最終話〜静閑なる雲隠〜
──夢を見た。
目の前には大きな川が流れている。私から見て右から左へ、全く自然そのままの川が滔々と流れている。上流は二手に分かれていて、左の方で合流している。その左の方には、木造の大きな橋が架かっている。川の向こうに目を転じれば、背の低い建物が並んでいるようにも見える。
忘れもしない、私がこの時代で初めて見た光景である。私はぼんやりと京を眺め、美月君は静かに隣に立っていた。
*>────<*
「──様、旦那様!」
「……ん、ああ。少し寝ていただけさ」
「そうでしたか。公任様が参られましたが、お通しして宜しいでしょうか?」
「うん、通してくれ」
美月君に支えられつつ体を起こす。時は寛弘七年の春、あれから半世紀が過ぎたのだ。私も歳をとるというものである。他の誰かが連れたのか、公任はすぐにやって来た。
「公任にございます。義憲殿──いえ、右大臣様、お休み中でしたか?」
「はは、既に退いた身ですよ。……思えば、公任殿とは長い付き合いでしたな」
「祖父の代から、我々は貴殿にとても世話になりました。何かお手伝いできることがあれば、何卒」
「……では、預かって欲しいものが。美月君、あれを」
美月君に持ってこさせたのは、一つの文箱である。少ないながらも美しい螺鈿装飾を施した、至ってシンプルな漆塗だ。
「これは……?」
「中身は見ても構いませんが、どうかそれを末代まで保管していただきたいのです。中身を一つも欠かすことなく、100年、1000年先に届けて欲しいのです」
「……なるほど、努力致しましょう。お約束は出来ませんが」
「お願いします」
中身は、石刻写本の隠し場所を示した資料である。和紙、竹簡、木簡、石板、銘文と考えつく限りの素材に書き記した。1000年が経とうと、これなら何か一つは残るだろう。
「あともう一つ、我が息子を見守ってやってください」
「承りました。では、私はこれにて。……義憲殿、お元気で」
「…………ええ」
*>────<*
「父上! どこにおられますかー!」
「ここだここだ、喧しい。お前も30なんだ、少しは落ち着きなさいよ」
騒がしく入って来たこの男こそ、紛れもなく私の息子である。幼名を輿舁、元服してからの諱を頼憲と言う。実頼・頼忠親子から一字頂いた──勿論、頼忠の許可を得ている。正暦五年の元服と同時に従六位上へ叙任。最初は中務省の少丞だったが、今は確か……
「お忘れですか? つい先日、左大弁を拝命致しました!」
「……おお、そうだったそうだった。その調子で頑張れよ」
「はい!」
息子はそう言い残し、自らの居住空間へ去っていった。今はまだこの屋敷に住んでいるので、文字通りの「御曹司」である。
*>────<*
「──旦那様、勅使がお見えです」
「マジか」
なんとか身を起こし、居住まいを正す。例え勅使が私より下の位階でも──今の私は正二位なのでほとんど格下なのだが、帝と同じように表敬しなければならない。
勅使は主上から手紙を預かっていたようで、それを渡すとさっさと行ってしまった。もとより顔も知らない者だったので、別に良いのだが。
「……お手紙にはなんと?」
「…………『別れを寂しく思う』とかなんとか。帝から手紙を貰うとか、中々の名誉だね。どうにかしまえる?」
「かしこまりました」
残るかは知らないが、残すものに加えることにした。
*>────<*
…………。
*>────<*
………………。
*>────<*
……………………。
*>────<*
「──やっと2人きりですね、旦那様」
「……ああ」
こちらに来てから50年。私は既に70を迎え、美月君も還暦を超えた。この時代ならもう十分な長生きで、そして迎えは近い。
「────いままでありがとうね、美月君」
「メイドとして、主人に仕えるのは義務でございます。妻として、夫を支えるのは愛情でございます。どちらも礼を言われるものでは……」
「今日まで、君には散々苦労をかけたね。主に私の無茶振りだったような気もするけど」
「…………ええ」
「否定はしないのね、まあいいけど。…………今後の話をしよう。葬儀は基本仏式で、時間感覚以外は現代と変わらない。応宝寺のお坊さんいるから、具体的なことはそっちに聞くと良い」
「……最期まで、旦那様は旦那様でございますね」
「私が私でなきゃ、一体なんなんだろうね」
2人で軽く笑いあう。結局現代には帰れなかったけど、彼女が幸せなら問題無いだろう。後のこの家が唯一の気がかりだが、彼女なら乗り切れるはずだ。なんなら公任を始めとする小野宮流もいるし。
「…………少し休もう。おやすみ、美月君」
「──おやすみなさいませ、旦那様。どうか、どうか良い夢を」
*>────<*
*>────<*
──夢を見る。
目の前には比較的中規模の川が流れている。見た目は鴨川に似ているが、やや殺風景か。対岸を見ると、よく見知った顔がいた。
安倍晴明がいる。藤原実頼・頼忠親子がいる。村上帝・円融帝親子がいる。藤原兼家一家もいる。
────私は理解して、舟に乗った。




