20 地理学者と兵要地誌
博人がよく利用する兵要地誌とは? 今回は軍人ではなく、学者さんの登場です。
『もしもし、電話代わりました高橋です』
ようやく受話器から聞こえた懐かしい声に、博人は安堵の溜め息をついた。
彼とこうして電話で話すのは久しぶりで、今まで電話口では彼の助手が応対する事が殆どだった。
直接話す必要のないことなら伝言で済むが、今回は直接相談が必要なことだったので、彼がでてくれたことに博人はホッと胸をなで下ろした。
「ご無沙汰しております。地誌調査でお世話になりました、陸軍軍曹の稲葉です」
『陸軍軍曹の……ああ、稲葉軍曹か。久しぶりだね~。何かあった?』
「実は高橋先生にご相談したい事がありまして……」
高橋 春樹は、博人が前の部隊で銀輪係をしていた時にお世話になっていた地理学者で、現在はN大学に准教授として所属しながら東海地区の複数の大学で講義をもつ元・従軍学者だ。
34歳で未だ独身だが、ある事情で懲罰大隊への徴兵を延期され、代わりに旅団の従軍学者として四年間勤めたことで懲罰兵役を免除されたという、博人にしてみれば羨ましい経歴の持ち主だ。
第10旅団の情報部と共に兵要地誌の作成に関与し、東海地区防衛の戦略立案の基礎に大きく貢献し、さらには各方面隊の兵要地誌作成における要点と新基準を確立したとして陸軍参謀総長からも表彰されるなどの華々しい経歴を持っている。
そのまま中央の陸軍大学の教授職にも就けたのだが、これまたある事情から、母校のN大学に戻ってしまい、現在の地位に至る。
「高橋先生の知り合いで、S県内で陸軍に協力をお願いできる学者さん、誰か紹介してもらえませんか?」
『……S県?』
博人は高橋に現在の自身の所属と地位について説明し、さらに機動力調整会議に向けて県内はおろか周辺地域への土地勘が不足していることについても話した。
「というわけで、この地方の土地勘、特に銀輪機動に影響する問題に詳しい人の協力を得たいんです。とりあえず部隊としてではなく、個人的にですが」
機動力調整会議がなくても、博人は今、大隊付銀輪指導官の仕事として、駐屯地域周辺における銀輪機動にかかわる地誌調査も行っている。遠からずこうした支援者は必要だった。
博人や各中隊銀輪係が銀輪機動による行進計画を立てる場合、それは地図や道路図と気象情報、鉄道機動も併用すれば路線図や時刻表といった資料との睨み合いになる。有事であれば、さらにこれらに彼我の状況や作戦の特性(兵員の練度、武装、士気、健康状態の他、敵の勢力や警戒に伴う危険地域、災害時通行困難予想地域等)が絡み、それらの情報から許される限りの時間で行進計画を立案、又は上層部の作戦立案に銀輪歩兵の立場から意見を具申していくのが博人たちの仕事だ。
そうした計画作成において博人が最も信頼している情報源が、“兵要地誌”である。
“地誌”とは、気候・自然・民族・風習・物産……等々、総合的にその土地を記述するもので、地理学の基礎であり、一大分野であり、その作成において何をどうやって捉え記述するかが現在でも続く大きな課題である。
そんな中で、土地や地域を戦略的価値という軍事的視点で捉え、総合的に記述されたものが“兵要地誌”で、これの作成は、陸軍大学の研究室や、各方面隊や師団・旅団の情報部やお抱えの従軍学者が主体となって行っている。
ただし、こうした兵要地誌に記される地域事情は時間とともに変化する。博人や陸軍が所有する研究データは数年で古いデータとなってしまうため、博人にしてみれば現在進行形で研究を進める者の協力が必要不可欠だった。
『ああ、それだったら……O女大で僕の教え子が助教をしていたな。もしかしたら彼女の研究室に、軍曹の役に立つ研究をしている学生がいるかもしれないね』
「本当ですか!?」
『ああ。すぐにこちらから連絡してみるよ。都合のいい日はあるかな?』
「連休中とか、大丈夫ですかね?」
『う~ん……聞いてみるよ。向こうの都合が付いたら連絡するよ』
「ありがとうございます!」
高橋の快い返事に、博人は無意識のうちにガッツポーズをとっていた。
さてと……じゃあ、休日外出申請しときますか。
一介の陸軍下士官の割には、稲葉軍曹はかなりの特権を与えられていたりします。
あらすじ通りの、“平凡”ではないな……。




