6 何か怖いもの
木枠に嵌った硝子を雨が叩いていた。
雫の弾ける音に耳を澄ませ、すり減った木製の階段を美邦は掃いてゆく。前の学校では、授業の終わったあとが掃除だった。ここでは、昼休憩の後にある。
美邦が属する4班は、校舎東の階段が掃除場所だ。平坂中学校は、二十数名のクラスが一学年に二つある。二年A組は二十四人、六人で一つの班を作るのだ。
ちり取りへ埃を集めていると、岩井に声をかけられた。
「大原さん、学校に慣れてきたようで何よりです。」
アナウンサーのような声色に箒を止める。
「そうかな?」
「ええ。最初は、おどおどされていましたので。」
少し傷つく。
ここ何日かで、岩井の性格を理解し始めていた。どうやら悪気はないらしい――しかし、思ったことをそのまま口に出す。だから岩井は迷惑がられている。
由香が近寄ってきた。
「岩井さんは、学級委員長なのになぁんもしとらんけどな。」
得意そうな人に任せているだけですよ――と岩井は言った。
その態度に呆気にとられたあと、微笑みを由香は向ける。
「でも、転校してきた日よりかは慣れた感じだにぃ。硬い感じがなぁなっとる。」
「由香のお陰だよ――あと、幸子や、藤村君と芳賀君のお陰。」
先月と全く違う日常を歩みつつある。渡辺家にも学校にも馴染もうと努力してきた。結果、意外にも早く適応しつつある。しかし。
――ここは自分の家でないだけん。
たしかに、父の実家であっても、自分の実家ではない。
芳賀の言葉を思い出す。
――火事があったとか。
家が全焼し、妻が焼死した直後――なぜ、父は町を出たのだろう。
最初は、後ろめたい何かがあるからではないかと思った。だが、焼けた家の幻視を見たり、夜に潜む気這いを感じたりするうちに、別の可能性のほうが、現実味を以って感じられ始めた。
――何か怖いものから逃げてきた気がする。
美邦を町に帰したがらなかった理由も、そこにあるのではないか。
ほうきを止め、由香は一息つく。
「でも、藤村君と仲良ぅなれたのは少し意外かも。」
「そうなの?」
こっそりと由香は耳打ちしてきた。
「藤村君な、実は人気あるだけぇ。でも、言っとることが難しくって。」
「ああ。」美邦も小声で答える。「確かに、格好いいけど変な人かも。でも、神社のこととか色々教えてくれるのは助かる。私だけじゃ、どう調べたらいいか分からなかった。」
ここまで来られたのは、冬樹のおかげだ。
――大切な人な気がする。
だが、そのLIИEを冬樹はあまり読んでいない。結果、常世の国について尋ねようとしても、その機会を失っていた。常世の国と、黄泉の国――どちらが死後の世界なのか。ネットで調べても何も出てこない。しかし、冬樹なら答えられるのではないか。
ほわほわした口調で由香は付け加えた。
「そこは、芳賀君もだけどな。」
「うん。けど、LIИEには慣れてほしいかな――藤村君、読んでるかさえも分からないし。本当は、他にも色々と訊きたいことあるけど。」
「っていうと?」
「その――神様が来る国について。」
――⬛︎⬛︎しなきゃ。
何か――大切なことがあるはずなのだ。
*
冬樹の属する3班は、廊下での拭き掃除だった。
廊下を拭き終え、雑巾を絞る。その灰色の水滴を冬樹は見つめた。バケツの中に落ち、灰色の水面に同心円が描かれてゆく。
芳賀が雑巾を絞りに来た。
「何だぁ浮かない顔しとるな。」
「ああ。」
雑巾を絞る芳賀に、いま考えていたことを話す。
「なあ――重大なことを見落としとるのに、辻褄を合わせて『ないこと』にしとるってことないか?」
「何それ?」中性的な顔が歪む。「重大なことを見落としとるのに――?」
「たとえば――これを買うぞって思って街に出て、色々と店を回って、帰ってきたら、買うべきもんを買い忘れとった時のやな。」
「ああ。買うもんを買ったって思った時みたいな?」
「そんな感じ。」
「それが?」
冬樹は軽く息をつく。
「あれから、郷土誌を何度か読み返してみたに。そしたら、平坂神社って単語が何度も出とる。初詣に関する風習も書いてあった。元日、平坂神社に三度お参りしとったらしい。しゃべると幸せが逃げるけぇ、黙って参拝せんといけんかったそうだ。」
背後から女子の声が聞こえた。
「こぉら、そこの二人、さぼっとらんで掃除せえ!」
振り返ると、冬樹の左隣の席の田中がいた。
芳賀は、うっせえなと小声で愚痴る。
「拭き掃除はもう終わったがぁ。」
「じゃ、バケツの水捨てに行ったら?」
あいよ――と言い、バケツを冬樹は持ち上げる。
流し台まで芳賀は付いてきた。
「でも――そんな何度も書かれとったん? なのに――見落としとった?」
「ああ。平坂神社って書かれてても、荒神さまのことだと思っとった。」
芳賀は呆れ顔となる。
「そんな莫迦な。」
「ほんにな――こんなん普通ない。でも、郷土誌の目次に黒塗りがあることも、ページが切り取られとることも今まで俺は気づかなんだ。」
流し台に水を流す。
「信じられるか?」
「信じられんっていうか、あり得んな。」
「だでな。でも――」
芳賀を再び見やり、慎重に問うた。
「例えば、あの紅い布って、何のために吊るされとると思う?」
えっ――と、芳賀は言った。何を、当然のことを訊くのかという顔だ。
「そりゃ、魔除け『とか』でないの?」




