679 「日ソ国境紛争(13)」
1939年8月23日、ドイツとソビエト連邦の間で、『独ソ不可侵条約』が締結された。
しかしこれは、青天の霹靂、あり得ないような事態であると考えられた一方で、必然の結果でもあった。
1939年の春くらいから、ソ連を自分達側に引き入れる外交工作を、英仏とドイツが行なっていた。その結果、21日にソ連は英仏との交渉を無期限延期という言葉で、事実上打ち切った。
そして現地時間の23日の午後10時20分に、『独ソ不可侵条約成立』がラジオで放送される。
当然、その前にドイツとソ連との間で握手は交わされていた。それ以前に、21日の時点でソ連は決断を下している。
つまり21日のうちに、日本との紛争を早期に解決しろという命令を、ソ連の中央は極東の自軍に対して下している事になる。
陰謀論では、現地司令官のジューコフ将軍が20日の総攻撃開始、23日の上陸作戦決行を決断した8月7日の時点で、ソビエト政府はドイツとの握手を決めていたと言われる。
しかしこれは間違いである事は、その後の情報開示で明らかとなった。
ジューコフに中央からの新たな命令が下ったのは、少なくとも極東の現地時間で21日の昼以後の事だ。この時点で日程の微調整があったもしれないが、その点は歴史は黙して語っていない。
そして25日の日本政府の行動で、さらに変化があるのだが、21日の時点で大規模な日ソ国境紛争は、政治的影響が強まったのは間違いなかった。
だがそれは、現地時間での24日に入ってからの事。
それまでは、日本、ソ連双方が激しい攻防戦を繰り広げる事となる。
「先鋒、川の境界線を超えました!」
「中洲及び対岸から、敵砲火多数!」
「中隊長艇、撃沈!」
「後続も損害多数!」
「じ、上陸できるのかよっ!」
「神よっ!!」
川の真ん中で、ロシア語の絶叫が各船で響いていた。
そしてそれ以上に、様々な戦場の音で満ちていた。
まさに地獄への入り口のような有様で、日本人なら三途の川とでも表現したかもしれない。
しかしロシア人を地獄に落とそうとしているのは、その地獄を作っている日本人達だった。
そして日本人達の方でも、ロシア人達が日本人以上に様々な砲火を浴びせかけられていた。
まさにそこは戦場だった。
何も知らない者が見たら、国境紛争とは決して思わない地獄だった。
日本軍の迎撃の砲火が激しいのは、ロシア人達の予想に反して各所の陣地が破壊されていなかったから。地面を深く掘り、強固に構築した陣地は誰もが予想もしくは楽観するより、はるかに生き残る事が可能だった。
巨大な爆弾や戦艦の艦砲射撃なら話は変わるかもしれないが、内陸奥深くでは戦艦の大砲が届く筈がないし、この時代に500キロかそれ以上の大型爆弾は殆ど使われていなかった。
航空機の積載量がまだ大きくない事もあって、半分の250キロ程度が精々な時代だ。それ以上の大きさは、ようやく登場し始めたくらいで、まだ戦場には姿を見せていなかった。
そしてソ連軍を迎撃する日本軍だが、川の対岸に布陣する砲兵部隊の一部は、75ミリ砲を搭載する『九五式重戦車』だった。しかも深く掘った陣地に潜んでいた。
この為直撃でもない限り、75ミリ程度の砲では砲撃を止められなかった。特にこの時の戦いで多数投入されたソ連軍の歩兵砲は、砲身が短く榴弾しかないので殆ど効果が無かった。
日本側はそこまで考えて贅沢に戦車を砲兵代わりに使ったわけではないが、十分な効果を発揮していた。
一方で、この時代の戦車なら全て破壊できる威力がある砲なので、ロシア人達が川を押し渡る貧弱な河川用の舟艇では、直撃したら轟沈状態。至近弾でも破壊されたり、ひっくり返る事があった。
これは銃弾程度なら防げる武装舟艇が相手でも、似たようなものだった。
そして砲撃するのは、日本軍で生き残っている全ての火砲やM2重機関銃を始めとする銃器になるので、中洲に押し寄せるロシア軍に凄まじい出血、損害をしいた。
その損害は、8月初旬に行われた攻防戦よりも多く、川が人の血で黒く染まったとすら言われた程だった。
しかし日本軍の迎撃以上に、ソ連軍の攻撃は猛烈だった。
何度目かの突撃を粉砕されるも、正午頃には狭い中洲という非常に攻めにくい場所に、友軍の犠牲を押しのけて次々に上陸を果たしていった。
そこからは日本軍か満州軍が作った1つ1つの小さな陣地を巡る攻防戦となり、ソ連軍は大きな犠牲を払いつつ1つ1つを攻略していった。
この戦いでは、ソ連軍が苦労して上陸させた化学戦車が上陸当初のみだが活躍した。
化学戦車とは、要は戦車の車体に火炎放射器と燃料一式を搭載したもので、火炎放射が陣地攻撃と日本軍歩兵に対し有効であるということが立証される戦闘となった。
ただし装甲があまり施されていないので、ガソリンタンクにたやすく引火した。そして5両投入された化学戦車は、脅威を感じた日本兵から猛攻を受けた事も重なって、短時間のうちに撃破されていた。
しかし中洲の日本軍は、時間を経るごとに数を増すソ連軍に徐々に陣地を明け渡し、日が没する頃には中洲の半分近くを明け渡していた。
それ以上ソ連軍が攻めなかったのも、対岸からの日本軍の砲火が激しく前進が難しかったのと、ソ連軍の犠牲も大きい為、部隊の再編成などが必要となっていたからだ。
そしてその夜、日本軍の曲射弾道の歩兵砲などが、断続的に砲撃を繰り返す状況が続く。
これをソ連軍は、日本軍が砲撃を行っている間に増援や補給を行っていると考えた。しかしソ連軍は、まだ中洲の対岸の方には南北の端の一部に到達しているだけで、対岸を全て見通せるまでには前進していなかった。
それに砲火が激しく、川にいるであろう日本軍舟艇を攻撃する事も難しかった。
半ば盲撃ちでの砲撃は対岸から実施されたが、日本軍も今度は対抗砲撃してきた事も重なって、嫌がらせ以上ではなかった。
しかし日付が変わる頃、中洲のソ連軍はある事に気付いた。増援を送り込んでいるにしては、日本軍陣地が静かだという事に。
そこで、夜間であるにも関わらず一部部隊が攻撃してみると、機関銃などで激しく応射してきた。
しかし逆襲などはなく、張鼓峰でもこの中洲でも報告のあった夜襲、夜間攻撃は無かった。
これを訝しんだ司令部は、威力偵察、要するに実際に敵と交戦して相手を探ると、ある程度の状況が把握できた。
現状の中洲の互いの支配領域から考えて、日本軍は戦線の整理をしているという事に。
それが分かれば、断続的な砲撃が配置変更、戦線整理の支援とカムフラージュだと理解もできた。
さらに増援は確実だろうが、さらに狭い場所に籠るのなら、大規模な増援はないと物理的な理由から判断できた。
そして増援はソ連軍も夜の間に送り込むので、夜が明ければ自分達の方がさらに有利になると予測もできた。
この為、中洲に上陸した部隊の指揮官は、各部隊に日本軍が退いた陣地への前進を命じ、さらに後方の司令部に対して指示を仰いだ。
そして司令部は、さらに増援を寄越すという知らせを送る。
小さな場所に多くの兵力を置くのは危険もあるが、日本軍の重砲兵は弾が少なく、航空戦力は積極的な爆撃を仕掛けてきた事もないので、危険は少ないと判断していた。
それを示すように、日本軍の砲撃は中小の射程距離の短い砲による攻撃ばかりだった。
そうして日付が変わり24日の午前3時頃、それは突然訪れた。
その時、日本軍のひしめく岸の奥の方、中洲から6キロ程離れた場所の一角が明るく光るのが見えた。よく聞けば、何か大きな音が響いてきたかもしれない。
ソ連領側の岸の高い位置から双眼鏡などで監視していた兵は、それが野戦重砲の砲撃開始の前兆だろうと咄嗟に判断した。
数が1つで、野戦重砲の試射だと考えられたからだ。
しかし注意深く見れば、もしくはもっと倍率の高い高性能の双眼鏡だったら、野戦重砲の砲撃とは違った火炎だった事が分かっただろう。
そうしてしばらくすると、中洲に大きな轟音が響いた。その「野戦重砲」の試射の砲弾が着弾する。
ただし着弾による爆発は、日本軍がこの戦場に持ち込んでいた大型の野戦重砲の着弾とは違っていた。
派手で大きな爆発で、日本軍が砲撃戦の劣勢を覆すべくより大きな重砲を増援で持ち込んだのではと、その着弾を見た砲術の専門家達は考えた。
しかも、発射されたと思われる推定位置も、今まで日本軍が野戦重砲を配置していた場所と大きく違ってもいた。
だから対応をしなければと考えたところで、最初の1発を放った場所がにわかに明るくなる。野戦重砲の連続発射にしては明るすぎるし、何より連射速度が早すぎた。まるで速射砲だ。
超望遠レンズがあったとしたら、同じ場所から秒単位で次々に炎の矢が天に駆け上がっていくのを捉えられたかもしれない。
しかしその連射は、それぞれ16回で唐突に終了。その後、射撃が再開される事もなかった。
射撃地点を見る事が出来たのなら、奇妙な鉄骨の塊を背負った日本軍のトラックの集団が大急ぎで移動を始める様子を目にできただろう。
だがロシア人達が目にしたのは、係争地となっている中洲の一角が突然活火山のような有様で爆発を繰り返す様子だった。
その爆発は川の上で起きるものも少なくないが、概ね中洲のソ連軍が占領した場所を中心としていた。
しかも通常の重砲と思われる砲撃も連続して行われ、さらなる破壊を振りまいた。
その破壊の様を見る限り、あの下では誰も生き残っていないだろうと思わせるものがあった。
そしてその感想は概ね正しく、深い陣地にこもった上に幸運が味方した場合を除き、何が起きたのか中洲のソ連軍兵士が知る機会は訪れなかった。




