636 「1938師走」
師走になったけど、今年の私は師走と縁遠かった。
一方11月は慌ただしかった世界情勢は、大陸とドイツは次の段階への入り口だけど、それでも12月に入る頃には小康状態。
特に、チェコスロバキア以外のヨーロッパは、「ミュンヘン会談の成功」で平和ムードにあふれている。
まあ、クリスマスと正月くらい、明るい気持ちで過ごせるのは良い事なのだろう。
もっとも前世の歴史通りなら、来年の春先にはドイツの暴走が止まらない事が世界中に晒され、各馬一斉にスタート状態で世界大戦に向けての準備が始まる。
日本を中心とする極東情勢とアメリカの内政以外で、これを否定する要因がもうどこにもない。
ドイツの動きが、日本に関わるもの以外は直進コース過ぎて、私的には歴史に対していっそ潔さすら感じてしまいそうになる。
まるで、断崖絶壁で途切れたレールに向けて爆走するトロッコを見るようだ。
日本に関する色々を捻じ曲げ、心底良かったと思わされる状態だ。
これが前世の歴史通りだと、日本は支那事変が泥沼化して世界のボッチなのだから、何もしていなかったらと考えると寒気すらする。
けど、それは違う世界の話。もしくは先の話。それに世界情勢の話。
私自身、そして私の周りは平穏だ。そして世界が騒がしくなるまでの、残りほんの少しを穏やかに過ごしてもバチは当たらないだろう。
「病院、どうだった?」
「3ヶ月。まあ、先月くらいから、そうじゃないかなあって思ってたけど」
「言ってたね。ともかく、ご懐妊おめでとうございます」
「はい。ありがとうございます」
そう言い合って、お互い軽く頭を下げる。
そしてお芳ちゃんとそうしているように、今日も暇な時間を見つつ軽くお仕事をこなす。何しろ通勤時間0分の立地だ。そして仕事の合間に、いつものように雑談に興じている。
こういう環境は、精神衛生上実にありがたく感じる。マイさんも同じらしく、ほぼ入れ替わりだけど仕事には顔を出している。
人間、気分転換は大切だ。
「それで予定日は?」
「来年6月くらい」
「じゃあ、今度は舞さんの方が先か」
「当たり前でしょ。まあ、誤差一月以内っぽいけど」
「そうだね。で、二人? それとも三人?」
「一人という選択肢はないの? なんにせよ、まだ分からないけど」
「それもそうか。……でもさ、余裕だね」
「そう見える?」
「見える」
「見えるかー。まあ、最初は誰でも緊張するって事ね」
「お嬢も人の子なんだって、こっちは安心するよ。それより、今後はどうするの?」
「仕事とか? 取り敢えず、クリスマスはみんなで騒ごう。子供達にも、クリスマスはしてあげたいし」
「いきなり仕事の話じゃないし」
「いいの、いいの。けどまあ、今後のスケジュールとかは、時田やセバスチャン、マイさん達とも相談だなあ。あと、正月は留袖着たい」
「4ヶ月なら、ギリギリ着物は着れそうだね。でも来年も、社長会と鳳の懇親会は欠席?」
「社長会は、もう私が出なくてもいいかって思うけど、5月のパーティーは顔くらい出したいかなあ……なに?」
「それくらいまでは平和って事?」
そう聞かれて、腕組みして悩んでしまう。
答えるには歴史が捻じ曲がり過ぎている。
「夢の通りならね。いつも話している通りよ。来年春にドイツの膨張が止まらないのが分かって、世界中が戦争準備に入る。初夏から夏にかけては、日本はソ連と大規模な国境紛争。その終わりくらいに、ドイツとソ連が不可侵条約結んで、世界中が大混乱。そして東欧の命運が決まったと分かったと同時に、空気読めないドイツが世界大戦の扉を開く、って感じね」
「いつ聞いても怒涛の展開だね。お嬢の夢と違って日本が大陸で戦争してないから、それだけでも随分違うけど」
「そうよね。ただなあ、ソ連との国境紛争の原因が、私の夢にはあってもこの世界にはないのよねー。どうなるんだろ?」
「どうと言われても。満州を独立させた時、関東軍が強引に国境線を引くのが遠因だっけ。でも、中華民国とソ連の国境問題って、アムール川流域で何ヶ所かあるでしょ。実際、ソ連が国境侵犯とかしょっ中してるし、今年の夏も危なかったんでしょ」
「まあねえ。ソ連、というかロシア、というか大陸国家は、平時なら強い力を見せて脅せば、大抵は一線越えないから扱いやすいけどね」
「そうしなかったミュンヘン会談はクソって?」
「そこまでは言わないけど、ツケの大きさを先に見た身としては、ギリシャ神話の逸話を思い出すわね」
「ギリシャ神話? トロイア戦争の話で、信じてもらえない預言者がいたっけ」
「よくご存知で。もっとも私は、口にした事を周りには信じてもらえるから、神話の人とは全然違うけどね。それでも、もう少し何かできたんじゃないかって、悪い事件が起きる度に考えさせられるわね」
「人って、自分にとって都合の良い事、見たい事しか信じないからね。そういう意味では、確かにお嬢は恵まれていると思うよ」
「うん。それは実感してる。高祖母麟様のおかげね」
「それもあるけど、鳳の人、仕えている人は客観主義、現実主義だから、起こりうる可能性が悪い事でも冷静に受け止めるんだと思うよ。夢見を予言や予知じゃなくて、警告や戒めって考えるんじゃないかな」
「なるほどねー。そういう視点は無かったかも。お芳ちゃんも?」
予想外の言葉に内心感じ入りつつも、平静を装って私の側近中の側近に視線を向ける。
「私は、お嬢と一蓮托生だからね。お嬢が白といえば白。黒といえば黒。白を黒くする為、粉骨砕身するのが我が役目なれば」
そう言って、座りながら恭しげに一礼する。もちろん演技なのはまる分かりなので、こっちも態とらしく応えるのがお約束ってやつだ。
「分かっていれば良い。これからも、我が野望の為、尽くすが良い」
そんなやり取りがあった数日後の12月20日、広州政府の汪精衛(汪兆銘)が広州を脱出。仏領インドシナのハノイに姿を現した。
彼の目的は、大陸での戦乱の収束。できれば終息。
当初の戦いで勝てなかった以後、汪精衛がずっと唱えていた事だ。けど周りは、覚悟ガンギマリの徹底抗戦論者ばかり。
武漢での戦いに負けて、長沙で蒋介石が大火事を起こして共産党幹部を一網打尽にし損ねた上に、共同責任にさせられたので、我慢の限界を超えたらしい。
そしてそのさらに2日後、中華民国の首都北京で張作霖が新たな声明を発表した。
「なんでクリスマスから年末年始くらい、穏やかに過ごせないのよ」
報告を目にして、愚痴の一つも言いたくなる。
もしかしたら、歴史通りだったり何かの因果があるのかもしれない。けど、こうも事件ばかりだと、たまに迷惑に思えてしまう。
そしてそんな私を、ちょうど居間だったので同席していたお爺様達が笑う。
「大陸は今でも旧暦だから関係ないだろ」
「ですな。で、玲子奥様の夢にはない情景なので?」
「今の大陸内戦自体の夢を見てないとなると、そうでないと逆に困惑させられるがな」
「ですが、今までの事例から考えると、類似もしくは近似値を求められる事例があるやも。如何でしょうか、奥様」
お爺様の軽口の後、時田、お爺様、セバスチャンの順で聞いてくる。
子供を妊娠してからの私は、二階の自分たちのテリトリーに篭っている事が多く、中に入る大人の男性はそれぞれの旦那が大半だから、たまにこうした機会を設けるようにしている。
そして知らせを受けて来てみれば、汪精衛の亡命に続いての張作霖の新たな声明の発表だった。
そしてセバスチャンの言葉に、歴女知識をフル稼働させる。
(ヒットするとしたら、『近衛声明』のどれかってとこかな。確か汪精衛の亡命は同じようにあったから、多分これがこの世界での似たような事件になるのよね)
「汪精衛の脱出事件は、夢の中でもあったと思う。それで、新しい声明の内容って?」
目線を向けるとセバスチャンが軽くおどける。
「おっと、これは失礼を。中華民国主席の張作霖は、広州臨時政府の自治を尊重しつつの中華民国への合流。軍の進駐、経済提携の実施。そして此れを以て和解とすると発表しました」
「それだけ聞くと、満州臨時政府に近い立ち位置を保証するみたいに聞こえるわね。残った広州政府は?」
「広州臨時政府の総理だった李宗仁は、地元の広西に引き揚げました。もともと 広西軍閥のトップで軍人ですので、死に体となった広州政府に見切りをつけ、防備を固めたと考えられます。
また、広州軍閥や国民党左派など汪精衛に付いていた連中の多くも、ハノイに脱出しました。これで広州政府は、主席と総理が不在となります」
「そして中華民国軍は、後背が混乱した長沙の蒋介石軍を討って、そのまま南下して広州まで進むって事になるの?」
「確実に狙ってくるかと。現地では、既に中華民国軍の動きが見られます」
「それが成功したら、蒋介石と共産党は東西に分断。蒋介石は独自に動くようになった広西軍閥にも対抗しないといけなくなる? これって、蒋介石は今度こそ詰みじゃない?」
「南は広西軍閥、西に雲南軍閥、北に張作霖側についた四川軍閥だから、張作霖の目論見通り進めば四面楚歌だな。確か貴州は楚の領土でもあった筈だし、皮肉が効いてて良いじゃないか」
お爺様がそんな風に結んでカラカラと笑うけど、時田と私が生暖かい目で見る。何しろ色々間違っている。
けど、文句を言うほどの事でもないから、そのままスルーした。
けどお爺様の話には続きがあった。
「もっとも、今の張作霖は金と物資が尽きているから、実際侵攻での分断ではなく、政治で解決する方向だろうがな」
つまり今回の汪精衛脱出は多分に政治的で、四面楚歌になるぞと蒋介石に揺さぶりをかけて内戦終結を狙うという事らしい。
けど私には、大陸での戦いが武力以外で決着が付くとは思っていなかった。それはあの大陸での数千年の歴史が、例えに出した春秋戦国時代が、これ以上ないくらい示している。
だから、結局ため息や愚痴になってしまう。
「日本が当事者じゃないなら、もう何でもいいわ。とりあえず、穏やかにクリスマスと年末年始が過ごしたいわね」
『近衛声明』:
史実の日中戦争において、近衛文麿首相が発表した対中国政策関連の声明。3回あって、3回目は近衛三原則とも呼ばれる。
どれも、「外交って知ってる?」と問いたくなる内容ばかり。
ただし一部には、共産党スパイの尾崎秀実が関わっていたとも言われる。
四面楚歌:
四面楚歌の舞台となった垓下は、奥地ではなく大陸平原の真ん中あたり。徐州が近い。
内陸の貴州(の一部)に楚の領土が広がったのは時代は違う。
なお、貴州の中心都市貴陽だが、中国共産党の「長征」の途中に行われた遵義会議(※毛沢東が共産党の事実上のトップに決まった会議)の舞台となった遵義が貴陽の北部にある。




