638 「1939年正月の雑談」
1939年が明けた。
私にとっては、運命の1939年。
関東大震災のあった1923年9月1日にこの体に多分転生してきて、翌年の1924年9月1日に体の主との夢の中で約束した15年後のその日まで、あと丸8ヶ月。
今年の9月1日に私の運命は決する。
けど、焦りはない。手の届く範囲で、出来る事をして来た自負はある。そのせいか、心は落ち着いていた。
それに、恐らく事故で死んだであろうモブかそれ以下の前世で出来なかった、人並み以上の幸せも得られた。
一方で、もっと強引に権力や影響力を求めたり、より強引に歴史を捻じ曲げられたかもと思う事もある。
独裁者になる人、歴史に悪名を残す人を、無名のうちに何とか出来たかもしれないとすら思う事もあった。
けどそれは、選択や行動を間違うと破滅があるかもしれない。より多くの、自分や自分の周りの犠牲を伴いかねない。それに自己犠牲すらしないとダメな場合もある。
お爺様達、お芳ちゃんと話しても、出来るギリギリはしてきた。悔いはないとは言えないけど、一族と財閥の為にリスクは負えない。
一方で、万が一体の主との勝負に負けて悔いがあるとするなら、転生してからの家族、一族、それに近しい人達と今後も一緒にいられなくなる事だろう。
けどそれも、前世で死んだ後に神様なりがくれたボーナスと思えば、私の周りの人たちへのアフターケアさえしっかりしていたら、9月1日で終わりでもきっと納得はできる。
(けど、出来ればこのまま、穏やかな未来と生活が待っていますように)
今年の元旦は、親子4人で私が毎年している鳳の本邸の庭の片隅にある小さな社に初詣だ。
ハルトと双子ちゃんをそれぞれ抱きつつ、小さなお社にお祈りをする。このお社とも転生以来の付き合いだし、何とか願いを聞き届けて欲しいものだ。
「何をお願いしたんだい?」
「内緒。こういう事は、言わないものでしょう」
「それもそうか。でも僕は、家族と一族の平穏をお願いしたよ。会社は別のところで仕事始めの後にお参りするし、国に関しては他の人が僕の分もしてくれるだろうからね」
「私はここだけだから、全部お願いするかなあ。けど、あんまり具体的にお願いした事ないかも」
まだ参拝には早い双子ちゃんをあやしつつ、朝の寒い庭から本館へと歩く。そして入れ替わりにマイさん家族とすれ違って挨拶を交わし、本館に入るまでに別館からは龍也叔父様の家族、旧館からは玄二叔父さんの家族と出くわした。
何だかいつの間にか、最初は私とシズだけだった鳳の本邸の片隅にあるお社のお参りが、住んでいる人達の定番になっていた。
善吉大叔父さん達や時田ら使用人達も正月中にお参りするというから、あそこにお参りしないのはお爺様達くらいだろう。
「それで、今年は何があるんだった?」
正月だから人も少ないので、本館の一角の自分達のテリトリーを出て居間にいたら、何かを読んでいたお爺様が聞いてきた。
「日本が悪さしない限り、春までは何もないわよー」
お参りで冷えた体をお雑煮で温めながら、とりあえずそう返す。食事の間は双子ちゃんはメイドに見てもらっているから、部屋にはお爺様以外、ハルトと私しかいない。
「日本が悪さすれば?」
お爺様ではなく、もう粗方話しているハルトの質問。ただ、首を傾けてしまう。何しろ、夢、いや前世の歴史とは何もかもが違っている。
「うーん、夢だと日本と中華民国が戦争になって泥沼化しているけど、自分で言っておきながら日本が悪さする理由も原因もないのよね。ちょっと油断しそう」
「内戦の飛び火が怖いんじゃないのか? 大陸では兄弟達やうちの兵隊達が、アカを見つけたら潰しているが、あいつら幾らでも涌いてくるぞ」
「うん。そっちは徹底的によろしく。一人見たら三十人はいると思って」
「勿論だ。まあ、張作霖の勢力が広がって、張作霖の秘密警察もアカや蒋介石の秘密警察を潰しているから、随分楽になったがな」
「張作霖は、長沙より先に南昌に入って、蒋介石と共産党の分断を図っているとか」
「そうだ。共産党は誰にとっても敵だからな」
もうハルトも、色々と世の中の水面下にも関わっているから、お爺様ともこんな会話もするようになった。
「そういえば、周恩来とかの消息ってまだ分からないのよね」
「依然行方不明だな。だが、長沙で死体は見つからなかった。それに新しい頭を正式に決める会議が行われたって話が、まだ出てきていない。生きてりゃ、そこで顔を出すだろ」
「確か10年ほど先に、共産党が大陸を統一するんだったね」
「うん。毛沢東、周恩来、朱徳、劉少奇、この辺りがトップになるの。ただ、夢の中の共産党とは、10年くらい勢力拡大が遅れているし、ソ連の援助も十分受けられていないから、このまま上手く行っても夢より随分先だとは思うけどね」
「だが、その件で、一つ悪い知らせがあるぞ」
「えぇー、聞きたくない」
「まあ、聞け。張作霖がさらなる戦時増税をやりたがっている」
「総研や戦略研は、列強から無償支援や資金援助を引っ張り出す手段と見ているけどね」
戦時増税は、大陸での共産党政権成立フラグの一つだ。
前世の歴史の蒋介石とその一党は、紙幣乱造や無茶な増税で経済をボロボロにして民衆からの支持を失っている。
「内戦が泥沼化しつつあるから、焦っているの?」
「それもあるだろう。だが、大陸の権力者ってのは、上から下まで強欲だ。本当に底がない。国や民衆を人質に取るくらい朝飯前だ。ずる賢く、要領がよくても、文句も言われない。今までの張作霖が、優等生過ぎたくらいだしな」
「張作霖は、大陸で搾取するより列強から得られるものの方が大きかったから、大人しいってだけでしょう。日本政府は?」
「これ以上は過剰な搾取になるから、戦時増税には反対している。そして共産党を叩くなら、多少の無償援助もありって感じだ」
「多少ねえ。汪精衛は逃げ出して、蒋介石も風前の灯って見ているのね」
「そうだ。宇垣さんは蒋介石を甘く見ている。だが、日本が散財する案件でもない。甘くもなるんだろう」
「そうだけど……列強は?」
「防共協定って便利なものがあるおかげか、英米は日本の案には賛成している。フランスどころかイタリアですら、共産党を叩くなら賛成だ」
「みんな、大陸には大なり小なり利権があるからでしょうね。とりあえず、共産党を叩くのは良いと思うし、私も賛成」
「おう。大陸はそれで良いとして、他は? 春にはドイツが欲望むき出し、初夏から夏にソ連との大規模国境紛争、そして夏が終わると欧州で戦争だったか?」
「うん。欧州はどう?」
「チェコスロバキアは、政府が国民から失望されて、国内各地の民族運動が激しくなってる」
「ハァ。じゃあ夢の通りか……」
ため息交じりに言葉を吐き出す。
チェコスロバキアは、情報を見てみるとかなりの多民族国家だった。元がオーストリア=ハンガリー帝国の一部だった影響もあってか、チェコ人、スロバキア人、ドイツ人、ポーランド人、ウクライナ人、マジャール人 (ハンガリー)と、旧ユーゴスラビアもびっくりなモザイクだ。
チェコ人、スロバキア人が多数派だけど、ドイツ人問題のように地域ごとに他の民族比率が高くなる。ズデーテン危機は、そこを突かれた形だ。
そしてそれぞれ別の民族が多く住む地域は、ポーランドとハンガリーがミュンヘン会談から割譲しつつある。
この状況に、本来ならチェコスロバキア政府は英仏などを頼るのだけど、ミュンヘン会談では全ての国から見捨てられている。だから、頼るとなるとズデーテンを分捕ったドイツに頼まないといけないという、あまりにも悲惨な状態なのだそうだ。
「ねえ、何か良い話はないの? 正月よ」
「それはこっちが聞きたいくらいなんだがな」
「ない。今、日本が平和な事を喜びましょう」
「そうだね。あ、そうそう、多少良い話なら」
「何、ハルト?」
「まだ1季残っているけど、本年度の経済成長率は12%超えは確定だ。政府もだけど、うちの銀行でも15%は超えてくるだろうと。政府もその数字で予算を組んでいる」
「おーっ」
「大陸の内戦で儲けたからな」
「半分は日本の借款だから、そこは素直に喜べないけどね」
「公共投資と思って諦めろ。それにだ、お前の夢の通りならこの春、遅くとも初夏には準戦時予算になるんだろ?」
「うん。色々分析してもらっているけど、予測ではほぼ確定。あとは、粛清の終わったソ連と大きな国境紛争や戦争にならないのを祈るだけね」
「ドイツが戦争を始めるまでか?」
「とりあえずは」
「最終的には?」
お爺様とハルトが交互に聞いてきたので、私はこう結ぶ。それが、この9月1日を超えた先の、本当の最終目標だからだ。
「ドイツとソ連が、血みどろの戦争を始めるまでよ」
チェコスロバキア:
現在はチェコとスロバキアに分裂。第二次世界大戦後にこの地域で民族問題がないのは、旧東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアで、物凄い強引な民族強制移住か国境線の線引きをソ連が行なった影響(ドイツ人の多くは逃げた結果だが)。
15%は超えてくる:
当然名目所得。実質だと10%くらい。それでも大きな数字。




