エピローグ 2
僕の知り合いに――鈴城姫風という女の子が居る。
年齢は一六歳。容姿は端麗。俗っぽい表現をするならば美人。
濡れ羽色の黒髪を腰まで伸ばした長髪に、エメラルドグリーンの瞳を携えている外見をしていて、日本人離れした腰の高さ、スラリと伸びた色白な脚線を持ち、魅力的な胸を揺らしている無表情な美人。
また、その形の良い唇から奏でる声音は、鈴を鳴らしたように心地よい。
性格は一途で何事にも小まめでよく気がつき、できうる限りの最善を果たしてくれる――非常にできた……あぁ、無理。
いかに好きな相手とは言え、いや、好きだと自覚した相手とは言え、これ以上無理矢理持ち上げるのは無理。
なんてことを後頭部をかきながら思う。
砂浜中腹にある「海の家」の軒先へ辿り着いた僕は、ここへ来るまでに携帯電話で呼び出していた相手――痴女こと鈴城姫風について、あれこれと思考を巡らせていた。
「そもそもさ、いくら容姿が良くても性格と行動があれだと大幅なマイナスだよね。美人っていうアピールポイントを潰すほどのマイナスってそうそうないよね」
執着心、暴力、変態思考、変態行動、独占欲、そのいずれもが常軌を逸脱している。
結局、僕は姫風のなにに惹かれたのだろう、と「海の家」へ着いてからあれこれと思いを巡らせていて冒頭に戻る訳です。
マイナスポイントを思い浮かべないように無理矢理上げ連ねた結果、冒頭へ繋がる訳です。
「こういうのって……理屈じゃないのかな」
長年付きまとわれて愛情が湧いたのか、ただ単に好きだけど自分の気持ちに気づかないふりをしていたのか、と詮ないことを考える。
ついで、最近は姫風のことばかり考えてるなぁ、と嘆息する。
そして、ふと気がつく。
姫風が居ない人生が考えられないことに。
「……OH」
姫風の侵食率が取り返しのつかないところまで進んでいることにちょっとショックを受けた。
「ゆう」
姫風が来た。
時刻は一八時。
海岸線に陽は沈み、夜空には沢山の星が瞬いている。
姫風は夜空を背景に、軒先の縁側へ座る僕の正面に立ち、無表情なまま、僕を見下ろしている。
僕はその姫風を見上げる。
おのずと二人の視線が交わる。
いつも傍で「好き」「愛してる」と伝え続けてくれている女の子。
時間にして、約一〇年の付き合いの女の子。
沙雪さんの告白を断る前に、必ず想いを告げて断っておきたかった――僕の好きな女の子。
そう、今から姫風に僕の想いを伝えて、断るのだ。
「ゆう」
まぁ、待て。まだ回想中だ。
僕の基準は、知らず知らずのうちに、「姫風」となっている。
二言目には「姫風なら」「姫風は」ばかりを口走っている。
僕にとって姫風は嫌いな人物で、ストーカーで、迷惑極まりなくて、痴女で……。
裏を返せば、近くに居ないと不安なほど常に気になっている人物で、構ってもらいたくて、僕にだけ迷惑をかけてもらいたくて、エロいの上等で……。
そんな見方もできる……かも知れないワケで、頭が痛くなってきたワケで、姫風のことを真剣に考えている時点で姫風のことが――
「ゆう」
腰を折った姫風が、目線を僕に合わせて僕の瞳を覗き込んでいた。
「ずっと見つめていても、ゆうが視線を逸らさない」
無表情からわずかに眉根を寄せる姫風。
常とは違う僕の態度に疑問符を浮かべているようだ。
僕は自分の唇をペロリと一舐めしてそれを湿らせる。
「姫風、来てくれてありがとう」
「……ゆう、本物?」
感謝したら疑われた。
姫風に対しての優しい僕は総じて偽者らしい。
「偽者とか本物とかどっちでも良いよ。僕は僕だ。それよりも、真面目に訊いて欲しいことがある」
「真面目に?」
僕はこくんと首肯する。
同時に視線を姫風の足元から頭まで移動させる。
彼女はキャミソール、ジーパン、ミュールというここ一ヶ月の間見てきた服装だった。
服装だけなら一般人枠に埋もれてしまいそうだけど、姫風の美貌が美人枠を主張している。
改めて思うけど、僕はこんな美人に好かれているのか……。
「ゆう?」
姫風に見とれていた僕は「あ、うん」と相槌を打ち、本題に入った。
「僕は……」
ジッと見つめてくる姫風。
空唾を飲み込んで続ける。
「僕は新海さんが好きなんだ」
「知ってる」
姫風さん切り返しはや。
「ふざけた風に聞こえるだろうけど……その……姫風のことも、同じくらい好きだって、気づいたんだ」
意を決してそう告げた。
すると姫風は――
「十年前から知ってる」
一大決心の告白だったにも関わらずあっさり返されてちょっと涙が出る。
「今までは新海さんのことが一〇〇%好きだったんだけど……お姉ちゃんに拉致されて、考える時間ができて、僕なりに考えて、姫風を気にしている自分に向き合って、いろいろと考えているうちに、姫風のことを、その、どんどん好きになって……」
「知ってる」
即答ですか。
知ってたんだ……。
「ゆうはタヌキが好き。タヌキはゆうが好き。ゆうは私が大好き。私はゆうが大好き」
姫風が僕から視線を逸らさぬまま、左隣へ腰かけた。
「解りきっていることを今さら切り出して、いったいゆうはどうしたの?」
「……僕からすれば今さらじゃないんだけどね」
清水の舞台からバンジージャンプですよ。
姫風から彼女が愛用しているシャンプーの香りが漂ってきて、ちょっとドキドキする。
「き、昨日さ、さゆ――新海さんに言われたんだ……」
続きに発する言葉をすぐには言えなかった。
姫風を直視できず、そっぽ向いてしまう僕。なぜか後ろめたい気分だ。
「……『好きです。付き合って下さい』って」
「知ってる」
即答ですか。
知ってたんだ……。
「そこでさ、僕は……『僕も好きです。こちらこそ付き合って下さい』って言おうとしたんだ」
姫風が口の端をつり上げた。
「面白い冗談」
姫風的にそこは冗談にしたいのか……。
視線を姫風の顔へ戻す。
恐い笑みに若干引きつつ僕は言った。
「でもさ、言えなかった」
「言えなかった?」
うん、と首肯する僕。
「新海さんに『付き合って下さい』って言えなかった」
姫風からは単調な「知ってる」の返事がなかった。
僕は続ける。
「原因は……姫風のことが脳裏にチラついたからなんだ」
姫風は僕の瞳から視線を逸らさない。
「僕は、新海さんと同じくらい姫風のことを好きになっていたんだ。だから、新海さんへ即答できなかった。『僕の方こそ付き合って下さい』って返せなかった」
黙って聞くだけの姫風。
「これ二股だよね?」
珍しく姫風が変な顔をした。「え?」って感じの顔を。
なんだよ。バカをバカにするなよ。
それはともかく、頭を抱える僕。
「二股は最低だ。どうすれば良いんだって悩んだ。悩んで吐き気がして、実際吐いて、今も頭痛が止まらない。……姫風とは真面目に別れてもらうとして、新海さんに待ってもらってるけどなんて言って告白を断れば良いか……」
姫風さんなにか良い案ない?
「ふふ」
姫風は無表情からまた口の端だけつり上げた。
「な、なにがオカシイんだよ?」
あとその笑い方恐いんですけど。
「付き合っていないにも関わらず、別れるだの断るだの――面白い」
……言われてみればそうだけど。
「別れる? 断る? ゆうの好きにすれば良い」
無表情を崩した姫風がとても愉快そうにクスクスと笑う。笑うだけ笑い、無表情に戻る。
人の悩みを笑うなよ……。
「……姫風」
意図せず嘆息がこぼれる。
不意に頬を撫でられた。
視線を向けると、恐怖の笑みから一転、姫風は柔らかく微笑んでいた。
「好きなだけ悩めば良い」
「え」
「私はゆうに六年待たされてる」
好きだ、愛してる、と伝え続けられて、それだけ待たせているのか、僕は。
姫風が続ける。
「ゆうが答えを出すまであと何年待たされても構わない」
肩にコテンと頭を乗せられた。
「結局ゆうは、私が差し伸べた手を取る人生しかない。既にそう決まっている」
「……予言するな」
実現しそうで困る。
僕の苦言を意に介さず、姫風がこう提示した。
「これからゆうが取るべき行動は三つ」
……三パターンもあるのか。
「一つ目は、タヌキにありのままを晒け出して、頭を下げてくる」
タヌキさんこと沙雪さんに、姫風と沙雪さんのことが好きだけど付き合えない、と伝えるってことだよね。
「二つ目は、私への気持ちを殺したまま、タヌキと付き合う」
姫風への気持ちを持て余したまま、沙雪さんと付き合うってことか。
「三つ目は、タヌキへの気持ちを殺したまま、私と付き合う」
さっきとは逆のパターンか。
それにしても――
「……なんで、姫風は自分が不利になるような選択肢を……一つ目を提示したのさ?」
誰とも付き合わない、ってパターンだよね?
「私はゆうの全てが欲しい」
「や、答えになってないし」
「ゆうの心も体も欲しい」
「答える気ないよね! あ〜もう!」
不満と疑問だらけの僕へ、姫風は自信満々にこう言い切った。
「私が求めるのは完全勝利のみ」
「……あぁ、そう」
なんとなく理解した。
要するに、姫風は自分に惚れさせて自分へ告白させることしか頭にないのだ。
そして、僕が姫風に惚れる未来以外想い描いてないのね。
……相変わらずそう思い込める発想が凄い。
姫風に別れて欲しい、とか、諦めて欲しい、は告げるだけ無駄だということが改めて、理解できた。
「…………はぁ」
疲れた。疲れたけどまだやらなきゃならないことが残ってる。
姫風はともかく沙雪さんにも二股の話をしなきゃ、だよね。
「……今から新海さんにありのままを伝えてくる」
姫風を肩から剥がして立ち上がる。
「一〇分。それ以上は我慢できない」
「なっ!?」
堪え性のない姫風が一〇分も我慢できるようになっていたとは……! と、僕は姫風の成長に少し涙ぐんだ。
夕食後に、告白についての話をする段取りだったけど、それを飛ばして、僕は携帯電話で沙雪さんを呼び出した。
待ち合わせたのは叔母さん別荘宅と「海の家」の中間――姫風が連日月光浴をしていた例の砂浜だ。
「……ゆ、ゆゆ優哉くん!」
玄関から全速力で走ってきたらしい沙雪さんは、僕の目の前に到着すると、肩で息をハァハァつきながら喘いでいた。
不謹慎ながら、いろっぽいなぁ、と思ってしまう僕。
「……あ、あの優哉くんそ、その!」
「慌てないで沙雪さん。落ち着くまで待つよ」
「ご、ごめん、ね」
「いや、僕の方こそ急に呼び出してごめんね」
沙雪さんは何度も深呼吸を繰り返してようやく落ち着きを取り戻した。
「……そ、それで、その、こ、ここ告白の返事をいただけたら嬉しいなぁ……なんて」
沙雪さんはトレードマークである茶髪ポニーテールの乱れを整えながらそう言った。
それを受けて僕は頷き、沙雪さんの瞳を見詰める。
「新海さ――沙雪さん!」
「は、はい!」
僕の突然張り上げた声にビックリする沙雪さん。
「――僕も沙雪さんが好きです!」
「んい!!」
沙雪さんが目を見開く。
口がぁゎぁゎとパクパク動く。
そして人差し指を僕に向けて、
「と、とととととととと言うことは……わたしと優哉くんは、りょ、両思い? 両思いってこと? 嘘! やだ、嬉しいっ!!」
沙雪さんから抱きつかれそうになった僕は、彼女からスルリと身をかわす。スカッと空を切る沙雪さんの両腕。
「あれ?」
また抱きつかれそうになった僕は、彼女からスルリと身をかわす。スカッと空を切る腕。
「んい?」
また抱きつかれそうになった僕は、彼女からスルリと身をかわす。スカッと空を切る腕。
沙雪さんの視線が自分の両腕と僕を何度も往復する。
「えと、優哉くんはスキンシップが嫌い?」
どうして避けるの、と顔を横へ傾ける沙雪さん。
「スキンシップの好き嫌い以前に話さないといけないことが、違うな、沙雪さんに謝らないといけないことがあるんだ」
なにを想像されたのか、沙雪さんは両の頬を朱色に染めた。
「ん、んい? わ、わたしはエッチなことも頑張るよ?」
なんか勘違いしてるよっ!?
「え、いや、エッチの話じゃなくて……」
「ん、んい?」
沙雪さんは困惑を顔に張り付けて何度も瞬きされている。
その表情を晴らす為に口を開く僕。
「僕は――沙雪さん意外にも、違う。沙雪さんと同じくらい好きな人が居るんだ」
沙雪さんの表情に疑問がプラスされた。
「んい? ……んい?」
「つまり、二股です」
沙雪さんが「へっ!?」と凄く驚愕した。
「ふたまた……? んいっ!? ゆ、優哉くんは既に誰かと付き合ってるってことなのっ!?」
沙雪さんが目を見開き僕の胸ぐらを掴む。
「ま、まだ付き合ってないけど、沙雪さんと同じくらい、姫風のことが好きなんだ」
そう告げると沙雪さんは首をフルフルと横に振った。
「わからない……優哉くんの話してる意味がわからないよ。――って、姫風……さん? えっ!? 鈴城姫風さんっ!? 優哉くんはお姉さんのことが好きなのっ!?」
戸籍では姉だけど……。
僕は首をフルフルと横に振る。
「厳密には、姉じゃないんだ。姫風は再婚相手の連れ子で、兄妹になってから、まだ一年半くらいなんだ」
沙雪さんは「え?」と呆ける。
「そ、そうなんだ。……その、姫風さんと、優哉くんは、今、つ、つつ付き合ってるの?」
誰とも付き合っていないと伝えたけれど、上手く伝わってなかったみたいだ。
涙目の沙雪さんが上目遣いで見上げてくる。
「まだ付き合ってない。沙雪さんと姫風、二人の人を同時に好きになってしまったから、これは二股かな、と思って、告げてるわけです」
沙雪さんがまた首をフルフルと横に振る。
「そ、それ二股じゃないけど! 二股じゃないけど! ええええっ!? もぉ、わたし、ええええっ!?」
沙雪さんのテンパりがマックスっぽい。
だよね。普通混乱するよね。
「だから……僕は、どちらかと付き合ってもらう資格はないと思って、それを伝えたくて、沙雪さんを呼び出させてもらいました」
続・テンパり中の沙雪さんは、んい!! んい!? んい? んい?? と全力で百面相を展開中。
僕は続ける。
「できるなら答えを出すまで待っていて欲しい、とか調子の良いことは言えないので、バカな僕のことは忘れて、新しい恋を見つけて下さい」
伝えるべきことは伝えた。
あとは蛇足になりそうなので、早々にここから立ち去るべきだろう。
でもその前に、僕の好きになった女の子を瞳へ焼き付けるように少しの間見つめる。
時間にして、数秒。
焼き付け終えると、後ろ髪を引かれつつも、踵を返して沙雪さんの前から立ち去――
「ちょっと待って!」
「どわっ!?」
背後から加重――タックルをくらって転倒する僕。
そのまま沙雪さんは僕の背中にのしかかり、起きようとする僕の動きを封じた。
「付き合う資格ってなに?」
「いやその……二股みたいな形になりそうだから、僕は人間的にダメなやつと言うか誰かを好きになる資格が無いと言うか、人間的に価値がないと言うか……」
しどろもどろに答える僕の返事をお気に召さなかったのか、
「優哉くんは卑怯だ!」
沙雪さんが憤慨したように声を荒げた。
「一方的に告げて逃げるなんて! わたしの答えはなんで聞こうとしないのっ!?」
根っからのチキンですから。
「あ、あはは、こ、混乱してたようだから……」
「混乱したけど、逃げるのはダメだよ! 最後までわたしの傍に居てよ!」
「……すみません」
素直に謝罪すると背中の加重がフッと消える。ついで肩を引かれながら立たされる。
沙雪さんが僕の服に付着した砂を払いながら言った。
「わたしなりに整理してみたんだけど、もしかして、わたしが優哉くんを諦めたら、優哉くんは姫風さんと付き合うことになっちゃう?」
憤慨から一転、今にも泣き出しそうな沙雪さんがそこに居た。
その表情を眺めた僕は罪悪感に駆られる。
「正直なところ解らない。さっきも言ったけど、沙雪さんと姫風のどちらも同じくらい好きで、でも、僕は近いうちに答えを出すつもりでいる」
それで、改めて、好きな女の子に「付き合って下さい」と告げるつもりだ。結果がどうであれ。
泣き顔から幾分か落ち着いた表情となった沙雪さんが、
「……無理に答えは出さなくて良いと思う」
「え?」
「わたしは思う存分悩めば良いと思う」
そう優しい声音で伝えてくる。
「優哉くんのことを、わたしは、ずっと待つから」
意表を突かれた。
「……待つって」
姫風とまったく同じことを言われてしまったからだ。
「わたし、優哉くんのこと好きだもん。大好き。二股してるって言われても、嫌いになれって言われても、絶体無理だもん」
穏やかな表情の沙雪さんに右手を取られる。両手で包み込まれる。
「それにね、一年生から暖めてきたこの『優哉くんを好き』って気持ちは、今さら無かったことにできないもん」
「……暖めてきた気持ち」
「うん。優哉くんを大好きって気持ち……ね、優哉くんから、き、キチュ、キスして?」
噛んだ。言い直した。
「ね?」
頬を桃に染めた沙雪さんが上目遣いから瞳を閉じる。わずかに唇を突き出す。
背伸びをしながら僕の肩に手をおき、体を寄り添わせてくる。
「うん」
僕も沙雪さんの唇に照準を合わせて、鼻と鼻がぶつからないようにしつつ瞳を閉じて、彼女の小顔に自分の顔を近づけ――バシャンッ。
バシャンッ?
水の中に何かが落ちたような音がした気がする。
同時に、唇に柔らくて熱いものが押し当てられ、ついで口内にヌメヌメした――恐らく舌が侵入してきて、僕の舌を絡めとり口中を舐め回す。
さ、沙雪さんてば、積極的で情熱的だな!
沙雪さんの舌はトロけるような甘さと良い香りがして、ずっと味わっていたいような気分になる。
ともすれば火傷しそうなほどの熱さで……うぐ、呼吸が苦しくなってきた。
僕はキスの際の呼吸の仕方がわからなくて、酸欠から逃れる為に、沙雪さんの唇から自分の唇を離した。
恥ずかしくてまともに沙雪さんの顔が見れない。つい俯いてしまう。背を向けてしまう。
顔を離した時に沙雪さんと僕の唇から、一瞬だけ銀の橋がかかっていたのが、妙に生々しかった。
嬉し恥ずかしのキスから自身を落ち着けようと呼吸を整える。
沙雪さんの状態を見ようとチラリと背後を盗み見ると、そこには、
「ゆう、好き」
唇をペロリと一舐めする姫風が居た。
「え」
あっるぇ? 沙雪さんは?
姫風に抱き付かれる。
押し付けられた豊かなメロンさんが、ぐにゅぐにゅむにゅむにゅと僕の胸で縦横無尽にグングニル。
「さ、ささゆ――新海さん知らない?」
「ゆう、ぎゅってして」
人の話聞けよ。
姫風を引き剥がそうと攻防していたところ、バシャバシャと水中を掻き分けて移動する音が聞こえてきた。
「……んいいいいい」
沙雪さんの声音だ。
そちらに視線を移すと、びしょ濡れの沙雪さんが、海岸からこちらへやってきている最中だった。
水を含んだワンピースを体に張り付けて、よたよたと歩いている。
「……姫風、投げたのか」
「ゆう、ぎゅってして」
「人の話聞けよ」
涙目の沙雪さんが、えっぐえっぐとしゃくりあげながらこちらへやってくる。
「……す、鈴城さん、ひ、酷いよ」
「ゆう、ぎゅってして」
「人の話聞けよ」
無表情な姫風が抱きついたまま見上げてくる。
「時間切れ」
「はい?」
どういうこと? …………あ!
「……あ〜、もう一〇分経ったんだ」
蚊帳の外で涙目の沙雪さんが、「んい?」と首を傾げている。
姫風と僕の「一〇分間だけ待つ」といった口約束を知らないのだ、仕方がない。
僕はどうにか姫風を引き剥がして、こちらへ向かってくる沙雪さんへ向き合わせる。
「とりあえず謝ろうか」
「ゆう、ぎゅってして」
「人の話聞けよ」
相変わらず沙雪さんのことをアウトオブ眼中な姫風が、僕の胸に背中を預けてくる。
「酷いよ鈴城さん……って、うううぅぅぅ……」
眼前までやって来た沙雪さんは、僕と姫風の様子を怨めしそうに睨んで歯噛み――唸り声を上げ始めた。
かと思えば、
「す、鈴城さんっ!」
沙雪さんは姫風に向いて叫んだ。
「優哉くんから聞きましたっ!」
姫風がピクッとかすかに反応する――が、依然僕の方しか見ていない。
「本当の兄妹じゃないってことと、優哉くんを好きだってことっ!」
姫風がピクッとかすかに反応する――が、僕に向き直り胸に飛び込んで頬擦りを始める。
「ゆう、ぎゅってして」
「人の話聞けよ」
頼むから。
んいいい、と地団駄を踏んで一頻り唸った沙雪さんがハアハアしながら続ける。
「一年以上暖めてきたわたしの気持ちに嘘はつけない! だから、姫風さんには負けませんっ!!」
それを受けてか、姫風は僕の胸から離れて、沙雪さんへと振り返った。
そして、
「一年以上?」
と、姫風が嗤った。
僕からは姫風の顔が見えない。
けれど怖い笑みを浮かべている雰囲気が伝わってくるのだ。
案の定、恐怖を感じたらしい沙雪さんが、顔をひきつらせながら数歩後退った。
まぁ、姫風からすれば笑いもするか。
姫風からすれば「一年間暖めた程度の気持ち」は、嘲笑の対象なのだろう。
ストーキング四年に片思い六年の都合一〇余年間暖めてきた気持ちは伊達じゃない。
なんて思考していたところ、姫風に手を引かれて歩かされ始めた。
沙雪さんは「あ、優哉くんが行っちゃう」とかゴニョゴニョもごもご呟いている。
沙雪さんがあてになりそうにないので、自発的に無駄な抵抗を試みてみる。
「……姫風、僕、一人になって考えたいんだけど」
「ゆう、ぎゅってして」
「人の話聞けよ」
まだそのネタ引っ張るのか。
姫風からの抱きつきをかわすこと四回。五回目には結局捕まり、そのまま引っ張られながら立ち去るかと思いきや、歩みを止めた姫風が僕へ、いや、沙雪さんへ振り返った。
「タヌキ、名前は?」
冷淡な声音が沙雪さんに投げ掛けられた。
「た、たぬき? んい? わたし?」
急に話を、しかも姫風から振られた沙雪さんはかなり混乱しているようだ。
「名前」
再度冷淡な声音で姫風。
「し、新海沙雪、です」
声が裏返りながらカミカミで答える沙雪さん。
姫風はジッと沙雪さんを見つめる。
「沙雪」
え? 今――
「よろしく」
沙雪さんが後退る。
僕は姫風へ振り返る。
姫風が口を歪めて嗤っていた。




