令和の夏のマラソン練習 ネット世論
世良は会議でのやりとりを思い出しながら、ゲームを始めた。
画面のインストラクターの指示のまま構える。
片足を引き、半身になり、ガードを上げる。体重はつま先に乗せ、前後に重心移動をするようにステップを踏む。
インストラクターは『体重はつま先に乗せる』までしか言わないが、世良は両足の踵を地面から1cmほど浮かせた。
これがポイントその一。
「まず、今のマラソンは、初心者に教えるべき基本があやふやなんです」
会議の場で世良は説明した。
「特に着地です。一昔前は初心者は踵から着地するよう教えていました。というか、ベテランも踵着地をする人がほとんどでした。しかし、今の主流はフォアフットと呼ばれる、つま先着地なんです」
「それはつま先着地の方が優れてるからではないんですか?」
田中が素直な質問をする。
「トップレベルが記録を狙うならそうです。しかし、初心者にはつま先着地は致命的な欠点があります」
「それは?」
「距離が踏めないんです。踵着地なら平均的な基礎体力があれば、走り方を習ったその日に5kmは走れるようになります。そして1ヶ月もかからず10km走れるようになります。実際、そういうセミナーを私はよくやってますから」
「すごい!そんな方がブレーンにいてくれたら頼もしいですね!」
相変わらず田中は大げさな反応をする。
「しかし、つま先着地だとそうはいきません。個人差が大きく、初心者で3km走れたら長い方だと思います。練習量が一番大事なマラソンにおいて、そもそも長時間練習できないというのは致命的なんです」
「何が違うのでしょう?」
と田中。
「まず、つま先着地は跳ねる走り方なので、上下動が発生することですね。慣れない内は呼吸がしづらく、内臓が揺れて腹痛を起こす原因にもなります。そして一番はアキレス腱とふくらはぎが持たないことです。これはやってみれば分かります」
そう言って世良は田中に片足立ちをするよう促した。
「片足でつま先立ちしてください。ただし、踵は地面からほんのり、1cm程度浮かせる感じです。『つま先立ち』と言ってもバレリーナやハイヒールのようではいけません。足首の角度は90度を保ってください」
「なんでですか?もっとしっかり踵浮かせた方が、コンパスかせげそうですけど」
意外にいい質問が田中から出る。
「それが目的じゃないんです。アキレス腱ををゴムのように使って跳ねるのが目的なので、それに適した角度があるんです」
「なるほど」
「その状態でその場跳びします。縄跳びするイメージで」
そう言って実演して見せる。田中もそれに習った。
「けっこうキツイですね」
軽快に跳ねる世良に対して、田中はよろけながら、なんとかやっている様子。
「続けているとアキレス腱に負荷がかかってくるの分かるでしょ?」
「はい。突っ張るというか、軽く痛みます。それに、ふくらはぎにもけっこう来ますね」
「フルマラソンなら、こういう負荷が片足に2万回かかるわけです」
「・・・途方もないですね。それってトレーニングでなんとかなるんですか?」
と田中。
「鍛えれば強くすることは出来ます。ただし腱を強化するのは筋肉を鍛えるよりも難しく、時間もかかるんです」
沈黙する会議室、世良は話を続けた。
「そして、こっちの方がやっかいなんですが、体感がキツイんですよ。息苦しさ、脚や脇腹の痛さ、これらは長距離が苦手な方のイメージまんまですよね?」
「確かに」
「だから続かないんです。それに対して踵着地で上下動を抑え、ゆっくり走ればツラくはありません。つま先着地は、よほど上手く教えないと、先人達が長年かけて作ってきた『マラソンはツラくない。楽しい。誰でも出来る』というイメージが崩れてしまうんです。事実、スイーツランとか最近、前より聞かなくなったでしょ?上下動があるフォームではリュックを背負ったり、食べてすぐ走ったりは初心者には出来ないんです。個人的な意見ですが、マラソンブームの終焉の要因はフォアフットの流行も無関係じゃないと思っています」
専門分野なので、世良の話は止まらない。
語るだけ語って、周りを見て独壇場になっていることに気が付いた。
「すみません。ちょっと話それたかもしれないですね・・・」
「いや、いいんじゃない。初心者が続かない要因なら、我々としては商売的にも大事な話だし。でもさ、だったら踵着地でやればいいんじゃないの?って素人考えでは思うけど違うの?」
疑問を発したのは渡辺だ。彼はトレーナー畑ではないので、いつも素直な素人意見をくれる。それが世良にはありがたい。
「雑誌や本とかの紙企画ならそれでもいいと思います。実際パーソナルやセミナーでは私、踵着地も教えますから。しかし、SNSに上げる動画となると、独特のネット常識とネット世論がありまして。。。色々懸念があるんです」
「出た!それか。。」
渡辺が辟易とした顔をする。企画・広報の部長の彼はいつもそれに悪戦苦闘しているからだ。
「どういうことでしょう?」
田中の疑問に世良が説明をする。
まず前提として、踵着地とつま先着地は体の使い方がまるで違う。
例えば、踵着地なら腕は引くように振るが、つま先着地は前に振る。股関節は踵着地なら振り子のように使い、つま先着地は踏みつけるように使う。踵着地は上体を前傾をし、体が倒れる力を推進力にする。それに対してつま先着地はある程度上体を立て、地面の反発を受けて跳ねる力を推進力にする。
今、SNSのレクチャー動画等に上がっている体の使い方は、ほとんどつま先着地のそれである。新しいことを言わなければいけないのはインフルエンサーの宿命なので、それはやむを得ない。
やっかいなのは、その動作が踵着地には不向きという説明がほとんど無いことだ。
だから踵着地の体の使い方を教えると、『それは違う』『古い走り方』『体に負担がかかる』等と批判される可能性がある。
本質的なことは置いておいて、『踏みつける』『地面の反発を受ける』といった、キーワードになりやすい部分だけが切り取られて常識化してしまうのはネット世論の特徴だ。
逆に言えば本質を説明しても、それが短く面白くなければ見てもらえないので、正しいことを伝えるのが難しい。
また、敵認定されたら、執拗に叩かれるというネット世論の傾向も、気を付けなければいけない。
『踵着地は弊害がある』というような正論風で叩くコメントが付きやすいのだ。
実際は、弊害などはどの技術にあり、むしろ枯れた技術の方が弊害の対処法も色々研究されているのだが、そこは考慮されない。
更に言えば、一昔前の技術というのは叩かれやすい。常に最新の情報を求めている人の標的にされやすいからだ。
これが、更に古くなって『日本古来の体術』とかになると逆転現象が起き、称賛されたりするから難しいものだ。
「わかります!わかります!ゲームも一緒ですよ。枯れたノウハウでスタンダードなもの作ってもあまりウケません。一方でレトロゲームの復刻なら需要があるんです。。難しいですよね。。。」
世良の解説に、田中が大袈裟にリアクションを取った。
それを見て青田が苦笑いをする。
ーーー
(あの時はちょっとヒートアップしすぎたかな?)
世良は会議の時の自分を思い出して、少し気恥ずかしさを覚えた。
田中が大げさなリアクションを取るので調子に乗って色々と語ったが、思い返せば、渡辺と青田は『いつものスイッチ入ったな』ぐらいの顔をして引いていたように思う。
語りたがりなのは自覚しており、普段は自分なりにセーブしているつもりなのだが、完全に乗せられてしまった。。
(まぁ、間違ったことは言ってないし、いいか・・・)
気を取り直して、世良は画面を見ながらステップを踏んだ。
「前後に体重移動しながら、軽くステップを踏むんだ。前、後ろ、前、後ろ、その調子だ!」
ゲーム画面のインストラクターが声をかける。
悪くない感じだ。アキレス腱を鍛えるにはシンプルにはとにかく走ること。
他には縄跳びのような跳ねる運動。踵上げのような筋トレを高回数でやるのも良い。しかし、どれもけっこうな回数をこなす必要があるので毎日続けるのは難しい。低負荷高回数のトレーニングは単調すぎてツマラないのが一番のネックだ。
それがゲームならやりやすいし、前後に体重を移しながらステップというのが初心者にはちょうどいい。
完全な片足跳びほどの負荷は無く、かつ両足跳びよりは負荷が強い。
そして、上下動しながらの呼吸に慣れることが出来るという点もいい。これはエアロバイクにはない効果だ。
問題はこの効果が、走り込みの補完になるほどか?
効果が無いないなら踵着地を教えるしかない。その場合はネット世論対策を別に考える必要がある。
(良さそうな気もするが、正直まだ何とも言えないな・・・)
30分ほどエクササイズを続けてみたが、結論は出ない。
元々つま先着地でフルマラソンを完走する地力がある世良では、このゲームでアキレス腱や呼吸が鍛えられることは無いだろう。ただ、何もしないよりは現状維持にはなるだろうという程度には負荷を感じる。
(これは後で青田の意見を聞こう)
自分では結論が出せないので、それ以上考えは保留した。
世良は一旦、手近に置いたスポーツドリンクで水分を補給した。
ランニングの後と言うこともあって、滝のような汗が止まらない。
つま先着地の補助トレーニングとしてはまだ未知数だが、有酸素運動としてはそれなりの効果が期待できそうだ。
この有酸素運動の練習量も、動画で公開するなら気を付けなければいけないポイントである。
マラソン、特にフルマラソンは練習量が必要だ。少なくとも日常的に90分は有酸素運動をしたい。そして週に1回程度は2時間以上連続でやりたいところだ。
しかし、夏場は屋外をそんな練習をすると『熱中症になる』『昭和時代だ』『根性論だ』と批判の対象になる。かといって練習量を落とすと『マラソンを舐めてる』と言われかねない。
屋内の走路やランニングマシン、エアロバイク、水泳等を併用するのが現実的な所なのだが、あまりその割合を増やすと『恵まれた人の練習。マネできない』などと言われる懸念があるので配分が難しい。
また、環境を整備しすぎると、万一完走出来なかった場合、『あんなに至れり尽くせりやって貰って情けない』と走者に批判が及ぶことも予想できる。
(そこまで考える必要があるかな・・・)
と言いたくもなるが、企業でオフィシャルに動画を出すには、やりすぎぐらい考える必要があるご時世なのだ。
だから、リアルな情報がネットに載らなくなった。
ネットに載る情報は、炎上しにくい情報に偏る。
これが最大の初心者受難だと世良は考えていた。
そんな中で、数千円で購入でき、収納場所も取らず、エクササイズ場所も取らず、騒音も出ないこういうゲームは可能性を感じた。
もちろんこれだけで走れるようにはならないが、実際の屋外のランニングと併用したら、かなり有用な選択肢になるのではないかと思える。
(まぁ、これも青田の意見を聞いてみるか)
世良はそこで一旦、調査練習を区切った。




