629 「ミュンヘン会談と日常」
9月初旬。欧州では、ちょび髭の総統閣下がチェコスロバキアをディスる演説でボルテージを上げていた。
隣の大陸では内戦が再び活発化して、「武漢会戦」とでも呼ぶべき戦いが始まりつつある。そこには、軍事顧問団という肩書きの日本軍も加わっている。主なお相手は、志願兵という建前のソ連軍。
けど日本列島は平和だ。しかも大陸の戦争特需に沸いている。
そして私の周りは、穏やかさに包まれていた。
赤ちゃん達はもう5ヶ月から6ヶ月目だから、夜も少しゆとりが持てるようになっている。
(この子達の弟妹は来年初夏辺りを狙うとすると、そろそろ頑張らないといけないのか。それに来年9月1日までに、出来れば産んでおきたいなあ)
大きめのベビーベッドで二人仲良く眠る双子ちゃんの顔を見つつ、そんな事をぼんやりと思う。
最悪を想定すると、この子たちに私が残せるのは兄弟姉妹くらいになってしまう。
「どうかした?」
「うん。そろそろ次の子かなあって」
一緒に双子ちゃんを覗き込んでいたハルトが、少し私の方に顔を向ける気配がするけど、私は双子ちゃん達を見たまま呟く。
するとハルトも、再び双子ちゃんへと向く。
「十月十日だと、そんな時期か」
「40週先で初夏となるとね」
(そういえば、ほぼ3シーズンと思えば分かりやすいのか)
口にしつつ、不意にそんな事を思う。
けど、隣のハルトさんは苦笑ぎみだ。
「精力付けて頑張るかと言っても、普段と大して変わらない気がするなあ」
「あ。アハハハハハ」
言葉を聞いた私も、自分自身に少し呆れてしまう。ごまかし笑いも今更だ。それにどうせ、今この部屋に赤ちゃん達以外は私達しかいない。
だからこそ、こんな会話もしているわけだ。
「まあ、僕らはそれでいいとして、舞達は何か言ってた?」
「聞いてないんですか?」そんな言葉を返しつつ、眠りについた赤ちゃん達の部屋を離れた。
世の中がどうだろうと、何でもない日々は流れていくらしい。
そうして9月も私の周りは穏やかに過ぎていたけど、ついに始まった。
世に言う「ズデーテン危機」だ。
9月の中旬にドイツが強硬な姿勢を示し、チェコスロバキアは非常事態を宣言。そんな状態を憂慮した英仏が遂に動き、15日には最初の英独首脳会談が行われた。
そして英仏で歩調を合わせ、22日に再び英独首脳会談を実施。欧米世界は、固唾を飲んで戦争か平和かを決める交渉を見守った。
けれども、日々は淡々と流れていく。赤ちゃん達は日々成長しているし、人の営みは続けていかないといけない。
そうして秋分の日の少し前、シズの結婚があった。
シズは、私が5歳の頃から側にいてくれた女中、もといメイド。私よりちょうど10歳年長だからもう20代も後半で、この時代だと行き遅れの行かず後家一歩手前の年だ。
けど、見た目が老けないタイプだし、栄養も取らせているし、鍛錬も欠かしてないから十分に若々しく見える。10代はちょっと無理があるけど、5歳は若く見えた。
私的には、21世紀の女性と同じくらい。
というか、この時代の普通の人は老けるのが早すぎる。
それはともかく、お相手はこの時代としては順当な年下の人。
私が探すとは言ったけど、接する人が限られているので信頼できる人に頼むより他ない。なにせ私が接する人は、シズとは身分が違うか、年齢が違う人ばかり。
八神のおっちゃんに「相手がいないのなら」と少し真面目に聞いた事もあったけど、「一夜を共にするだけなら大歓迎だが、使用人のことを考えてやれ」と本気で怒られただけだった。
見つけてくれたのは、時田と妻であり私の最初のメイドでもある麻里だ。この二人は、シズにとっても第二の親とも言える人で、今回は仲人という事にもなる。
ただしシズは、結婚しても妊娠と出産すぐ以外、そのまま私に仕えたいと頑固なので、それに沿ったお相手となったと聞いた。
シズと同じような境遇で鳳一族に仕えていて、警備方面じゃないけど私とも多少関わりのある人だった。
家令の芳賀の下に就いている法務関係の人で、鳳の表側で縁の下の力持ちになるポジションだ。時田と麻里の、逆の立ち位置のような人になるのだろう。そしてゆくゆくは、家令の芳賀の立ち位置に立つ人になる可能性が高い。
その辺りも考えての事なのだろう。
外見その他は平凡だけど、時田と麻里が選んだのなら人柄やその他諸々は合格点なんだろう。
見た目と雰囲気は温厚そうな人だ。
今後は、私との関係も深まる筈だ。
式の方は、シズもお相手も身分相応でお願いするとか言われたけど、私にとってのシズは特別だからそれは許さなかった。他に身寄りがないから、披露宴は鳳の本邸で身内だけのささやかなものになったけど、式は明治神宮でしっかり挙げさせた。
それに鳳に仕える者を疎かにしたとあっては、家のメンツにも関わる。だから白無垢から何から、過剰にならない程度に良いもので送り出した。
もっともシズは、終始いつも通りだった。
私とのやり取りも淡々としていたので、こっちも涙ぐんだりもしなかった。
「それではリズ、しばしの間奥様をお願い致します」
「お任せをシズ様」
わざわざ私の前で、そんな事までしてから、新婚旅行に旅立って行った。私の前で冷や汗気味な旦那さんの方が、大丈夫かと心配になりそうだ。
そして今後は、しばらく外でウロつかない私に合わせて子作りの予定だから、第一線からは外れる事になる。そしてリズと言葉を交わしたように、しばらくはリズが私のメイド頭となる。
そうしてシズを、おそらく私以外との初めての旅に送り出した私だけど、相変わらず子育てしつつ、合間を見て仕事をする毎日を過ごしていた。
拘束される時間やタイミングの違いはあるけど、学校と習い事をしていた頃を少し思い出す。
けど、感傷ばかりに浸ってもいられない。
ヨーロッパでは、9月下旬に入るといよいよ欧州列強オールスター状態でヒトラーの戦争を止める動きが活発化していた。
前世の歴史上では「ミュンヘン会談」と呼ばれていたけど、それは最後の会談の場がミュンヘンなだけで、主に英仏独が様々な場所で会談を重ねた。
「戦争か平和か」。
欧州世界は揺れ動き続けた。
今も前世の21世紀も、この時期のヨーロッパでの出来事に日本人はやや鈍感だけど、ライブで情報を収集していると日本にいても十分以上にヨーロッパの緊張感は伝わってくる。
ただし、最初から最後まで私が出来る事は無かった。
一方で、前世の歴史を知っている身としては、ただの茶番にしか見えない。おかげで、何度か人前で失笑しそうになった。
現状でドイツがソ連の盾であると欧州世界が認識している以上、私がこの先にある「独ソ不可侵条約」の可能性を言ったところで、すごく低い可能性、戯言でしかない。
そして世界は、1年先の不可侵条約や戦乱の幕開けよりも、今の「戦争か平和か」とソ連の動きを抑える事が最重要課題だった。
加えて欧州世界は、先の世界大戦の記憶が色濃く残っているので、戦争自体を強く忌避していた。
かくして欧州世界は、自分達だけで大いに盛り上がる。
9月29日からイタリアのベニート・ムッソリーニ首相が仲介に入り、イギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、ドイツのヒトラー総統がミュンヘンに集まり、チェコスロバキアのズデーテン地方の帰属を巡り会談が行われた。
会談は日付を超える30日まで行われたけど、当面のかりそめに過ぎない列強間の平和と引き換えに、東欧の小国チェコスロバキアは英仏から見放された。
そして戦争回避した事に、欧州各国の市民はそれぞれの国の首相達に惜しみない賞賛と喝采を送った。
国民から英雄として帰国を迎えられた首相もいたくらいだ。
そして全てが本気なのだから、内心でため息をつき、頭を抱えてしまう。
「また、お前の夢のお告げの通りになったな」
「次はポーランドだったね」
お爺様と龍也叔父様の言葉に、私は強く頷く。
本館の豪華な居間で、他に善吉大叔父さん、時田、それにハルトもいた。
鳳一族の最高会議、というより安全保障会議の場だ。
ハルトが加わったのは、私と結婚してからで龍也叔父様と共に次代の鳳と認められた証だった。
「ポーランドは来年の春から。チェコの残りをドイツが飲み込んだら、似たような恫喝外交を始めて9月には開戦。だから、来年春の時点で日本も軍拡に舵を切らないと、出遅れるでしょうね」
「玲子奥様、何か策はございますか?」
去年の夏から私への呼び方が変わった時田が、周りを代表して問うてくる。夢見の巫女としての言葉を言えという事で、今まで散々してきた事だ。
「ドイツの危険性の警鐘を鳴らして、政府には英仏との連携を一層強めてもらう」
「軍拡はいいんだね? グループはその方向で動いてはいるけれど」
「はい。今の所は、大陸の戦争特需に乗っていると見られても構わないので、進められるだけ進めておいて下さい」
「ドイツどころかチェコからも、最後の買い物をするんだから、玲子さんは肝が太いよ」
「それをしてくれる善吉大叔父さんもね」
すっかり頭が薄くなった善吉大叔父さんだけど、その分だけ昔より大財閥のトップとしての貫禄は増している。もう60代後半に入っているけど、まだハルトの出番ではなさそうだ。
そのハルトは、この集まりではまだ勉強中ってところだから、滅多に発言はしない。後で私との間にレクチャーや質問があるけど、それは後の話。
だからハルトには一瞥しただけで、私の用がある龍也叔父様へと顔を向ける。
「龍也叔父様。来年春には大佐に昇進されるのですよね」
「順調に行けばね。そして恐らくは、1年以内にどこかの連隊長だ」
「それじゃあ、俺の貴族院議員が終われば伯爵の位をくれてやる。そしてその噂を流す。それで近衛の連隊長は確定だ。いいな、皆も」
それに全員が無言で頷き返す。すでに決めていた事ではあるけど、これで確定だ。そして龍也叔父様とその一家は、伯爵位を継ぐために、紙の上では本家の人間となる。
「謹んでお受けします。ただ、俺の次も決めておいて下さい。長々と面倒は御免です」
「龍一で良いんじゃないのか? その後に麟太郎だろ」
「ですが、血統上での分家筋が二代続くのは如何かと」
龍也叔父様より、時田が異を唱えた。
龍一くん自身も前にそんな事を言っていたけど、当人達が良くても周りがどう考えるのかを気にするのは当然だ。
「とはいえ晴虎は、善吉の後釜だ。両方はしんどいだろ。それに、生まれたばかりの麟太郎では先すぎる」
「では、龍也様の血筋以外の本家の者と定められては?」
時田の再びの発言に、他の者もその辺が妥協点だろうという表情や態度を取る。そしてそれを確認して、お爺様が口を開いた。
「そんなとこだな。だがまあ、お前の後は俺がくたばってから決めてくれ」
「分かりました。好きにさせて頂きます」
「おう。それが当主の特権だ。じゃあ今日はこれでお開きでいいな」
もはやチェコの命運が話題にならないまま、鳳一族の最高会議は終わった。
一国の命運と滅亡も、距離が遠いとその程度の事になってしまう。それが、これからの時代という事なのだろう。
そして10月に入るとドイツ軍がズデーテンへと進駐し、チェコスロバキアの解体が始まった。




