない。かえって失礼だと思う。

 しかし、これでいいのだろうか・・・

 感謝はしているが、どう接するのが正解なのか分からないのだ。 

 だから、態度が淡々としてしまう。


 そんな時、旧友でもある所沢が声をかけた。

「まだ、余裕だろ?久しぶりにオレとやろう!」

 

 何かを言おうとする阿部と水沢を制するように所沢が言った。

「ボクシングの怖さってね、一度殴られてから見るとよく分かるんですよ。ですよね?!」

 最初は世良に対して言っていたのだが、最後だけ阿部に確認を取った。


「え、ええ。ですが・・・」

 阿部は世良の時以上に躊躇する。こういうスパーリングは、はある程度の実力がある相手の方が、『相手が』危ない。

 今の口振りや、普段から察するに、所沢はかなり攻めっ気がある。そういう相手の攻撃を受け止めるには、水沢も攻めざるを得ない。その『受ける為に攻める』場合、なかなか手加減が難しいのだ。

 相手が本気で来れば来るほど、受け手も強くなってしまう。


「やらせてください!怪我しようが責任は私が取ります」

 躊躇する阿部に対して世良が言った。

「怪我って・・・ひどいっすね」

 と所沢。

「すまん。でもヒントになるなら是非見たい。何かあったらオレが長澤に謝るから」

 と世良。長澤とは所沢が普段勤務する店舗の店長だ。

「いや、怪我させないようにはしますけどね・・・そこまで言ってもらえるんなら、1ラウンド、いや、1分だけやってみていいでしょうか?」

 水沢の言葉に阿部が頷いた。

「分かった。1分だな。危なかったら途中で止めるぞ」


 所沢はグローブとヘッドギアをつけて準備をする。

 そして、コーナーで控える世良に小声で呟いた。


「上手く言葉に出来ないんですが・・・確かにあんまり怖くないんですよね。だから、オレ目線で見てもらえると、何か分かるかもしれません」

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