680 「最後のフラグ」
私自身の破滅、一族の破滅、財閥の破滅。この三つの判定は、もう後は体の主がどう考えるか次第。やれる事はやり尽くした。
だから深く考えずに、ここ最近はできる限り穏やかに過ごしていた。そしてこの点では、肩の荷が下りた感じすらする。
けど、体の主との勝負とは関係ないところで、9月1日までに訪れる世界史上のビッグイベントの前座がついにやって来た。
『独ソ不可侵条約』だ。
確か1939年8月23日の深夜に締結され、8月中に平沼内閣は「複雑怪奇」の言葉と共に総辞職。日本は、ドイツに梯子を外された外交状況に追いやられてしまう。
なんで日本は、この時点で防共協定とドイツとの関係を捨てられなかったのかと、思わずにはいられない。
それだけ当時の日本が世界のボッチだったからなのは分かるけど、ここまでドイツにコケにされても動けない、動きたくても国内がバラバラ過ぎて何も出来なかった日本に、歯痒さ以上のものを感じずにはいられない。
一方で、私が生きている世界の満州国境での日本とソ連の大規模な国境紛争だけど、前世の歴史での『ノモンハン事件』はない。
代わりにとばかりに、20日から今日に至るも国境の川のウスリー川の中州を巡って、今までで最大級の規模の戦闘が行われている。
ただし、朝鮮半島とソ連の間に挟まれた張鼓峰でのソ連軍の攻勢は牽制に止まる。
そして主戦場となった中州だけど、最新報告は常に遅れがちながら、23日にソ連軍の大規模な上陸を許したという報告がある。けど、中州がソ連軍の手に落ちたという一報は入っていない。
お爺様曰く、一両日中が一つの山場だろうとの事。
私の前世の歴史上と、体の主の3回のループ全てで起きた『ノモンハン事件』のクライマックスに当たる戦闘なんだろう。
『ノモンハン事件』は前世の記憶に詳しくインプットされてないけど、『独ソ不可侵条約』の前後で日本が受けた政治的衝撃をさらに大きくした筈だ。
軍事的にもソ連軍が強いと分かり、北に進まず南に進む大きな要因の一つになった筈だったと思う。
(けど、大丈夫!)
24日朝に『独ソ不可侵条約』締結の第一報を聞いて、私は部屋の鏡の前で自身を鼓舞する。
政治、外交、軍事、それに私が一番関われる経済と生産力は、この15年間で捻じ曲げられるだけ捻じ曲げてきた。その自負は十分以上にある。
あとは、最後の仕込み、もしくは賭けがどう転ぶか。9月1日まで私にとって有利になるように、捻じ曲げ続けるだけだ。
そしてそのゲームの最後の幕が切って落とされた。
「奥様、ご当主様がお呼びです」
「ありがとう、リズ。じゃあ、行こうか」
「はい、奥様」
そうして平日の日中なのでハルトのいない部屋を出ると、仕事部屋からはお芳ちゃんが、赤ちゃん達の部屋からはマイさんとシズが廊下に出てきていた。
みんなにも一報を知らせていたからだ。
「取り敢えず、お爺様達から話を聞くだけだと思うから」
それだけ言うと、シズはいつも通り音もなく深々とお辞儀をする。お芳ちゃんとマイさんは「後で話聞かせて」とそれぞれの口調で。
みんな、次の世界大戦が始まる最後のフラグだと、散々私が言っていた事件が日時を違わず起きたので、分かっていても不安なのだろう。
ただ、仕事中か大学で私の執事や側近達がいないから、諸々話すのは猶予があれば夜になるだろう。
けどそこまで話すのもあれなので、それぞれに頷き返すに止める。
「玲子、お前がそんなに硬くなるな。まだ一報が届いただけで、他に話す事もない。それより俺は、これから閣議に出る。何か言いたい事はあるか? 今なら、お前が言うところの歴史を捻じ曲げてやるぞ」
そういえばお爺様は、現在の厚生大臣だった。
そしてこの1ヶ月ほどは、水面下で積極的すぎるくらいに動いてもらっていた。けど今は、予想外、想定外の事が起きていない限り追加案件はない。
だから私は、首をゆっくりと横に振る。
「特には。今まで通り、強気に出るけど絶対に軍事で一線は超えない外交って線を押してちょうだい。
あとは、英仏と連携してポーランドに肩入れ、日ソ紛争の日本に有利な停戦。この二つが通れば世界大戦の最初の関門は通過よ」
「フラグ、だったか。それに第二次世界大戦だったな。そういえば玲子、お前小さな頃から世界大戦の事を、たまに第一次、第二次と付けて言っていた事があったが、自覚あったか?」
「え? ……全然なかった。私の夢の中では第一次、第二次が当たり前過ぎたからかも」
「難儀な夢だな。で、第三次とかないよな。逆に、第三次やその次の数字は聞いた事がないんだが」
「ない。あったら多分、人類滅亡だから」
私の言葉にお爺様が軽く目を見開く。けど、それだけ。
「相変わらず、想像を超える言葉が飛び出すなあ。だがまあ、これから起きる第二次世界大戦とやらで、人類は滅亡しないわけだな」
「私の夢の中ではね。けど、夢の中には日本滅亡の場合もあるから、気は抜かないでね」
「その話は散々聞かされたな。まあ、メリケンとは仲良しだし、英国も支える今回の策を通せれば、なんとかなるだろ」
「うん。けど、慢心は禁物よ」
「確か死亡フラグだったか? まあ、死亡はしたくないから、平沼さんを上手く乗せてくるとしよう」
「うん。お願いね」
「おう、任せろ。じゃあ行ってくる。行くぞ時田」
「行ってらっしゃい、お爺様。時田」
「行ってまいります、玲子奥様」
お爺様の側でずっと黙っていた時田が、いつものように洗練された一礼をしてからお爺様に続く。
私はいつもより深く長く頭を下げたけど、こういう時は未だに表舞台に立てない事を歯がゆく感じる。
来年には二十歳になるけど、今の日本の社会だとあまり意味はない。何しろ女性には参政権すらない。
私にあるのは、お金と財閥、それに一族郎党だけ。それらを駆使して、頭を下げて、裏で、陰で動くしかない。
(まあ、陰で暗躍するってところは、悪役らしくて良いわよね)
そうとでも思うしかなかった。
「じゃあ、お嬢が何かするとしたら、ご当主様が戻ってからか」
「動きがあればね。けど手はもう打ったし、紛争は軍の活躍を期待するより他ないし、出来る事はないとは思うけどなあ」
「でも日本政府は、まだ次の動きはしていないのよね。簡単に決まるかしら?」
赤ちゃん達の世話を少しの間シズ達に任せ、仕事部屋でお芳ちゃん、マイさんと軽く雑談する。
「英仏の動きに合わせるのは、もう政府の既定路線。駐英大使の吉田茂様が英国で話を進めていて、ポーランド大使にも根回し済みって聞いているから、この不可侵条約締結で確定の筈」
「でもさ、相互援助条約か軍事同盟かは決まってないんでしょ」
「そうよね。平沼首相は反共姿勢が強い方だから、ポーランドとは軍事同盟を結びそうだけど」
「私的にはどっちでも、かなあ。一番困るのはソ連がポーランドに攻め込んでも、紛争の停戦が成立してない状況だけど、それは流石にないだろうし」
「ソ連も、日本だけじゃなくて英仏と戦争状態は避けるだろうからね」
「それに軍事的な共闘関係まで結ぶほど、あの二つの国に信頼関係があるとは考えられないものね」
「独ソ不可侵条約自体が、お嬢がよく口にしていた複雑怪奇な状態なのは、間違いないですからね」
「けど、昔から何が起きるのか分からないのが、欧州の外交よ」
「玲子ちゃんがそれを言うの? 同意ではあるけど」
そうして不安を紛らわせる雑談が、その後もしばらく続いた。
けど、なって欲しくない事だけは分かるし、今回は賭け要素が強い。
日本の動きの影響で、ドイツとソ連が不可侵条約じゃなくて軍事同盟に発展する可能性はゼロじゃない。
『独ソ不可侵条約』:
1939年8月23日の深夜過ぎ(日本時間の24日朝)に調印が行われた。
表向きは、ドイツとソ連の相互不可侵および中立義務のみだったが、互いの侵略行動を認める秘密議定書が締結されていた。




