645 「次は挙国一致内閣?」
この春は、一族内でおめでたが続く。
竜さんとジャンヌの間に、虎三郎家の跡取りとなるであろう男の子が4月の半ばに生まれた。
私達より一足早く、去年の私達と似た時期の生まれだ。
しかも、マイさん達は5月なかば、私達が6月初旬と、お目出度が続く予定というおめでたさ。
だから虎三郎の目尻は下がりっぱなしだ。
そうした中での昭和14年度の鳳社長会は、4月22日の開催。
もっとも私は、今回も欠席。けれども去年も欠席したし、しばらくは私が表立って社長会に顔を出す必要もないだろう。
取り敢えず財閥に対してやるべきことはやったし、結婚したから鳳当主の名代でもないし、出産と育児は良い口実だ。
そして今までの私の席は、ハルトが座ればいい。
私、一族、財閥、ついでに日本、この破滅を回避するのが目的であって、富や権力に興味は殆どない。というか、はっきり言って重荷だ。目的の為以上の富や権力にも興味はない。
一方で贅沢過ぎる生活はさせてもらっているけど、もう対価としては十分なくらい働いた筈だ。
「そんな風に思っているくせに気になるんだから、もう殆ど病気だね」
「未来の世界では、ワーカホリックって言うらしいよ」
身重な上に1歳児が二人いるのに、暇を見つけると仕事部屋へとやってくる私へのお芳ちゃんの言葉に、半ば自虐でそう返す。
すると意外に興味を持った表情を浮かべた。
「労働中毒?」
「直訳だとね。日本語で綺麗に表現すれば滅私奉公が近いかな?」
「お嬢にぴったりだね」
「どっちが?」
「仕事中毒。いや、ワーカホリックか」
「言葉を変えて、仕事熱心とか言って欲しいなあ。それに、気になるものは気になるから仕方ないでしょう」
「そりゃあ小学校に上がる前からこんな仕事をしてれば、体に染み付くよね。お気の毒様」
「目の前の人は、人の事を言えないと思うけどなあ」
「私は知識と情報が好きなだけ。それに私の場合、今お嬢が言った滅私奉公になるから違うでしょ」
「うっ」。言い返せないので、思わず言葉に詰まる。
お芳ちゃんを始めとした側近、使用人、それに社員の一部は、確かに事実上の主従で、滅私奉公するしかない。
「そんな事より、知りたい事があるんじゃないの? やっぱり社長会の事?」
「あ、うん。時田やセバスチャンは、まだ今日の会議とか会合で聞けないから」
そう、今日は社長会の本会が終わった翌日の月曜日。社長会の延長戦と言える様々な会議や会合が今日も続いている。
そして昨日は、私は双子ちゃんの相手で他の事ができなかったので、鳳大学から戻ってきたお芳ちゃんにおねだりしているわけだ。
なお、お芳ちゃんと銭司、福稲には、社長会は末席で参加させている。
私はもちろんマイさんも、身重な上に子育てで参加出来ないので、私が気軽に話を聞ける相手は側近たちしかいないから、毎回参加させ続けていた。
そして報告書は、前回もそうだったけど、お芳ちゃん達がまとめてくれるから、待っていればいずれ上がってくる。そしてその報告書を読んだ後で、聞きたい事を聞けばいい。
けど、やっぱり、生の感想、生の速報を知りたいというのが人の情だと思うけど、ワーカホリックな証拠なのかもしれない。
「大人は大変だよね。鳳グループとしては、業績も拡大というより膨張の一途だし、話すことが多過ぎるから社長会も期間を伸ばそうって話になってるよ」
「同じ釜の飯を食うのが目的だったのに、なんだか目的からは外れる一方ね」
「結束は強まっているんじゃない? これだけ急速に大きな財閥になっても、統制は取れているんだから」
「そうかもねー。もう全体の把握も難しいもんね。……そういう部署か会社を作ろうかな」
「それは止めた方が良いんじゃない。ただでさえ鳳グループは、監査とか厳しいって声も少なくないからね」
「それもそうか。じゃあ、幹部会議を増やす? 移動手段も便利になってきたし、意思疎通をもっと図るのはアリじゃない? ……なに?」
「そういう、普通の事をしていていいの?」
そう問うてくる赤い目が、私を見据える。
そして見つめられた以上、何かを答えないわけにもいかない事は分かっていた。
「社長会は「そんな話」ばっかりだった?」
「だったね。だいたい、鳳グループを過剰なくらい生産拡大に向けさせたの、お嬢でしょ。そこにきて、日に日に高まる世界規模の戦争の気配。他を出し抜いたって、みんな大興奮だったよ」
(一年ほど前、そんな話を一族会議でしたっけ。けどまあ、私にとっては既定路線で今更なんだけどねー)
そんな感想を頭の片隅でしつつ、口から出たのは別の言葉。そっちの方が、私にとっては身近であり、言いたい事だった。
「そんな話は、ハルトが酔いつぶれながらもブツブツ言ってたなあ。みんな浮かれ過ぎだって。私も同感」
「ああ、晴虎さんから殆ど何も聞いてなかったから、今こうして聞くわけだ」
「うん。昨日は随分遅かったから、今朝は珍しくギリギリ。私には、ああいう外での付き合い方が出来ないから、ちょっと羨ましいのよね」
「お嬢の場合、欧米型の君臨する状況が似合っているし、適材適所だと思うよ」
「君臨か。まあ私は黒幕やフィクサーだから、その言葉が似合うんでしょうねえ」
「黒幕やフィクサーじゃなくて、エンプレス、女帝でしょ。お嬢が鳳グループに号令出して、世界中の友人知人にお手紙するから、周りが全部引っ張られてるんじゃない」
「そうかなあ。私的には、笛吹けども踊らず、なんだけど」
「十分、世の中はお嬢の手のひらの上でのたうち回っているよ。特に日本の重工業界は、少し前まで鳳の拡大を「やりすぎた」「調子に乗りすぎた」「失敗した」って小馬鹿にして笑ってたくせに、今じゃあ『バスに乗り遅れるな!』って焦りまくり」
「ヨーロッパが、いよいよ危なそうだもんねー」
「そんな他人事みたいに。お嬢の言った通りに事が動いているって、総研、戦略研は脱帽。龍也様は、陸軍は話を聞いていたおかげで助かったって」
「悪い事が当たっても、嬉しくないけどね。全部外れればよかったのに」
「まあ、そう言わない。それで次は、日本とソ連の大きな国境紛争だっけ?」
「えーっと」という言葉で時間を稼ぎつつ、前世の記憶、それを色々書き連ねた紙面を思い出す。
「日本の悪い夢見は粗方ご破算になったけど、確かイギリスがもうすぐ徴兵制が復活する筈。それにドイツとイタリアが軍事同盟結ばなかったかな?」
「独ソ不可侵条約は夏だよね」
「うん。その前に英仏もソ連を引き込もうとするけど、ソ連はより利益があると踏んだドイツと関係を結ぶ。けど英国は、ドイツを止めるためにポーランドと同盟結ぶのよ」
「その辺の話は、随分前にも聞いたね。『欧州の天地は複雑怪奇』でしかないけど」
「おおっ、平沼様だ」
「あ、そうだ」私の合いの手に、お芳ちゃんが何かを思い出すように、態とらしい声。
一応「何?」と聞くと、少し悪い笑みが返ってくる。
「平沼騏一郎が、首相になるかもしれないよ」
「つまり、次の内閣? 段取りは?」
「解散総選挙。宇垣内閣は3年以上続いたから、そろそろ幕引きだろうというのが理由の一つ。軍備拡張の大きな予算を通すから、それを宇垣内閣の最後の花道にしてはどうかってのがもう一つ。それにもう70だし、3年も首相をしたら流石に疲れたって、本人がご当主様にこぼしたらしいよ」
「なるほどね。けど、どうやって平沼様が首相になるの? 平沼様は政友会の総裁にでもなって選挙するの?」
「ううん。むしろ平沼様はそのまま」
「つまり、選挙の結果如何を問わず、挙国一致内閣か」
「うん。まずは選挙で政治家を淘汰して、選ばれた人の中から大臣の候補を選び出す。両党の有力者、実力者を入れて、対ソ強硬論者の平沼騏一郎を内閣総理大臣とした強力な内閣を編成し、来たるべき情勢に対応する。という辺りが目的らしいよ」
「順番とはいえ、平沼様かあ」
「お嬢はやっぱり軍人宰相がお好み?」
「まあ、これから戦争だからね。ただ、実際日本が積極的に参戦する頃にもう一回内閣作って、その時に退役した軍人のうち外交にも強い人が首相になれば、それなりに上手く行くかもね」
「お嬢にとっては、平沼騏一郎はつなぎか。まあ、そうかもね」
「ガチの反ソ連、反ナチスという点は買うけど、軍事に疎いし外交力もなさそうだからね」
(それに複雑怪奇の人だからなあ)
「お嬢は厳しいなあ」
「そうは言うけど、余程の人じゃないと、これから起きる戦争は乗り切れないって」
「でもまだ戦争じゃないし、日本の政治の枠組みの中で事を進めるしかないよ」
「それはそうだけど……」
その通りだから、返す言葉もない。それに今まで日本が軍国主義にならないように色々と捻じ曲げてきたので、挙国一致内閣に向けて進んでいるというだけでも満足するべき状況だった。
だから軽くため息つくだけにして、戦略的転進を図ることにした。
「まあ、次の内閣の事は動き出してからで、今は昨日の社長会の事聞かせて」
「そういえば、その話だったね」
言い合っても床屋談義だし、まだ時期的に早くもあるので、お芳ちゃんも軽くとぼけて私に乗ってくれた。
ワーカホリック:
1970年代にアメリカのウェイン・オーツという作家が発行した「ワーカホリック 働き中毒患者の告白」という本で使用されたのが始まりと言われる。
この時代の日本は、まともな労働法すらないので、こんな言葉が生まれる余地はないかもしれない。




