678 「日ソ国境紛争(12)」
1939年8月20日午前6時15分、ソ連軍が珍宝島もしくはダマンスキー島に対して、再度大規模な攻勢を開始した。
同時に張鼓峰でも攻撃が再開されたが、こちらは8月頭の攻勢に比べると勢いが大きく落ちていた。
だが、現地の日本軍部隊にとって、安易に楽観できる状況でもなかった。この為、日本軍内での珍宝島方面への兵力移動の案は却下された。
「露助の奴ら、まだこんなに戦闘機を用意してやがったのか!」
「無線で私語は慎め。叩くぞ。続け!」
電探情報による地上からの誘導でいつもの通り待ち伏せていた日本軍戦闘機隊だったが、今までほど勝手も出来ず混戦に巻き込まれていった。
日本軍が陸海軍合わせて250機に対して、ソ連空軍は総力の300機の戦闘機を一気に投入。しかも日本側は、ソ連側が後どれくらい予備や後続を抱えているのか判断が付きかねていた為、最初の迎撃には200機程度しか出せなかった。
しかも高高度を進撃する爆撃機隊もいるので、新型機の一部はそちらにかかりきり。
戦闘の結果は、数字の上では日本軍の圧勝だったのだが、当事者達の体感的な戦場の様子は、せいぜい五分五分。相変わらず数では押されているので、息つく暇がないというのが偽らざる状況だった。
それもその筈で、ソ連軍は今までと違って国境深く入った空軍基地は狙わずに、彼らの言うところのダマンスキー島のその周辺部に戦力を集中させていた。
この為、狭い空域には両軍の戦闘機が溢れ、地上から見てもそこら中で空中戦が行われるという状態だった。
特に攻勢開始の20日は酷い状況で、日本陸軍自慢の電探も最初の指示と周辺から外れた航空機以外に対しては用をなさなくなっていた。
これ程の数と密度での空中戦は、第二次世界大戦でも起きなかったほどだ。
この為、「バトル・オブ・マンチュリア」という言葉が、第二次大戦になってから言われるようになった。そしてこの時の国境紛争での空中戦の記録は、1年後の「バトル・オブ・ブリテン」にも大いに参考とされたと言われている。
しかし英本土が欧州大陸の間にあるドーバー海峡と違い、ウスリー川は川幅が300メートルしかなく、小さな船で渡ることが十分可能だった。その気になれば、夏であれば泳いで渡る事も可能だ(ただし、夏でも水温はかなり低い。)。
「晴時々飛行機。砲弾の雨はしばらく降り続けるでしょう、てとこか」
「中隊長殿は呑気ですね!」
「それが取り柄だ。何、砲弾が飛び込んで来ん限り、どうと言う事はない」
係争地の中洲に降り注ぐ砲弾の雨の中、加えて爆発で地震のように振動する中でも、この戦いを生き抜いた兵士達は重機で作った野戦陣地の底に潜むしかなかった。
そして呑気に話し合っているように、砲撃にも無理やり慣らされていた。
「飛び込んで来たら?」
「次に気が付いたら、三途の川か閻魔様の前だろうよ。ジタバタしても始まらん。それより砲撃が止んだら、糧食班に湯を用意させておけ」
「閻魔様より飯の心配ですか。了解です。ですが、備蓄のカップ麺がそろそろ危ないですね」
「今晩の増援が来るときに、一緒に当面の分くらい補充で持って来るだろ。ケチらず全員に食わせろ。いつ最後の飯になるかもしれんからな」
「了解です。ですが、食べ飽きたカップ麺が最後の飯というのも、あれですね」
「冷えたやつとはいえ、握り飯を入れれば結構いけるだろ」
「自分は、炊きたての飯の方が良いですよ」
「それはそうだが、この状況で贅沢は言ってられん。あ、そうだ。飯で思い出したが、カップ麺の新製品が試供品で前線に特配されるらしいぞ。上手くいけば、次の補充で届くかもしれん」
「新製品ですか。何が違うんです?」
「なんと、カレー味だ。鳳財閥が市販する前に陸軍に献上したと、目端の利く兵隊から小耳に挟んだんだ。そいつが最前線の兵には自分が必ず届けてみせる、と大見得まで切ってた。二等兵のくせにな」
「カレー味ですか、確かに飯を入れれば旨そうですね」
「具も多くて、飯を入れなくとも旨いらしいぞ。とりあえず、それを食うまで生き延びたいもんだな」
「食べ飽きた鳥味よりは、最後の飯にする価値はありそうですね」
「まったくだ」
中洲を守備する兵士の頭上には、間断なくソ連領内から撃ち込まれた砲弾が、文字どおり雨のように降り注いでいた。
砲弾の雨は、中洲周辺の対岸に展開する日本軍陣地にも降り注いだが、中洲は特に激しい砲火に晒されたからだ。
そして中洲は対岸のソ連側に向けて広い側面を晒している為、0・74平方キロメートルの面積しかない小さな中洲に、野戦重砲以外にもこの辺り一帯に残され歩兵支援の小型砲など、届く限りの大砲の多くが振り向けられていた。
しかも、2週間ほど前まで続いた戦闘でも激しい砲火に晒されたので、もはや中洲にはまともな緑が残されない程だった。
そして各所に、重砲弾が作ったクレーターが穿たれていった為、「まるで月面のような」有様となっていった。
短い秋の気配が見える北の大地であるが、その中洲で生きているのはもはや人間の兵士達だけだった。
一方の日本軍は、川もしくは川の対岸に目視で見えた場合に砲撃する程度でしか応射はしなかった。
砲弾不足で、したくても出来なかった為だ。加えてソ連軍は、一ヶ月ほど前の重砲の砲撃戦の時と違って、日本軍の重砲を標的とはしていないのも、応射しない理由になっていた。
ソ連軍の砲撃は、日本軍の歩兵などが潜む陣地に集中されていた。しかも砲撃は、その日だけでなく翌日も断続的に続いた。
対岸のソ連軍が動き出したのは、8月23日の朝9時だった。その日も朝6時から、ここ数日でも激しい砲爆撃が行われ、上空では激しい空中戦が展開された。
そして砲爆撃に加えて煙幕で視界を遮り、日本軍の偵察機や観測機が貼り付けないように戦闘機を多数並べた上で、ソ連軍は一斉に行動を開始した。
日本軍は深夜の夜戦や、夜明け前からの戦闘開始を強く警戒していたので、早朝からの砲撃と空中戦はともかく、朝からの渡河作戦は少しばかり意表を突かれた。
そして何故、日が昇ってからの攻撃だったのかは、その攻撃の激しさが雄弁に物語っていた。
基本的に珍宝島方面の日本軍は、第7師団の1個師団だけ。満州軍は国境守備隊で、河川警備艇はともかく重装備に乏しい。
その代わり戦車旅団と重砲兵部隊が増強されたが、重砲部隊の多くは弾切れで後方に下がらざるを得ない状態だった。
戦車旅団は非常に有力だが、中洲に配備された一部以外は、砲台としての価値しかないのが現状だった。
これに対して対岸に陣取るソ連軍は、ソ連軍の規模で軍団以上。後方や末端を含めると4万にも達していた。兵員数では、日本軍の倍以上だった。
前線もライフル師団が3個、戦車旅団が1個有り、重砲兵3個師団が支援していた。
この為、中洲や周辺に撃ちかけてくる砲火の数と密度が、日本軍を大きく上回っていた。
武装した河川用船舶の数では日本軍、満州軍も相当数を掻き集めたのだが、火砲に対して広いとは言えない川に投入するには危険すぎる状態で、近くの安全地帯に退避せざるを得なかった。
これに対してソ連側は、武装艇だけで20艘以上、兵員や装備を渡河させる小さな船の数は200を数えた。日本軍の大発のような上陸作戦に向いた舟艇はないが、その気になれば5000名の兵士を一度に渡河、上陸させる事ができた。
これは8月頭の攻勢の時の、約二倍の物量だった。
ソ連軍がこの物量を8月頭の攻勢に投じなかったのは、戦力の配備が間に合わなかったのと、日本軍の手札をさらけ出させる為であった。
また、ソ連政府中央から、早期の解決、つまり占領を内密に伝えられていたからとも言われている。
この時の攻勢も、ジューコフ将軍は本来ならもう少し後に攻勢を開始したかったと言われる。その方が、さらに参加戦力を増やせたからだ。
しかし中央からの指示で、この時に総攻撃は実施された。
何故なら上陸作戦が開始された日は、8月23日。
『独ソ不可侵条約』が締結された日だったからだ。
中隊長殿は呑気ですね!:
満州事変以後の戦乱、特に支那事変(日中戦争)のない日本陸軍なので、戦場慣れしすぎた将校は少ないだろう。
逆に未だ選抜徴兵状態なので、将校は当然として兵士は軍人向きの者が多いかもしれない。
カップ麺:
敵性言語とかの考えもこの世界の日本人にはないし、英米は友邦なのでカップなどの言葉が言葉狩りがされている事はないだろう。




