泳げるまでの壁 プロローグ
黒須スポーツ本店を世良は訪れた。
「いらっしゃいま・・・お疲れ様です!店長ですか?」
近くにいたスタッフが気づいて声をかける。世良がここに来るときは、たいてい店長の長澤か、トレーナーの青田、所沢に用がある時だからだ。
「うん。でも、大丈夫です。こっちから適当に声かけるんで、お構いなく」
そう言って世良は店内に入る。
格好はパーカーにジーンズ、スニーカーとラフなもの。スタッフ用のネームプレートもつけていない。
といって、今はオフではなく、れっきとした勤務中だ。そこに世良はくすぐったさのようなものを覚えた。
パーソナルトレーニングのエリアを遠目に覗くと、青田がサーキットトレーニングの指導をしていた。バーベルクリーンをして、懸垂をして、ボックスジャンプをするなど、なかなかにハード。クライアントは何かの競技者なのかもしれない。
世良は青田に目が合うまで遠巻きに様子を見て、目が合ったら軽く手を上げる。青田が軽く頷くのを見ると、頷き返してその場を去った。
(綺麗にしてるな)
世良は思った。清掃はもちろんだが、陳列が綺麗だ。ここは見習わなければいけない。そして、自分はもっと感度を上げなければ。
社長室に異動になり、世良が社長から与えられたミッションは二つ。
一つは内部監査だ。法的に必要な監査役や会計監査と異なり、内部監査の役割は会社によってかなり異なるが、共通するのは経営者の目となり耳となること。世良は特に各店舗の実態を調査し、毎月報告するように言われている。
もう一つは、実態を見た上で新しい営業戦略を提案すること。これは毎月とは言わないが、四半期に一つ程度は何か提案し、その中から年に二つぐらいは動かせと言われている。この守り(監査)と攻め(営業戦略)の二つを一緒にやって欲しいから『内部監査室』ではなく『社長室』なのだそうだ。
一度ぐるっと店内を回った所で、店長の長澤が世良を見つけ、近づいてきた。
「室長殿。視察お疲れ様です」
長澤は冗談めかして言う。
「今日はまだ監査じゃないよ。これからの行動計画作らなきゃいけなくてさ、そのネタを拾いに来ただけだから。自店じゃ顔割れてるからゆっくり見れないんだ」
世良は苦笑いをして答えた。二人は同期である。
「給料上がった?」
長澤は表情は接客用の微笑を保ちつつ、小声で聞いた。
「基本給はね。でも本社はインセンティブ(出来高歩合)つかないから、本店店長の方が稼げるんじゃない」
「そんなもんなのか。じゃあ、オレは現場でいいかな」
現場の人間にとって、ゆくゆくは本社勤務を目指すか?というのは定期的に頭をかすめる関心事である。現場からのイメージでは本社は勤務時間も短く、休みも多く、楽だと思われているからだ。長澤ぐらいになると、実際には本社も楽ではないことは分かっているのだが、身近に異動になった人間が出ると、色々聞いてみたくなる。
もちろん、あまり大々的に話すような話題ではないので、二人は声を潜めて近況報告し合った。
「で、何か、お気づきの点はございますか?室長殿」
近況報告が一段落すると、長澤は改めて聞いてきた。
「その呼び方やめてくれ、綺麗にしてると思うよ。少なくとも新港北台店より。ただ・・・」
世良はトレーニング用品売り場の一角を見た。
「これは、本店に限ったことじゃないけど、今はあんまりみんな声がけしないな。やっぱり嫌がられる?」
「いや、それは人次第だよ。まぁ・・・スタッフがやりたがらないのは確かだね」
長澤は世良の視線の先に気が付いた。そこにはいくつかのダンベルを交互に持って、明らかに比較・検討し、迷っている男性の姿がある。
長澤は、一歩踏み出そうとして留まった。歩み寄るスタッフの姿を見つけたからだ。
「ウチでは、積極的なのはアイツだけだ」
そう世良に説明すると同時に、そのスタッフーー所沢ーーは、お客様に声がけをした。
「お子様用ですか?」
所沢がそう声をかけると、男性は一瞬キョトンとした顔をし、思い直したように言った。
「よく分かりますね・・」
「ご検討されている物が、お客様が使うには明らかに軽いので」
所沢は人懐っこい笑顔で言った。
「そうですか?」
「はい。何気なく持っているようでも、扱うフォームがしっかりしているので、普段からウエイトはされているんじゃないですか?」
男性が比較検討していたのは1kg~2kgのダンベルだった。見る人が見れば違和感がある。
(さらに言えば、アームカールでも肘が動いていないし、ネガティブ効かせているし、アームカールとハンマーカール分けているし)
等と、他にも色々語りたくなった所を我慢して、所沢は相手の反応を待った。
「息子が小四なんですけどね。パパみたいにウエイトをしたいって言ってきて・・・でも、まだ早いですよね」
男性が理由を話した。
「なるほど・・・一般的には早いと言われますね。子供は自然に遊びの中で体の動かし方を覚えた方がいいと。でも、気持ちは分かりますよね~。自分も父親のダンベルこっそり借りて色々やってましたから」
所沢は、さも『困ったなぁ』という顔をした。
「そうなんですよ。隠れて変なことしてケガさせるぐらいなら、1、2kgぐらい持たせて、しっかり教えようかなと」
「お父さんがしっかりしているなら、それも有りだと思いますよ。後は、こんなのを使うって手もあります」
所沢は少し離れた場所から、メディシングボールを持ってきた。
メディシングボールとは、ある程度重量のあるボールだ。かつては、ボクサーがボディを鍛えるためにお腹に落とすボールというイメージが強かったが、様々な使い方が出来る。
「『まだ早い』というのは、逆に言えば『ちゃんと効かせる必要がない』ってことです。だから、無理のない範囲で『重い物を持ってトレーニングしたい』って欲求さえ発散させてあげればいいワケで」
「なるほど!その発想は無かった」
男性の声のボリュームが上がった。
「これを両手で抱えてスクワットとか、両手で持ってカール、ベンチプレス、腹筋なんかをやる分には危険は少ないです。もちろんゼロではないので、使用する際はお父さんに見ていて欲しいですけどね」
「うんうん」
男性は渡されたメディシングボールを持って、いくつかの動作を試みている。
「もし、運動のバリエーションが欲しくなったら、ウチはパーソナルトレーニングもやっているので、お子さんと一緒にいらっしゃってください」
「それって二人分の料金になるんですか?」
「いや、目的がお子様ならお子様分だけでいいですよ」
所沢は即答する。
「そしたらこれと、そのトレーニングのパンフレットみたいなのあったら、いただけますか?」
男性は機嫌よく購入し、帰って行った。
それをお見送りした後、所沢は世良と長澤を見つけて頭を下げる。そして、また別の迷っていそうなお客様を見つけて、そちらに向かって行った。
「少し前まで退職したいって言ってたヤツに見えないな」
所沢の様子を見て世良が言った。
「声がけからの販売は、今ウチで断トツ一位だよ。その節は引き留めてくれて、本当に感謝だ」
長澤が答える。
「青田よりアイツがいいの?」
世良が意外そうに聞く。
「販売みたいに多くの人に短時間でコミニュケーション取るのは、所沢の方が向いているみたいだ。根が陽気で人懐っこいからな。青田は誰かさんのおかげで随分変わったけど、根は真面目だ。だから、一対一でじっくり関係を作るパーソナルトレーニングの方が強いな」
「しっかり店長してるじゃん!」
世良達がそんな会話をしていると、所沢が足早に向かってきた。
「すみません。あちらのお客様なんですけど・・・」
「どうした?」
「お子様の水泳の指導が出来るかって相談なんです。どうも恥ずかしがり屋で教室で大勢と習うのは嫌がるとのことで・・・」
黒須スポーツのパーソナルトレーニングエリアは販売店の一角にある。決して広くはなく、当然水泳用の設備なんて無い。だからこういう時、いつもの対応は決まっている。それを承知で所沢が聞きに来た。その意図を察して長澤が言った。
「正直、こういう案件はいつもなら断っている。・・・が」
長澤は世良を見た。
そして聞いた。
「室長殿ならどうする?」




