634 「海軍拡張談合?」
アメリカ中間選挙の結果、アメリカではルーズベルト政権がレームダックの声一色となった。
そのお陰で、ルーズベルト政権の日本への嫌味、嫌がらせ、難癖、その他諸々は当分なさそうだ。
しかも政権内や様々な省庁では、内輪揉めが激しさを増したと聞こえてきている。
ルーズベルト政権の勢いが落ちたので、さらなるアカ狩りを進めて人気回復を図ろうという動きと、表向きはニューディール政策をより強く進めるべきだというアカな人達の争いだ。
とにかく向こう2年、アメリカ政府の動きが鈍り続けそうなイメージが強い。
外交面では、確か前世の歴史であった日米の海軍拡張競争は、今のところは起きていない。
ただし、理由は日本が大人しいからではなかった。
トリアがくれた手紙だと、海軍拡張に奔走しているカール・ヴィンソン下院議員らが精力的に推していた、1938年5月に通常予算とは別枠の海軍拡張計画が一部差し戻しになった。
この「第二次ヴィンソン案」とも呼ばれる拡張は、日本とも関わりがある。というのも、第二次ロンドン海軍軍縮条約のエスカレーター条項採用で日本が戦艦2隻、航空母艦2隻の追加建造を決めた事に対抗するという向きもあったからだ。
国家間の対立がなくとも、相手に軍備を合わせるのがセオリーだからだ。
それにしては、「第二次ヴィンソン案」は大きな計画だった。
戦艦3隻や空母1隻の追加はともかく、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など総数69隻、総計40万トンに及ぶ艦艇の建造、航空機950機(累計第1線機3000機)の整備を計画していた。
増強度合いは従来のプラス25%で、海軍力の整備ではなく海軍拡張で間違いないものだった。
しかもアメリカは、通常予算でも海軍の新規艦艇を相当数計画しているので、「第二次ヴィンソン案」が通った時点での1937年以後の新規計画数は、戦艦6隻、空母3隻、その他諸々多数になる。
当然ながら日本より多い。
ドイツやソ連に対する計画とすれば大規模な計画なので、日本政府がアメリカ政府に強めの姿勢で説明を求めたほどだ。
何せ、アメリカ海軍の敵となれるだけの海軍は、日本とイギリスしかない。
そして日本の求めに対してアメリカ政府は、昨今の国際情勢を鑑みてという在り来たりな返答しかせず、日本政府、特に海軍をヤキモキさせていた。
けどここで、日本がさらに大きな海軍整備計画を発動させると、バッドフラグが成立してしまう。
海軍拡張といえば、第一次世界大戦のイギリスとドイツの競争が典型的で、戦争の大きな要因の一つとなった。だから、艦隊拡張だけでも日米対立は避けて欲しい。
幸いな事に、日本は1939年度計画を練る段階で止まっていると聞いていた。アメリカもそうだけど、日本海軍にも注意しないといけないだろう。
そう思っていた矢先の事だった。
「は? 日米海軍が協力して軍拡? 何が起きたの?」
「正確には日米海軍の海軍拡張ではなく、政治家を含めた海軍整備派閥とでもいうべき者達が、軍縮会議の頃から水面下で動いていた様です」
11月も終わりの頃、子育ての合間を縫って鳳ビルの地下へと行った。
そしてその帰り、鳳ホテルかその近くで簡単な買い物をするのが小さな楽しみとなっている昨今、鳳ビルの地下の一室で、この10年ほど似たようなシチュエーションの報告を貪狼司令から受けていた。
同席しているのは、貪狼司令の副官格の涼太さん。出世したというけど、他にこのポジションになりたい人がいないので、今も似たような事をしている。
そして軍事の話なのと、土曜の午後という事もあり、龍也叔父様が軍服姿のまま来ていた。
あとは、お芳ちゃんと護衛を含めた側近達がいるだけ。今のメイド当番も、リズは外れている。
マイさんは子育てローテになってから一緒の仕事は少なく、今回もいない。私の執事達は、土曜午後でも仕事中。去年の秋くらいから私の仕事量が減ったので、私の分も仕事を頑張ってくれている。
そんな状況で取り敢えず何か知ってそうな龍也叔父様に顔ごと視線を向けると、訳知り顔の小さな苦笑が待っていた。
「もしかして、日本陸軍が原因なのですか?」
「原因の一つではあるね。陸軍は大陸情勢の変化に対応するという名目で、予備費の一部で装備の購入を増やしたのは知っているね」
「軍事顧問団の派兵に際して、満州の兵力補填の為ですね。……それで海軍も追加で軍艦が欲しくなったのですか?」
「まあ陸軍に関しては、陸軍が優遇されたのでより欲しくなった、という程度だろうね。原因で言えば、日本が今年1月から追加で戦艦と空母を作り始め、アメリカが「第二次ヴィンソン案」を通した事になるだろう。
ただ軍縮会議の時点で、制限し過ぎて反発が起き、外交状況を無視した拡張競争になる可能性がある。それならば情勢の逼迫を理由に歩調を合わせてはどうか、というのが発端だね」
「机上の空論に聞こえますね」
「全くだね。でも日本は、来年度予算で次の海軍整備計画を1年前倒しで始動させ、アメリカも39年度予算で大きな枠の獲得を目指すのが当面の目標としている」
それに一体幾らかかるのかとか、大型艦を作る建造施設の状況か計画は実行可能なのかとか、取り敢えず思い付く事を頭の片隅に置きつつも、まず聞きたい事があった。
「その企みが露見したのが、つい最近という事ですね」
「そうなるね。日米の関係者も、軍縮条約が履行されているかなどで互いに往復しているし、他にも理由をつけて会っていたが、それのかなりが」
「海軍の拡張とは言わないまでも、溜まりに溜まった旧式の船を、早期に新型に置き換えられるか話し合っていたわけですね」
「そういう事だ」
「12月には来年度予算の審議が始まるので、ようやく表に出てきたというのが現状になります」
貪狼司令の付け足しで、なぜこの時期なのかと合点もいった。
けど納得出来ない事も、まだまだある。
「聞きたい事がまだあるようだね」
龍也叔父様にもお見通しらしい。だから「みんな、聞いていいって」と促す。
そうすると、黙って聞いていたお芳ちゃん、銭司、福稲が反応を示した。基本、お芳ちゃん以外は側近といっても秘書の立ち位置になるから、普通は横から口を挟む事をしない為だ。
「日本海軍の計画が1年前倒しという事は、実質第三次海軍軍備補充計画の1年圧縮でしょうか?」
「第四次計画を1年重ねる形だろうが、実質的にはそうとも言えるな」
「1年前倒しとなっても、建造施設の空きがないのではありませんか?」
「それは俺も気になった。だから、うちの播磨造船や他をそれとなく当たってみると、近年建造施設の新設と新規機械の大幅導入、新たな建造技術の導入により、建造速度が大幅に向上していると分かった。その辺りは、玲子のお陰だね。そして海軍は、日本の建造技術向上に乗っかったとも言える」
いつになっても、私に対する時は龍也叔父様の口調が柔らかくなる。
それはともかく、銭司、福稲の疑問は私も思っていた事だ。けどまだ他にもあるので、お芳ちゃんに視線を向けると小さく頷く。
「余程の予算を獲得しないと、新計画は形だけの開始になりますよね。政府と大蔵省に対して、海軍に勝算はあるのでしょうか?」
「まさか、アメリカ海軍の軍拡を理由にしないわよね。それじゃあ、八百長試合じゃない」
私が付け加えると、龍也叔父様が少し大きめの苦笑を返してきた。
マジらしい。
けど、日本が戦時もしくは準戦時にならないと、この無理筋は通らない。日米関係を考えれば、アメリカの軍拡も決定打とは言えない。
しかもこの場合、日本が先に軍拡計画を発表した後に、アメリカが通年の予算か追加の予算で計画を発表する形になる。
日米の海軍共演の出来レースだとしても、アメリカ市民、そして場合によってはルーズベルトが切れる。しかもルーズベルトの場合、自分も出来レースに一枚噛んでいても、わざと切れる可能性すら捨てきれない。
「龍也叔父様、海軍は欧州情勢か大陸情勢が抜き差しならない事態になる、と予測しているのでしょうか?」
「なって欲しいとは心底思ってそうだね。だからだろうけど、ミュンヘン会談ではかなり焦っていたみたいだ。そしてどうも、チェコの問題を騒ぎ始めた今年の春頃から、海軍は水面下で計画を大きく進め始めたらしい」
「あぁ」思わず口からため息が漏れてしまう。
ズデーテン問題やミュンヘン会談で海軍がアンテナを張り、そして何やら騒いでいるという報告は聞いていた。けど、そういう真相があったわけだ。
そして海軍も、安易な軍拡でアメリカを怒らせる可能性を進んでしようと思っていないと分かり、ほんの少しだけ安堵もする。
だから念のため、別の疑問を聞くことにした。
カール・ヴィンソン:
原子力空母の名前ではない。その由来となったアメリカの政治家。海軍力増強に尽力した。その功績を称えて、空母の名前に採用されている。
第二次世界大戦前の大規模な海軍拡張と、戦後の原子力空母エンタープライズの建造などに深く関わった。
アメリカ海軍が足を向けて眠れない人。
「第二次ヴィンソン案」:
計画自体は史実も同じ。
サウスダコタ級戦艦3隻、空母エセックス、クリーブランド級軽巡洋艦4隻などを計画。
なお、アメリカの国家規模、予算規模を考えたら微々たるもの。日本の計画の方が、余程常識外れである。




