673 「日ソ国境紛争(10)」
8月1日から始まったソ連軍の攻勢は、空だけではなかった。
「中洲及び周辺部の全域に対して激しい砲撃。規模は不明なれど、全力射撃と考えられる」
「張鼓峰方面より入電。『敵再ビ攻勢ニ出ル 規模ハ此レ迄デ最大ナリ』」
珍宝島方面の司令部は、ソ連軍の全面攻勢を伝える情報で満ちていた。しかも珍宝島(ダマンスキー島)、張鼓峰(ハサン湖)双方での攻勢開始でもあった。
その上空では、集計すら出来ないほどの航空機が越境し、陸海軍双方の友軍機と激しい空中戦を繰り広げていた。
そして同じ情報は、新京の関東軍司令部、日本本土の参謀本部にも逐一報告されていた。
「司令、断固持久です! 相手の誘いに乗ってはなりませんぞ。連中の常套手段です」
司令部の大きな作戦室で、この紛争で特に良く聞くようになった男の大声が、周りに聞かせるように響き渡る。
参謀の辻政信少佐だ。
「当然だ。服部、中央からは?」
「ハッ。固守、迎撃に専念せよと」
辻の言葉を半ば聞き流した司令と呼ばれた男、梅津美治郎中将は、持ち前の無表情のまま作戦主任参謀の服部中佐に確認をとった。
そのせいか、最初の一言を叩きつけるように言った辻は二人のやりとりを静観する。
「偵察機は入れて構わんのだな?」
「はい。変更の知らせはありません。ところで司令、お耳に入れておきたい事が一つ」
服部の言葉の後半に、視線だけで次を促す。
「正式な筋からの情報ではないのですが、海軍が活発に動いております」
「正確に言え」
「ハッ。佐世保、柱島にいた有力艦艇の何隻かが、舞鶴に向かいました。また、大湊も警戒態勢をさらに強化している様子です」
「艦艇か。航空隊ではないのだな?」
「はい。航空隊も掻き集めてはいますが、補充以外の増援を送るという情報はありません。また、有力な艦艇に空母は含まれておりません」
「戦艦と重巡、それに駆逐艦か?」
「戦艦複数は確実です。それ以外は、爆雷を余分に積んだ駆逐隊複数が、舞鶴と大湊にそれぞれ入りました。それに、樺太航路の海防艦の活動数が、この春よりさらに増えました。対馬海峡も警戒を強化しております」
「当然だな。だが、張鼓峰を艦砲射撃するつもりか?」
「それはあり得ないでしょう」
全面戦争になるからという言葉を出さずに、服部が否定する。梅津も、その言葉を言わせ、周りに聞かせる為に言っただけだ。
何しろ張鼓峰はソ連国境。しかもソ連海軍の要衝であるウラジオストクのすぐ近く。そんなところの沿岸に日本の戦艦がやって来たら、ソ連がどういう反応を示すのかは誰にでも想像がつく事だった。
だから服部の言葉に軽く頷き返す。
「政府は断固として不拡大方針。外交での解決を図る算段だ。故に越境攻撃は、砲撃以外は厳禁。そうして手足を縛った上で、相手を焦らせる為に徹底的に迎撃して叩け、か。面倒な注文をつけてくるものだな」
「はい。ですがこれで、ソ連軍の手札は大凡見えました。それに、鳳大佐殿が色々と融通してくれたお陰もあり、目処は立てる事が出来ます」
「新兵器だけで戦争はできんよ」
「心得ております」
「うん。では、今の攻勢がひと段落するまでに、作戦の修正案をまとめておくように」
「ハッ」
敬礼を決めた服部は、足早にその場を立ち去る。早速、作戦案に取り掛かる為だ。そしてその後に、同じく梅津に敬礼した辻が続いた。
関東軍司令部は梅津が掌握していたが、作戦の立案に関しては二人の中堅将校が強い影響力を持っていた。そしてその事を危惧する参謀や高級将校らもいたが、梅津は気にしていなかった。
彼自身が、手綱を握っていれば良いからだ。
(服部は、こっちの指示した作戦立案だけさせていれば、有益であって害はない。辻はソ連に長くいた影響か、まるで恐露病だな。だが、攻撃的過ぎるより余程いい)
その後、8月1日から始まったソ連軍の二箇所での大規模な国境紛争は、戦闘自体は守りに徹して戦力密度を高めた日本軍が優位に運んだ。
というよりも、数に任せた飽和攻撃で押してくるソ連軍に対して、的確な兵力と戦術、作戦を駆使する日本軍が優位に運んだと言えた。
張鼓峰での攻勢は、当初は激しい攻防戦がされるも、日本軍が守備する張鼓峰などの高地を守り抜いた。
6日にソ連軍が最後の大規模な攻勢を仕掛けるが、完全に行き詰ってしまう。
砲兵の支援こそ豊富に投入して日本軍を上回ったものの、歩兵ばかりで何度も突撃させて戦力を消耗してしまった。
しかもその後、戦車を突撃させて日本軍の対戦車陣地に嵌まり込んだ上に、日本軍戦車隊の反撃を受けて壊滅的打撃を受けていた。
戦車と共に歩兵を随伴させたが、歩兵は機関銃や軽迫撃砲に押さえ込まれ、結果として戦車は孤立し、そこを徹底的に叩かれていた。
さらに7日には日本軍が反撃に転じて、国境まで押し戻されてしまう。
演習でもここまで酷い戦いはないと、参謀達が呆れたほどだった。
それを日本陸軍側は、ソ連軍の現場の下級将校の質が低いことを原因の一つと考えていた。
一方、珍宝島という中洲をめぐる攻防は、上空で激しい制空権の争奪戦が行われる中、ソ連軍による間断ない砲撃が中洲を中心に降り注がれた。
これに対して日本軍は、現地だけでなく日本本土にも備蓄された砲弾が乏しくなった為、十分な砲撃を返せなくなった。
ソ連が砲撃を続けられたのは極東全軍の備蓄を回したのに加えて、ヨーロッパ方面からも追加を送り込んでいたからだ。
そして僅か0・74平方キロメートルの面積しかない中洲を守備する、満州軍と日本軍それぞれ1個大隊と支援部隊の合計3000名の守備隊は、ソ連軍の激しい砲撃に晒される事となる。
加えて、日本軍が撃ち漏らした爆撃機も飛来し、周辺陣地ともども爆撃の洗礼も受けた。
しかし日本軍も、ソ連軍による激しい砲爆撃は予測していたので、持ち込んだ重機などを用いて可能な限り強固な陣地を構築して耐えた。
そして急造ながら地下もしくは半地下に作られた陣地は、見た目以上に強固で兵士と装備の多くを守った。
だが中洲は緑の半分以上が砲爆撃で吹き飛び、緑と土色の醜いまだら模様のようになってしまう。
この為ソ連軍も、中洲と川の対岸の日本軍を十分に撃破したと考え、張鼓峰で総攻撃をしたのと同じ6日、武装した河川舟艇を先頭として上陸部隊を渡河させようとする。
その規模は5月とは段違いに多く、50艘近くに及んだ。そこに乗り込んだ全ての兵士が上陸できれば、十分な橋頭堡が作れただろう。
だが日本軍は掘り下げた陣地の中で耐えており、殆ど撃破されていなかった。
当然のように、近づいてきた舟艇に対して激しい砲火を浴びせかけ、多数の舟艇を撃沈もしくは撃破した。
しかしソ連軍は諦めず、さらに激しい砲爆撃を実施しつつ舟艇を送り込み、ついには上陸に成功する。
そしてそこからは、守る日本軍と攻めるソ連軍による小さな中洲での激しい攻防戦となるが、ソ連軍は次々に、犠牲も厭わず舟艇によって増援部隊を送り込んだ。
2艘に1艘は川で沈むか転覆するか、粉々に砕け散るような有様だったが、とにかく数を用意したソ連軍の猛攻は衰えなかった。
俗にいう、人海戦術というやつだ。
そして激しい攻防は24時間以上続き、ついにソ連軍は中洲の半分までも占領する事に成功。対する、中洲の満州軍と日本軍は、戦いの中で大きな損害を受け、撃退するだけの力を無くしていた。
だが日本軍は、7日夜になると煙幕などで欺瞞すらしつつ、対岸から1個大隊の増援を派遣。その日の夜に大規模な夜襲を決行し、中洲に取り付いたソ連軍は、後続が続かない事、補給を受けられない事もあって撃破され、中洲から蹴落とされる。
この時のソ連軍の攻勢は、またも失敗に終わったのだ。
関東軍司令官:
1935年春に、史実より早く南次郎が辞任しているので、玉突きで史実を1年程度前倒し状態と想定。
史実のノモンハン事変の頃の司令官だった植田謙吉は、1939年春の国境紛争前に任期満了。梅津美治郎がこの時点での司令官となる。




