令和の夏のマラソン練習 初心者受難の時代
切欠は何気ない一言だった。
「これ、マラソン企画とかに使えそうですね」
世良がそう言うと先方の担当者が食いついた。
「マラソンですか!それは、ただダイエットするとかより面白そうですね。初心者がフルマラソン完走を目指して大会まで追っかけたら、色々ストーリーのある動画になりそうです!」
「いや、あくまで補助ですよ。流石にこれだけでマラソン完走は無理です」
壮大すぎる提案に危機感を感じた世良が、すかさず釘を刺す。
「もちろんです!でも、先生がおっしゃるなら、どんな補助になるかを詳しくお伺いしたいです」
彼女は引かない。
「そうですね・・・」
世良は思考を整理しながら、いつものようにホワイトボードの前に立った。
場所は黒須スポーツの会議室。参加者は世良、トレーナーの青田、企画部部長の渡辺、そして、『1マットエクササズ』というゲームソフトを販売している会社の広報担当の田中。
このゲームは『ヨガマット1枚のスペースがあれば、ゲーム感覚で家でも様々なエクササイズが出来る』という触れ込みのものだ。既に『ヨガ&ピラティス』、『ダンスエクササイズ』の2作品が発売されており、この度3作品目のボクササイズが発売された。
その広報活動として宣伝動画を作成することになり、黒須スポーツに監修、出演の依頼が来たのだ。
出演依頼を受けたのは青田。田中は名刺交換を済ませると、まず青田の美脚トレーニング動画を絶賛した。
「あれ、面白いですよね!私、3本とも5回以上観てトレーニングも真似してます。1本目と3本目見比べると、サヤカさん明らかにいい脚になってますよね!あれはモチベーションになります。あれ見て先生にお願いしたいと思ったんです!」
サヤカとは動画で青田が美脚トレーニングの指導をしている相手。本来は動画配信者サヤカの企画に青田が客演しているのだが、田中はまるで青田が主役のように語っている。
「いや・・・でもあれ、ブレーンがいまして・・・それがそこにいる世良なんです」
圧が強い田中に若干引いた青田は、世良に押し付けるように話を振った。そこでやはり世良は質問攻めにあう。
リップサービスではなく本当に動画を見込んでいるようで、サヤカのトレーニング方法に関して細い質問が矢継ぎ早に出てくる。
時折恨めしそうな視線を青田に送りつつ、世良は一つ一つ答えた。
「・・・で、今日はゲームの体験をさせていただけると」
田中の話が終わる気配が無いので、世良は適当なタイミングで本題に戻した。
「そうそう!そうなんです!すみません。わっ!もうこんな時間。至急準備します!」
田中はどこまでも慌ただしい。準備をしつつ田中が言った。
「すみません。体験風景撮らせていただくことって可能でしょうか?もし、この企画が動いた際にはいい絵になると思いますので・・・」
表情はこの上なく申し訳なさそうなのだが、絶対に通そうとする意志の強さは伝わる。
「一旦撮るだけならかまわないですよ。ただし、使用に関しては後程覚書を交わす形でいいですか?」
渡辺がそう答えると、途端に慌ただしい顔に戻り『もちろんです!ありがとうございます!』と答える田中。
慌てているようで準備の手際はとてもいい。どこまでが素でどこまでが営業用のキャラクターなのか、世良は計りかねた。
そうして3人はゲームを体験する。要は画面に出てくるインストラクターの言う通りにパンチを打つボクササイズなのだが、コントローラーの感触が思いのほか良い。コントローラーを握ってタイミング良くパンチを打つと、効果音が鳴り、コントローラーも軽く振動するので本当に打っているような感触がある。
メニューも様々あり、最短で2分程度から長ければ15分程度のエクササイズがある。それらを個々に選ぶこともできれば、おまかせでいくつかを組み合わせてメニューを組んでもらうことも出来る。
『マラソン企画に使えそう』という世良の発言は、一通り体験を終えてからのものだ。
「まず大前提として、これが有効になるには条件があります。普通ならマラソンの練習は走りこむのが一番ですから」
「普通じゃない場合ってことですか?」
田中のテンションが少し下がる。特殊ケース過ぎる場合、顧客層が限られるから販売促進効果が薄いことを懸念しているのかもしれない。
それを見て取って世良が答えた。
「ですね。ただ、令和の世ではよくあるケースです。今みたいに夏場だったり、初心者だったりで、長い距離を走りこめないケースはけっこう多いんですよ」
「なるほど!」
田中の表情が一気に変わる。やはり先に自分で言った初心者企画に乗り気なのだろう。そうなると、適当に流すわけにはいかない。世良は一旦考え、準備を整えてから説明を再開した。
「えーっとまず、まずおっしゃっていただいた『初心者がフルマラソン完走までを追いかける』って企画、以前はよくありました。でも今は色々とハードルがあるんですよ。全て自己責任の個人配信者ならともかく、我々のような企業がやるのは結構むずかしい」
そう言って世良は一旦、言葉を切った。青田と渡辺は頷いている。
一人、要領を得ない表情の田中が聞いた。
「なんででしょう?もう飽きられたから?それとも現代人の体力が落ちたとか?」
「いえ、リスキーだからです」
世良はあえて一旦ボカして言った。
「大丈夫ですよ。やるなら私がやりますので、練習キツくても脱落はしません。多少のケガはネタにします!学生時代にずっとテニスやってたから根性はあります!」
「それは、頼もしいですね・・・確かにそれもリスクではあるのですが、他にもあるんです」
世良は田中が自分で走るつもりだったことに不意を突かれた。しかし、すぐにこの人ならやりかねないと思い直した。実際に話すと圧が強いが、明るくハキハキしており、ポジティブで、動画にしたらウケそうな人柄だ。ならば、だからこそ必要な注意事項がある。
世良は声を張って言い切った。
「そのリスク含めてマラソンは今、初心者受難の時代なんです」




