傘を持ってくるのを忘れた
「いやあ、失礼しました」
魔法使いの男は猫のような耳をピコピコと動かしながら、その場からさっさと去ろうとしていた。
使ったばかりの刀を鞘に戻し、腰のベルトに備え付けていた装置のようなものに戻している。
そうしながら、魔法使いは殺したばかりの、まだまだ大量に血液の気配を残している死体を腕の中に抱えていた。
「小さいですが、しかしお嬢さんのおやつ程度にはなるでしょう。きっと、そうでしょう」
そんなことを言いながら、作りたての怪物の死体を抱えている。
魔法使いの眼、主に緑色をしている瞳は希望的観測に満ち満ちていた。
希望の光を目の前に、ルーフは魔法使いに対して違和感を覚えずにはいられないでいた。
空に落ちていた時の目の輝き、魔法使いの表情。
それを思い出そうとした、だが上手くできなかった。
輝きは瞬間だけに限定されているもので、もうすでに魔法使いの体からはあの強い閃光は失われつつあった。
魔法使いが、怪物の死体を少しだけ重そうに、まるで米の袋を抱えるようにしていずこかへと運ぼうとしている。
その様子を見て、ルーフはせめて気になる事項だけでも質問しようとしていた。
「あの」
「ん?」
呼び止められた、魔法使いの目線がルーフの声だけを認めている。
認識の内に入った、ルーフは妹を抱きしめたままで彼に質問を投げかけていた。
「その、殺したやつをどうするつもりなんだ?」
問われた内容を、魔法使いは一瞬だけ理解が及ばぬ様子で聞いていた。
だがすぐに、質問内容に沿った解答を口先に用意していた。
「どうもこうも、お城に持って行ってお金に変えてもらうんですよ」
そう言いながら、魔法使いは左の指に空白を作り、とある場所を指し示している。
指先が示す、それはどうやらルーフ等がいる方角にあるらしかった。
先端を追いかけるようにして、ルーフは体勢をあまり変えないように首の向きを動かす。
そうすると、あまり難しいことを必要とせずに、ルーフはその建造物を目にしていた。
「城?」
そうとしか形容できそうにない、石材によって作られた巨大な建造物が、たった今兄妹が使用したばかりの駅の近くにそびえ立ってた。
城の姿を認識した、魔法使いが謎に満足げな様子でうなずきを繰り返している。
「みんなはだいたい古城と呼んでますね。あそこで、採ったばかりのこれを少々加工して、宝石にしてもらうんです」
そんなことを説明しながら、魔法使いは再び両の腕で大事そうに怪物の死体を抱えている。
「これは少々サイズが小さいので、心臓もそれなりですから。おそらくは、リンゴを作成できるほどの血液は期待できそうにないですね」
なにやら専門的な事を言っているようで、当然のことながらルーフ等には全く見当のつかぬ内容でしなかった。
少年らが不理解を頭の上で大量生産している。
彼らの様子をよそに、魔法使いは再びその体をふわりと浮遊させていた。
「では、ボクはこれを古城のお上さんのところに直接届けなくてはならないので、ここでおさらばです」
当たり前のように空を、少し変わった軌道を描きながら飛んでいる。
去りゆく魔法使い。
「さようなら」
それに返事をしていたのはルーフではなく、ようやく少年の腕から解放されたメイの声であった。
「サヨナラ?」
疑問形になっている。
ルーフは何故か、あの魔法使いに再び遭遇するのではないか、一抹の不安のようなものを覚えていた。
少々の厄介事に巻き込まれてしまった。
旅路としては、あまりにも不愉快かつ不快感の強すぎるイベントではあった。
……。
それでも歩き続けていれば、その内何処かしらに到達するであろうと、楽観的に考えてしまえるのが方向音痴故の悲しきポジティブであった。
諦めて体を預けきっているものの、まだ恥ずかしさが抜けない妹を抱えながら、ルーフは町を歩く。
舗道の横に流れる車道、その上にぼんやりと定められた空道では、大小種々様々な車両が一時も静寂を許すことなく通過している。
それらの機械が吐きだす排気が、その臭気を風に乗せて少年の鼻腔を刺激している。
アプリの情報を一旦捨てて、ただ眼球から直に伝えられる情報だけに頼ってみる。
単純にまっすぐ伸びている、ように見えて実際に歩いてみると異物な利用者を混迷の底へ引きずり込む道路。その上を、機械に引けを取らぬ均一性を保ちながら行き交う人々。
何事もない平和な風景。そのはずなのだが、それでも少年には刺激が強烈過ぎた。
たまらずルーフは、早足で大通りから少し外れた小路へ、逃げるように移動する。
すると途端にあたりの空気が変化した。
メインの道からは想像できない程の静けさ、落差の激しさに少年はつい拍子抜けしてしまう。
同じ場所にいるはずなのに、少し見方を変えるだけで表情が変わる。
静謐と均一の日常がつねだった故郷とはまた別の、人を惑わす異質な空間。
何にせよこれで人混みからは解放された。ルーフは深呼吸をする。
「お兄さま、大丈夫ですか?」
メイが心配そうに窺ってくる。徒歩から解放されたことによって、先程よりは声に元気を取り戻してくれていた。
「重かったらもう降ろしてもよろしいんですよ」
「いや大丈夫だ、それは平気だから」
降りようとする妹をルーフはおさえる。
「もう気分も良くなりましたし…」
どうやら兄がいつまでも抱っこを止めないのを嫌がっているらしい。ルーフは意地悪ににやりと笑う。
「そう嫌がらないでくれよ、お兄ちゃん寂しいじゃないか」
メイは不満そうに口をとがらせた。兄の要求をなんだかんだ容認してしまう、彼女はそういう自分を理解している。それでも感情を隠すことは出来なかった。
彼女はぷいとそっぽを向く。すると毛先に違和感を感じた。
「お兄さま、なんだか空気が湿っています」
妹に教えられて、ルーフも空気の臭いを嗅いでみる。確かに、人混みにいたときは気付かなかったが、町の入り混じった臭いの中にあの匂い、雨が降る時に蔓延する水の臭いが、しっかりとした主張をもって漂っていた。
「空はずっと曇っていましたけれど、いよいよ雨が降るのかもしれませんね」
「そうだな」
「だとすれば、雨宿りできる場所を探さないと」
「そうだな、…ん?」
「どうかしましたか?」
ルーフは鼻の穴をさらに広げて、嗅覚を研ぎ澄ませる。
街の臭い、雨の臭い。それらに交じって何処からか芳しい、温かい料理の臭いが流れてきていた。
「なんか、美味そうな匂いが…」
メイが不思議そうにして、臭いをかいでいる。だがわからないようだった。
ルーフは嗅覚を頼りに、妹を抱えたまま薫香のありかを探す。
そして見つけた。大通りからいよいよ離れた場所、人もなく車もなく、あるのは建造物と車があまり止まっていない駐車場。
その食事処はそのような場所に店を構えていた。
必要もないのに、何故かルーフは音をたててはいけないような気がして、ゆっくりとその飲食店に近づいてみた。
店の前、道路の上に看板が置かれている。白い電光看板、そこにはこう書かれている。
[お食事処 営業中]
情報はそれだけだった。
ルーフは数歩離れて店を観察してみる。
出入り口に掛けられている深い色合いの暖簾、[綿々]と白文字で書かれている布は長いこと使用してきたのか、だいぶよれよれにくたびれている。
その下に茂っている小ぢんまりとした生垣は、葉を青々と光らせている。よく手入れされているようだ。
「メイ」
ルーフは妹に問いかける、答えは既に予想できた。
「腹減っていないか?」
妹は答える。
「そうですね、そういえば空いているかもしれません」
彼女はにっこり笑うと、体をよじらせて兄の腕から脱そうとする。
ルーフは慎重にメイを地面に降ろす。彼女の二つに結った頭髪が、柔らかく空気に流れた。
「あらあら、こんな所に程よくお店がありましたよ」
メイはいかにもな演技で、驚いている素振りを作った。
「お兄さま、早速入りましょう」
メイが小さな手を兄に差し伸べる。兄はその手を握った。
ぽつん。結ばれた兄妹の手の平に、空からの水滴が落ちてくる。
雨足は少しだけ、ほんの少しだけ静かに、柔らかくなっていた。
「安全祈願について」
魔力鉱物の採掘作業には危険が伴う。そのために安全祈願のお守りが欠かせない。お守りと言うよりかは「呪い」と呼称される行為は、☆や×のマークを刻印したりする。




