682 「首相と外相」
24日の夕方、まだ閣議が続いているお爺様から、使いの者がきた。
時田ではないけど、お爺様に古くから仕えている秘書の一人だ。けどのその顔は、今ではほとんど意識しなくなっていたゲーム『黄昏の一族』に出てくるモブ執事に似ていた。
「鳳ホテルに?」
「左様にございます、玲子奥様」
「誰かとお会いするの?」
「お連れするようにとだけ。申し訳ございません」
「他に誰か連れて行っても?」
「特に指示はございませんが、別室で控えて頂く事になるかと存じます」
(別室ということは、閣議の合間の相談じゃなくて、誰か別の客がいるって事か。取り敢えず、みんな連れて行こう。お爺様も、誰が出てくるのか教えてくれればいいのに。相変わらず、意地が悪いなあ。まあ、予想は付くけど)
そう思いつつみんなに声をかけ、最後にシズに挨拶する。
本当は連れて行きたいけど、赤ちゃんの世話に誰かが残らないといけない。そして危険度は限りなく低い場所に行くだけなので、残る人は限られてしまう。
「行ってらっしゃいませ、奥様」
「うん。赤ちゃん達をお願いね」
「お任せ下さいませ。奥様の行いが良き結果がもたらされますよう、お祈り申し上げております」
「うん。いっぱい祈ってておいてね」
私の言葉にいつものように静かに綺麗なお辞儀をして、私達を送り出してくれた。
そして映画やドラマじゃないので突然の襲撃といった事もなく、あるわけもなく、車で行くほどの距離でもない鳳御殿へと数台の車を連ねて到着する。
一緒に付いて来たのは、マイさんとお芳ちゃん。他に、リズと側近の護衛達も一緒だ。
「このホテルって、下手な料亭よりも密会に使っているのかも」
「鳳の人以外も使っているのよね」
「首相官邸と国会の実質裏手だから、うちと仲が悪いところ以外は使っているみたいですね。使えるようにも作ってありますから」
「貪狼司令は、灯台下暗しだから都合が良いんだろうって」
「なるほどねえ。けど、そういう意図で作ったんじゃあないんだけどなあ」
「ちなみに、聞いても?」
「鳳の表看板としてじゃないの?」
「『二・二六事件』の舞台の一つになるから」
「ハ?」
「え?」
鳳ビルの駐車場から新しい地下通路でホテルに向かう時の雑談で、二人に絶句された。
気にしていないのは、会話に加わっていないリズだけ。リズ以外の護衛の側近達も、微妙に反応している。
けど、この場所という点では間違いない。最初の動機は、私としては大した理由はない。そして、あとで怒られるまでがセットだった。
「いや、ホントだから。夢の景色の中だと、違う会社がホテルを建てるのよ。けど、探してみたら、その会社が現実にはなかったの。だから私が代わりに作らせたのよ。歴史の舞台が無かったら、何か違う事が起きるかもしれないでしょう」
「そう、だったんだ。ホテル以外も?」
「ううん。ホテルだけです。まあ、鳳ビルもそうだけど、とにかく鳳の作ったもののほぼ全部が、少なくとも同じ時間に夢の中にないものです」
「ホテル以外は、歴史を捻じ曲げる手段だからか。ホテルだけが例外ってのは、面白いね」
「そういうものが、一つくらいあった方が良いでしょう」
「かもしれないわね」
私的には、こんな時期だからこそって感じのネタバレ混じりの軽快なトークをしつつ、密会場であろうホテルのスイートを訪れる。
そしてその手前で、セバスチャン、エドワードが控えていた。私が呼びつけておいたからだ。
「奥様、中には奥様一人で入るようにと、ご当主様よりの伝言です」
「やっぱりそうか。じゃあ、みんなは別室待機しておいて。知恵を借りに来るかもだし、呼ぶ事もあるかもだから」
「畏まりました」
「うん。ちなみに、誰が来るのか知っている?」
「既に首相と外相がおいでです」
「陸相と海相はいないのね。了解」
エドワードの言葉に、軽く頷いて私は部屋へと入った。
平沼騏一郎と幣原喜重郎の待つ部屋に。
「平沼です。今夜はご足労かけました、玲子さん」
「平沼様、お初にお目にかかります。鳳玲子と申します。本日は、こちらこそ宜しくお願いします」
「えろぅご無沙汰しとります、玲子夫人。赤子のいる女性を、夜にお呼びたてしてごっつう心苦しく思っとります。せやけど、今晩は宜しう頼みますわ」
「こちらこそご無沙汰しております、幣原様。毎年、曾祖父の墓前にお参りして頂き、有り難く思っております」
部屋に入ってすぐ一礼すると、呼びつけられた為か向こうから挨拶してくれた。
それに労いの言葉があったけど、どちらも品の良い人って感じはする。幣原外相の挨拶に如才がないのは、まあ職業柄だろう。
(それにしても大物ネームドが二人か。内容は大体察せるけど、まずは受け身で行くか)
そう思いつつ、座りながらお爺様に視線を送る。
対面に平沼騏一郎と幣原喜重郎で、お爺様は私の左。けど、お爺様はホスト役の筈だ。他には、時田と平沼様か幣原様の秘書か側近の一人が扉の側で控えているだけだ。
だから次に、対面に座る二人に順に視線を向ける。勿論、平沼首相、幣原外相の順番だ。
そうすると幣原外相が平沼首相に視線を向け、平沼首相が口を開く。
「今日、玲子さんをお呼びたてしたのは、鳳厚生相の話の確認と質問をしたいからだ。ただ、最初に一言だけ言わせてもらうと、あなたの噂など含めて荒唐無稽に過ぎて、私はいまだ信じる事が出来ない。それでもお会いしたのは、数々の結果があるからだ」
(言いたい事を最初にはっきり言うって姿勢は有難いなあ。平沼首相って思っていたより良い人なのかも? いや、法の番人だから、最初に判決を言い渡す様に癖みたいなものだったりして)
平沼騏一郎。今年で72歳。慶応生まれ。武士出身で、長らく法の世界に関わっていた人。
その一方で観念右翼の総帥などと言われ、とにかく左巻きな連中が天敵という点だけは、私と意見が一致する。
歴史の流れが私の知るものと随分違っているから、首相の椅子欲しさに誰かと敵対したり、法的に陥れたりといった派手なヤンチャはしていない。
ただ、左翼系の主義が大嫌い。反ソ連(共産主義)、反ドイツ(ナチズム)で、戦争を否定していない。
ていうか、ソ連をぶっ潰せと公以外で言ったとか言わないとか。しかも紛争が戦争になっても構わない節がある。
ただ、名誉欲は強く総理の椅子に座りたかったので、ここ数年は随分と大人しく行動しているように見える。
海外との繋がりが深い鳳の中枢の人間と会うというだけで、大人しい証拠の筈だ。
そして大規模な国境紛争でソ連を叩けているので、総理の椅子に座った事と合わせて、総理就任以後は常に上機嫌だとお爺様がボヤいていた。
そんな相手に、私は深めに頭を下げておく。
「ごもっともかと存じます。ですが私は、話し、答えるのみに御座います」
その言葉に口をへの字にした平沼首相の返答はなく、代わって幣原外相が口を開いた。
「噂は色々と聞いとります。今、ポーランドに向こうてる吉田君も、あんさんをえろぅと買っとった。今回も、お父上からの話はぜんぶ的中。こっちは、外交の仕事をする必要すらあらへん程や」
幣原喜重郎。今年67歳。お爺様より少し年上だけど、ほぼ同世代。
この人が総理だった、私の前世の記憶にあるほどまだ老けていない。大阪の豪農出身なだけあって、関西弁丸出しだ。鈴木の金子さんを少し思い出す。
政治の基本は、協調外交。幣原外交と呼ばれたほどだ。
親英米という点では私も同じ道を進むけど、協調だけじゃあダメなのを私は知っていた。
だから1926年に鳳は当時の憲政会を見限って、政友会に鞍替えした。だから、鳳の事をあまり快く思っていない人なのは間違いない。
けど、曾祖父の蒼一郎とは憲政会の頃の付き合いがあるので、年に一度はうちの屋敷と青山のお墓に来てくれる。だから私も、顔を見知っている程度には知っている。
ただ、上っ面の挨拶以上はしたことがない。そういう関係だ。
吉田茂からは多少の話を聞いているけど、大阪出身だからか下らないジョークが好きだという程度。そしてそれは、私も聞いたことがあった。
あと、書道や文章がちょー上手いと、口元を歪めながら言っていた。それも頂いた手紙などで私も知っている。けどその事で、何か吉田茂との因縁があるらしいけど、そこは教えてもらえなかった。
前世の記憶にも個人的なプロファイルは殆どインプットされていないので、慎重な方が吉だろうと考えつつ相対する。
「外交は信頼関係が重要とお聞きします。必要ないという事は、御座いませんでしょう」
「信頼も外交には重要やね。玲子さんが言うと重みがちゃうな」
ウンウンと頷きながら返されたけど、言い返さざるを得ない。
「私が言うと、ですか? 確かに商取引も信頼が第一とは考えておりますが」
「謙遜はやめときや。吉田君からは、チャーチルが楽しげに話題にしとったって聞いてるで。アメリカにおる斎藤君からは、何人もの要人からエンプレスと面識ないんかと呆れられたと、困ったような手紙が来とったわ。他にも、多くの人と手紙をやりとりしてはるそうやんか。
斎藤君は例外かもしらんけど、今の日本で玲子さんほどアメリカの本当の中枢に多くの友人、知人を持つ人はおらへん。
せやから、玲子さん、あんさんに会おうと考えたんや」
(チャーチルめ!)と一瞬頭の片隅で思いつつも、流石は外務省の重鎮と舌を巻かざるを得ない。話してくれたのは、知っている事の氷山の一角なのは間違いないだろう。
そして向こうの手札をある程度見せてもらい、こっちとしては猫をかぶる必要はないと教えてもらったわけだ。
流石は前世の歴史では首相にまでなったネームドだ。
「私のペンフレンドの方々は、今回のお話に必要でしょうか?」
「もしかしたら、お力を借りる事になるかもしらへん。何しろあんさんの持つ影響力は、英米に対しては今や連合艦隊より強力や。せやから今日は、色々と話を聞きけたらと思っとる。総理」
私と幣原外相のやりとりを無面目で聞いていた平沼首相が、少し重めに頷く。
私の方は、念のためお爺様に視線だけ向けると、小さく頷かれた。
(さあ、体の主のジャッジの前の最後の戦いってやつかな? 相手にとって不足なしね!)
平沼騏一郎 (ひらぬま きいちろう):
第35代内閣総理大臣。司法に関わることが多く、法整備や検察の地位向上に大きな功績がある。
ただし、観念右翼のボスキャラ。とにかく、左翼思想、左翼主義が嫌い。
政治家としては曖昧な態度が多く見られ、敵も多かった。
「欧洲の天地は複雑怪奇」という声明で内閣を総辞職したことで有名。
幣原喜重郎 (しではら きじゅうろう):
戦後すぐの第44代内閣総理大臣。外交一筋で、何度も外相を務める。
自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称された。
憲政党(立憲民政党)なので、この世界では表舞台に立つ機会が少し減っている。
大阪出身なので話し言葉は大阪弁とした。
アメリカにいる斎藤君:
駐米大使の斎藤博。史実では結核で1939年2月に死去。
その遺骨は重巡洋艦「アストリア」に乗せられて帰国した。それくらい、アメリカ側から好意的に見られていた。
この人が存命で現役だったら、太平洋戦争に至る経緯は違っていたかもしれない。




