640 「昭和14年度予算編成(1)」
「最新の経済成長率予測は17パーセントか」
「昨年度と同じ、という事になりますな」
時田が私のつぶやきに似た言葉に相槌を打ったけど、普通なら大いに喜ぶべき数字だ。
「国民所得は?」
「概算で約447億円。ドル換算では約160億ドル」
「去年は幾らだった?」
「約382億円。約65億円の増加という事になりますな」
お爺様の話を始める為の最初の質問に、時田が資料を見ずに諳んじる。そして時田が進行役であるように、貪狼司令がいない。別件で離れられない為だ。
その別件とは、ドイツがついにチェコスロバキアを解体して、飲み込み始めたからだった。
ズデーテン地方を失ってからのチェコスロバキア政府は国民からの信頼を失い、各地で民族運動が激しくなった。そして国のコントロールを失ってドイツに縋ったのが1月の事。
けど外道のナチス・ドイツ政府は、苛烈な交換条件を突きつけた。
仕方なくチェコスロバキアは要求に従ったのだけど、3月に入りドイツは一気に行動に出た。
3月13日にチェコスロバキアではなく、スロバキア自治政府のトップを呼んで独立宣言をさせて、その上でドイツが保護国化。
さらに同じ民族が住んでいる隣国も加わって、チェコスロバキアを啄んでいく。
そうしてボロボロになったチェコスロバキアは大統領がドイツに行ったけど、そこで恫喝されドイツ併合のサインをしたらしい。
そしてサインを待って、すでに国境に待機していたドイツ軍が、すかさずチェコ地域に進駐。さらに翌日にはスロバキアにも進駐し、チェコスロバキアという国は実質的に消滅した。
そうした情勢を受けての、来年度予算の鳳一族内での分析会だった。
そしてドイツがついに牙を剥いたので、私は日本経済と財政の好調ぶりを見ても、あまり機嫌は乗らなかった。
なにしろ、前世の記憶の中の歴史で、ドイツの無法な行動に英仏がついにブチ切れる。ただドイツは英仏を舐めきっているらしく、今度はポーランドやリトアニアの前の大戦で切り離された領土の割譲を求めるようになる。
けど、ドイツの空気読まない行動に、流石に欧州各国はドイツはヤバいと考え、各馬一斉にスタート状態で戦争準備、準戦時体制と財政に突入する。
そしてこの世界での日本は、親英米仏の外交スタンスだし、私も火に油を注いだ国民の反ドイツ感情がある。だから、日本も通常財政から準戦時、最低でも軍事費の大幅増額へと傾くと予測できた。
そして準戦時体制だと、戦争態勢に入るには半年や1年では足りない。最低2年、出来れば3年程度の準備期間がないと、総力戦という国家を挙げての戦争態勢には移行できない。
ドイツが勘違い、もしくはまだ行けると考えたのは、このあたりの事情があったからかもしれない。
何しろドイツは、ナチスが政権とってからずっと準戦時体制で軍備増強に勤しみ、他国に対して数馬身リード状態で軍備を整えていた。
今回の話し合い、それに政府や陸海軍内での議論も、今までの通常予算編成の前提が吹き飛ぶのではないかという話題で持ちきりだ。
予算審議自体も紛糾している。
それを踏まえてお爺様の言葉があった。
「とりあえず、今の所の予算案はどんな感じだ?」
「はい。資料の2枚目をご覧下さい」
時田が進行役だから、移動式の黒板に書き出されたりはしていない。
そしてガリ版刷りの資料には、毎年見ている数字が並んでいる。
昭和14年度予算 :約66億円(端数は数十万円単位から)
陸軍費 :約13億1000万円
海軍費 :約13億3000万円
(軍事費割合は約40%)
とても良い数字だ。それどころか、この5年ほどは良すぎる数字だ。私が10数億ドルのあぶく銭を設備投資や税金などで日本に注ぎ込んだ結果の、その集大成と言っても良い数字だ。
国家予算全体でも、5年前の昭和9年度予算の倍以上を示している。
この先も平穏が続くなら、無条件で大いに満足した事だろう。
一方で、やるだけやったとも感じていた。
この先、第二次世界大戦が待っているのは確定だから、アメリカと戦争せずとも、他の国、特にソ連に負けないだけの力を日本に付けさせた。
大陸での戦争もしていないし、『勝ったも同然』。あとは、風呂に入って結果を見るだけの簡単なお仕事だ。
「不満そうだな」
色々と心の中を取り繕ってみたけど、お爺様にはお見通しだった。
そしてそれが分かっていたから、こっちとしては開き直るより他ない。
「どうせすぐ、軍事費が大幅増額されるもの」
「まあ、そうだろうな。宇垣さんとは少し話したが、総辞職して民意を問うた上で挙国一致内閣という話も出ているそうだ」
「必要になるでしょうね。けど、首相は平沼様?」
「日本としては欧州で戦乱が起きた場合、今までドイツに抑えられていた露助が良からぬ事を企む前提で動かないといかん。だからソ連に強く出る人、もしくはアカ嫌いだから、無難な人選だろうな」
「有事だし、軍人の方がいいんだけどなあ」
「どこに適任者がいる? 少なくとも当面は露助相手だ。海軍出身はいかんぞ。しかも宇垣さんの後だ。息のかかった宇垣閥の連中じゃあ、周りが納得せん。かと言って、永田じゃあまだ早い」
「政友会、民政党共に首相になりたい方はいらしても、なれる奴は殆どおりますまい。ましてや挙国一致内閣です。
となると、政党以外の大物政治家しかおりません。何年か前なら近衛文麿もおりましたが、『二・二六事件』以後は政界に関わろうとすらしておられません」
「それにね、欧州情勢が戦時に向かって動き出すと言っても、ソビエト連邦はすぐに動くとは考えられない。だから、日本にとってはまだ戦時じゃないよ」
お爺様、時田、龍也叔父様のリレーで、理由を全部並べられてしまった。その言葉のリレーに淀みがないように、言った事は全員の共通認識だった。
そしてトドメに、隣に座るハルトに肩を軽く叩かれた。
だから私としては、降参のため小さく手を上げるしかない。
「よし、決まりだな。鳳は次の首相に平沼を推す。永田の出番が来たら、その時に推す。それでいいだろ。それとも、次の次の首相に誰かいるか?」
そう聞かれても、軍政家、軍官僚として永田鉄山ほどの適任者は他にいない。しかもオプションで、最強能吏の東條英機が付いてくるとなると尚更だ。
ただ、外交、政治の経験値が不足するように思えてしまう。
「軍の方だと、海軍の山梨勝之進様あたりでしょうか」
「山梨さんか。何度か軽く話した事はあるが、確かにできた御仁だ。『二・二六事件』の禊も済んだだろうし、経歴的にも確かにそろそろ首相の候補になっても良い頃合いではあるな」
「陸軍は満州での一件や『二・二六事件』もあるから、政治的にはあれからは海軍の方が上に来ても良いくらいでしょう。宇垣様が首相にならなければ、山梨様の目もあったと思うし」
「それは一理あるけど、鳳は海軍とは縁が深いとは言えない。陸海の双方で首相候補が出たら、海軍は推せないよ」
一応は推してみたけど、善吉大叔父さんの言葉が正論だった。だから軽く頷き返す。
「そうですね」
「そういう事だ。それにまだ先の話だし、そもそも話が逸れていたな」
「ですがご当主、今回は欧州情勢を鑑みた、先の予算について考えた方がよろしくはありませんか?」
龍也叔父様の言葉に、話を脱線させたお爺様も軽く頷き返す。
「そうするか。で、龍也は色々と知っているのか? 俺は宇垣さんらが、すでに大蔵大臣や次官連中と話をしているというとこまでしか知らんぞ」
「陸軍としては、まずは通常予算。早ければ数ヶ月後に、臨時予算と考えています。そして、とにかく機械化装備、重火力、航空隊の増強といったところを重点的に要求する予定です。ソ連を押さえつけないといけませんからね」
「金のかかる装備ばかりか。海軍はどうするか知っているか?」
「以前話した、次の海軍整備計画を提出するつもりですね。当座は、予想以上に増えた予算で、航空隊を追加で増強するようです。その点は陸軍も同様です」
「で、本命は、大盤振る舞いになるだろう追加予算か?」
「ですが、何故航空隊だけ? 陸軍なら戦車や他の装備もでしょうし、海軍なら大型の艦艇は建造に時間がかかるので、早く作りたいのでは?」
お爺様に続いたのはハルトだったけど、確かにその点は腑に落ちない。飛行機を大量に作るには、とびきり大きな工場が必要だけど、それは今の段階じゃない。それに、飛行機自体を作るのは、そこまで時間もかからない。単価でみても、戦車より飛行機の方がずっと安い。
けど、龍也叔父様の顔には、正解を伝えるべきだという表情が浮かんでいた。
「問題は人なんだよ。搭乗員を育てるのが、兵隊の中で一番手間暇がかかる。だから先にそっちを揃えようという点で、陸海軍の考えが一致しただけだ」
「先に人を育てる準備を進め、機材を後回しという事ですか。納得です。ですが、陸海軍共に大規模な追加予算が組まれるのは、既定路線だと考えているんですね」
「海軍は皮算用半分かもしれないが、今の陸軍の実務は玲子から色々と話を聞いているからね。随分前から内々に研究していたから、下準備は万全だよ」
ハルトに答えるけど私への言葉なので、相変わらずお兄様の言葉尻が柔らかくなる。
私が幼い頃からの癖に近いらしく、こうした時でも普通に出てきている。
それはともかく、追加予算についての話に進みそうだった。
昭和13年度予算 :約56億4000万円
陸軍費 :約11億1000万円
海軍費 :約11億4000万円
(軍事費割合は約40%)
※史実の1938年度の名目GDP:
国民所得 :267・9億円(約67億ドル)
経済成長率:14・3%
※史実は日中戦争による事実上の戦時財政下。国家予算は、本来なら20億円代でないといけないところが90億円近く。膨大な増税をした上に、公債発行額が40億円に達している。しかも数字は、年々激増する一方。敗戦まで下がる事はなかった。
この影響で一種の公共投資となり、名目上の国民所得は跳ね上がった。一方で、円を大量に刷ったので、対ドルレートは大幅下落している。1ドル=3・3円が4円くらいに一気に下落。その後も大幅な下落を続ける。




