688 「最後の撃鉄(2)」
「おはようございます。玲子様」
「おはよう、貪狼司令」
朝の6時半。鳳ビルの地下の主から、直通回線で電話があった。
「徹夜だったの?」
「いえ、交代で仮眠を取りました。今は涼太が仮眠中です」
「そう。睡眠不足は思考を鈍らせるものね。それで、吉報、凶報?」
「両方です」
「両方?」
電話だからどちらかと思ったけど、両方とは少し予想外だった。けど、頭がまだ完全に目覚めていないらしく、心は鈍い衝撃しか受けていない。
それとも、随分と図太くなっただけなのかもしれない。
そして私が疑問形なので、一瞬だけ間を置いて貪狼司令の言葉が続く。
「はい。時系列的には、日本時間で4時に日本とポーランドの間で、相互援助条約が締結されました。また5時より、満州国境のソ連軍が再び総攻撃を開始。現在、川を挟んで激しい戦闘が行われております。どちらも、つい先ほど第一報が届いたばかりです」
「攻勢と条約締結が連動している可能性は?」
「今はなんとも。ですが可能性としての話なら、ソ連中央が現地軍を止める前に、攻勢を続けているが止められたという形を作るべく、現地軍が強引に攻撃を開始した、という事になるかと」
「想定内の事態ね」
「はい。それに吉報がもう一つ」
「ドイツが戦争を止めてくれたら万々歳だけど?」
「その万々歳です。……夢見に御座いましたか?」
「ううん。総統閣下の頭の中は、なかなか覗けないみたいね。それで?」
「はい。推定になるのですが、我々と英国の諜報などの情報から考え、どうやらこの未明に奇襲攻撃を開始する予兆があったかもしれません」
「フーン。戦争処女のドイツ軍は格下のポーランド軍が怖くて、戦争準備が全然できてない相手を奇襲攻撃でぶん殴りたかった、ってあたり?」
「恐らくは」
「奇襲攻撃の好きな国ね。このまま部屋の隅でガタガタ震えて命ごいをしてくれたら最高だけど」
「ハハハ、確かに最高ですな。ですが、開戦を延期したと見るのが自然かと」
「そりゃそうよね。じゃあ、今朝は予定通りでお願いできる?」
「はい。ですが私はここに張り付いていたいので、涼太だけ向かわせます」
「うん。お願いね」
それで電話を切る。
ドイツの動きは予測できる範囲なので、驚きはない。
事前に準備していても、大きな軍隊が動くのには時間が必要となるからだ。
23日夜の独ソ不可侵条約締結から48時間以内で一番近い時間が、26日になったばかりの深夜か黎明。そして戦争は深夜か黎明に始めるのがセオリーだから、英仏はその直前に念の為の待ったをかけた形だ。そしてさらに日本が、追い打ちをしたという形になる。
「で、お嬢の淡い期待では、ドイツがもう半月ほど戦争を躊躇したら、ポーランドが軍の戦時動員を完了して防衛体制を構築。そこに日英仏で、さらにドイツに圧力をかけると?」
「でも、昨日の話し合いでドイツは止まらないって聞いたが、別の可能性があるのか?」
「可能性じゃなくて、ほぼ願望よ」
そんな事を話しつつ、朝は時間が惜しいので朝食を取りつつ話す。すでに何が起きたのかは、昨夜は半ば徹夜の涼太さんから軽く説明済み。
そして金持ちの朝食だから、「あれ取って」とか「お醤油どこ?」のような言葉で会話が遮られる事はない。
何から何までメイドに給仕してもらうわけじゃないけど、食事自体は淡々と進んでいく。
ただし、本当なら1歳の赤ちゃん達の食事もとらせてあげないといけないのだけど、ここ数日はシズやメイド達に任せた状態だった。
「願望じゃなくて、本当になればいいわね」
「うん」。瑤子ちゃんに仕草で相槌を打つも、口の中が一杯でそれ以上は難しい。結婚してから本当に食事量が増えた。
「本当だよね。どうして、戦争なんかしたがるのかなあ」
「虎士郎、ドイツは借金で首がまわらないって話を覚えているか?」
「覚えているよ。でもさあ、戦争なんかしたら、借金より沢山お金使うんじゃないの? 玲子ちゃんが戦争嫌がる理由の一つでしょう。小さな頃から、軍隊が使うお金の事でもよく愚痴を言ってたし」
虎士郎くん、意外に私の事を見ていたらしい。
けど、小さな頃は、軍事費より経済成長を優先するべき時期だったから、そこは大目に見てほしい。
「でもさあ、ドイツにとっては、お金の問題だけじゃないのよね?」
「領土、ダンツィヒ問題ですね。それにポーランドに割譲された旧ドイツ領には、プロイセン時代の領土が他にも含まれている上に、ソ連もポーランドには恨み積年。お金だけなら問題解決の糸口もあったでしょう」
「難しいのねー」
別のテーブルでは、昨日はいなかったサラさんとエドワードも食事している。夜のうちにエドワードに連絡したら、一緒の方が良いだろうと二人して加わってきた。
「難しいわよね。それで涼太、国境紛争の方は他に情報ないのね」
「はい。今の所は、ソ連軍が再び攻勢を始めたというだけです。軍は箝口令状態だから、情報が入りにくくて」
「戦場だから鳳の情報収集にも限度があるし、龍也さんからの言伝待ちか」
「はい。場所が一応満州北部なので、馬将軍の配下の部隊も戦闘に加わっているので、最低限の情報は手に入りますけどね」
「最低限か。ねえ、玲子ちゃんの夢には何もないの?」
「追加は何もなし。そもそも、夢にほぼ出てこない場所、というか戦場なので」
(しかも出てくるのは、戦後の冷戦時代だしなあ)
「歴史が大きく変わった結果が、今回の国境紛争だったわね」
マイさんはそこまで言うと、考え事をしつつも食事に専念し始める。私も話すより食べる方に力が入る。
赤ちゃん達に栄養を持っていかれるから、自身の燃料補給にどうしても力を入れざるを得ない。と言うか、体が栄養を求めてくる。
(それにしても、何があろうとお腹は減るのよね。それに紛争が山場で戦争が目前っていうのに、私も神経が図太くなったなあ)
「ねえ瑤子ちゃん、龍也叔父様は?」
「昨日遅くに戻って、今朝もすぐに出て行ったわ。本館の大人の方々は?」
「食堂の方で、タバコをふかしつつ朝食中。ハルトもそっち。けど、今朝の話はもう全員に伝わっているから、気にしなくて良いわよ」
「りょーかい。大人の皆さんは大変ね。学生の身で申し訳ないわ」
「学生の本分は勉学でしょう。こんな事に首を突っ込む方が間違いよ。戦争も外交も大人がすることだし」
「玲子が言うと重みが違うな」
「アハハハ、そうだね」
冗談なのは分かるんだけど、玄太郎、虎士郎兄弟の言葉は、私に地味に効く。しかも、この部屋の大人達もフォローがない。
そうなると、こっちとしてはおどけるしかない。
「ハァ。そう思うなら、ご飯食べたら学校行ってね。どうせ、次に動きが出るのは早くても半日後でしょうから」
「半日で出るかな?」
私達の雑談には我関せずだったお芳ちゃんだけど、お役目は果たしてくれる。このポジションはシズもしてくれていたけど、最近はお芳ちゃんの役回りも増えていた。
「どうだろう? 分かりますか涼太さん」
「総研では、ソ連政府中央が国境紛争の前線部隊の動きを止める可能性が高いと見ています。日ソ間の停戦協定成立は、早ければ現地時間の今日中だろうと」
「その二つが通れば、取り敢えずは安心ね」
「取り敢えずなんだ。他に気になる事でも? 不安要素はないと思うけど」
「紛争停止、停戦成立が通れば、9月3日までは問題ないでしょうね。取り敢えずの先は、日本がドイツに宣戦布告した後。夢にはない景色だから、これから考えないと、だからね」
「それでも、欧州情勢そのものは夢と同じでしょ。分析と研究でも色々しているし、心配し過ぎだと思うよ」
「ありがとう、お芳ちゃん。理屈では私もそう思ってる」
「これから戦争になるんだから、不安になるのは当たり前よね。でなきゃ、私達もこうして話を聞いてないもの。いつもありがとう、玲子ちゃん」
瑤子ちゃんが言ってくれたけど、テーブルを囲む人達も頷いたりしてくれた。
私としては、この景色を作れただけでも十分以上だった。
奇襲攻撃を開始する予兆:
史実のドイツは、対ポーランド戦を8月26日に開始するつもりだった。だが、英仏がポーランドと条約を結んだ為、英仏が参戦しないかを確認する目的もあって、9月1日に延期した。
つまりこの世界でも、日本の動きに関係なく史実と同じ行動となる。




