泳げるまでの壁 恐怖の壁
古田のその経歴は誰も知らなかったらしく、しばらく質問攻めにあう。それを一通り答えると、古田は話を戻して席を立ち、ホワイトボードに向かった。
「こんな感じで、脚を後ろに伸ばせない子もいるんだよ。ケノビさせようとしても、こうなっちゃう。これじゃ浮かないよね」
古田はサラサラと世良が書いた図に並べるように書いた。
「へぇー」
世良は、その絵を見ながら腕を組んでしばらく考える。世良は自身ではマラソンをメインでやっているが、トライアスロンにも興味があり、プールにもよく通っている。そして、トライアスロンもやるランニング仲間や、水泳のコーチらとも情報共有をしている方なのだが、この事例は初めて見た。
そのことを素直に言うと、古田は答える。
「だって、それ、泳げる人のコミュニティじゃん。さっき対象外って言ってた人たちの世界だよ」
「返す言葉も無い。。。」
世良はションボリとし、「ドンマイです!」と青田に慰められた。
「なんでそうなっちゃうんでしょう?ただ脚を伸ばすのが難しいんですか?」
世良がしばらく考え込んで言葉少なくなったので、変わりに佐々木が聞いた。水泳がさほど得意ではない彼も、さすがにそこでは苦労しなかった。
「怖いからさ。怖いから、いつでも立てる姿勢を崩せない」
古田は断言する。
「言うならば、恐怖の壁だよ。子供の体育って、だいたいこの恐怖の壁が最大の壁だと思う」
しばらく、全員沈黙する。それを見て古田が補足を続けた。
「例えばさ、ちょっと立ち上がってみて」
全員それに従う。
「実はこの部屋の空気は重いんだ。勇気を出して壁を蹴って、脚を伸ばし、ストリームラインを取れば空中を泳げる。さぁ!やってみよう!せーの!」
そう言って古田は手をパンと叩いた。当然誰も跳び出さない。
「なるほどね・・・」
世良が深く頷いた。
「そういうこと」
理解したのを見て古田が笑顔で言う。
「大人は水は浮くことは知っている。少なくとも浮力があるからプールで転んでも怪我しないぐらいは分かる。でも、そういう確信が無い子供にとっては、空を飛べと言われるのと、あんまり変わらないということか」
世良は、自分で確認するようにつぶやきながら言語化をした。
「もちろん、方法はあるよ。浮き輪で足を伸ばす感覚を慣れさせるのでもいい。浅いプールがあるならワニ歩きするんでもいい。保護者の方がある程度体力あるなら、子供をおんぶしてプールを歩くのでもいい。おんぶしながら、しっかりお子さんの手を持っててあげれば、自然に脚が離れてバタ足するから。そんな感じで、手を変え品を変え慣らしていけばいい。というか、色々工夫しながら慣らしていくしかない。とにかく一番大事なのは・・・」
古田はそこで一旦言葉を切った。
そして続ける。
「子供が出来ない根底には、『怖い』という心理があるかもしれないってのを、忘れちゃいけないことだね。『こんなトレーニングが効果的』って方法論も大事だけど、恐怖心を無視して方法だけやらせると、トラウマになっちゃう」
古田の言葉に世良が唸る。
「再び、返す言葉も無い。。。」
そして、青田、所沢、佐々木に「ドンマイです!」と慰められた。
「いや、しかし、ホントにそうだよな。。。跳び箱だって、逆上がりだって、こうすればいいと分かっているのに思いきり出来ないケースは多々ある。恐怖の壁か。。。」
やはり世良が自分に言い聞かせるように言うと、古田がそれに答えた。
「まぁ、指導する側がそれを分かっていればいいだけだよ。分かった上でもトレーニング方法自体は別に、たいして変わらないからさ。でも、同じことをやるにしても、ちゃんと子供に寄り添っているかどうかで、効果は雲泥の差が出るんだ。子供は敏感だからね。本当に寄り添ってないと、すぐにバレる」
汐野は小さく拍手をしながら聞いていた。
「ステキです!みんながそうやってお客様に寄り添えれば、クレーム無くなりますね!」
そう言われて、ますます世良は考えこむ。
「逆に言えばですよ」
青田が言った。
みんなが注目する。
「子供に一番寄り添っていて、子供が一番そばにいて安心出来るのは親ですよね。だとすると、恐怖を抱えた子供には、親が教えてあげられるのが一番良いわけで、そういう意味では、この企画は良いんじゃないでしょうか?」
一瞬の沈黙があった。
「青田!」
世良が言った。
「ありがとう!」
そう言って右手を差し出し、ガッチリと握手をした。




