627 「戦争はまだ先」
お盆休みに入った。
赤ちゃんのいるそれぞれの親達は、ずっとお盆を鳳の本邸で過ごすので、この夏の鳳の本邸の人口密度は珍しく高かった。
私は、21世紀の感覚で赤ちゃん達の情操教育も兼ね、軽井沢か湘南海岸への避暑くらい行ってはどうかと思ったけど、全員から反対された。短くとも、赤子に旅はまだ早い、と。
一方で私と同世代の子供達は、お盆前はそれぞれの家族で避暑か旅行に出かけた。
だから夏休みになると、本館に頻繁に来ていた同世代の男子達もしばらく顔を見ることもないだろう。
ひいおじいちゃんになったお爺様も、お祖母様と連れ立って熱海に避暑に出ていた。
また、マイさん達は涼太さんのご両親やご家族は、今までも何度かお呼びしたけど、普通のリーマン家庭にとってこの鳳の本邸は魔王の城も同然。来ること自体が、罰ゲームに等しいプレッシャーだ。だから、鳳のホテルで数日過ごす。
つまり、私達以外はいつもの夏休みだ。
その代わり、ベルタさんと紅輝くんがいるから、紅龍先生一家が滞在していた。
「ベルタさんと紅輝くんのおかげで、紅龍先生ともなんだか頻繁に顔を合わせているわね。小さな頃みたい」
「随分前の話だが、確かにそうだな。あの頃の玲子はこんなに小さかったのに、月日の流れは早いものだ」
「紅龍先生は、あんまり変わってないわね。それで、わざわざ二人きりになって、何の話? 子供の頃みたいなお薬の話はもうないわよ」
少し懐かしさを感じる話始めとなったけど、紅龍先生の目が二人きりになった最初から真剣だったので、雑談は早々に切り上げた。
そして私の配慮を受けて、紅龍先生も少し居住まいを正す。
「そんなに真剣な話なの?」
「陛下からのお話だからな」
そう言われてしまうと、こっちも居住まいを正さざるを得ない。それが、この時代の日本人というものだ。
「お伺いしましょう」
「いや、そこまで畏まらなくて大丈夫だ。ちょっとした雑談上の、お言葉でしかないからな」
「慣れている紅龍先生と違って、こっちはそうじゃないのよ」
「陛下には親しくして頂いているが、慣れるような事ではないし、慣れてもいけない事だ。まあ、それはいい。それよりもだ、陛下が昨今の情勢を気にされていてな。何か聞かれた時に、良い話を出来ないものかと思っただけだ」
「戦略研の話は?」
「御進講の中で、陛下が望まれたのでお話しした。鈴木様らには随分と怒られたがな。だが、おかげで政府も本腰を入れ始めただろ。ただあれは、研究というだけだ」
「それなら総研の資料を見れば? 紅龍先生なら、相当ヤバいところまで閲覧できるでしょう」
「それはもう読んだ。ロクでもない話ばかりでウンザリさせられた。まるで地獄の底を覗くようだったぞ。陛下も概要は既にご存知だ。だからだ、多少は明るい話が欲しいと思ったのだ。陛下の憂うるお顔など見たくはないからな」
「そりゃあそうだろうけど」
そうは返すけど、(すっかり忠臣になってるなー)と少し不謹慎にも思ってしまう。ファンタジーとかなら、皇室筆頭医とかの役回りのキャラみたいだ。
「そりゃあそう、ではない。何かないのか?」
「何かって言われてもなあ。近いうち? 数年先? それとももっと先?」
「どのくらいの先まで分かるのだ? 小さな頃は、21世紀とよく言っていたが」
「2010年代くらいまでなら。けど、夢からは随分違う状況になっているから、単なる夢物語になりそうだけどね」
「それもそうか。まあ、知識や技術でないなら、遠い先の話はいい。陛下は、常に日本の事、日本の民の事をお考えだ。この先、日本は安寧でいられるのか?」
そう真剣に聞かれても、私の前世の歴史から随分と捻じ曲がった状況だから、正直なところこっちが聞きたいくらいだ。だから戦略研なんてものまで作った。
けど、そんな愚痴を紅龍先生に言っても仕方ないし、色々と日本を引っ掻き回してきた責任というものもあると思い直す。
「明るい話と言われても、これからは確実に戦乱の時代に入るわよ。それはもう、どうにもならないから」
「そんな事は、言われずとも分かっている。だからこそ、なのだ」
「それじゃあ、日本がアメリカと全面戦争にならない限り、日本が戦争に負ける可能性は凄く低いってのは? その為に色々としてきたし」
「それも、今まで断片的に聞いてきた話だな。色々してきた玲子には頭が下がるし、深く感謝もしている。それにしても、アメリカとの戦争とは、考えただけでもゾッとせんな」
「小さい頃は、それ以前に鳳の家と財閥の事で頭がいっぱいだったけどね」
「玲子はそうだったな。私は自分の事だけで頭が一杯だった」
紅龍先生とは付き合いも古いから、思わず遠い日に想いを馳せてしまう。けどそれも、少しだけ。
ただ、紅龍先生は、小さくため息をついた。
「それにしても、国の命運なんてものは、人一人が背負うには重すぎるというものだ。それは陛下を見ていて痛感させられる。だが、現状から考えれば、アメリカとの戦争の可能性などあるまい。今のルーズベルト政権は日本に対して理不尽に風当たりが強いが、国と国で見れば戦争はあり得んだろ」
「『あり得ないなんてことはあり得ない』よ。これからは特に、気を抜いたら奈落が待っているから」
「そんなに厳しいのか?」
「ヨーロッパは、私が見た夢の通りに進んでいるから、このままだと酷い事になるのは確定ね。ただ、日本とその周り、それにアメリカの国内事情は随分違っているから、不確定要素が大きいのも確かなのよね」
「そしてそこに、明るい話はないのか?」
「紅龍先生のお薬のお陰で、助かる人の数は随分と増えるんじゃない」
「それは道理だな。先の世界大戦でも、肺炎など感染症、胃腸炎といったあたりで、下手をすれば直接の戦闘よりも多くの人が亡くなっている。……確かに、それで満足するべきなのかもな」
「……いつになく弱気ね。天才じゃないの?」
「もうそれは言うな。自称天才などというものは、何もなしていない未熟者の戯言だ。ましてや、玲子の答えと言える助言がなければ、私など何者でも無かったのだからな」
「運や機会を掴む事も才能だし、成功の条件よ。私はたまたま紅龍先生の近くにいただけ。私も、紅龍先生がいなきゃ、薬を作る機会すら無かったのよ」
「……そういう事にしておこう。いや、詮無きこと聞いてしまったな」
「どう致しまして。あ、そうだ」
「なんだ? まだあるのか?」
「ヨーロッパに行くなら、来年の夏までにしてね」
一旦緩んだ紅龍先生の表情が、その一言で厳しくなった。もともと三白眼だから、この表情をすると相変わらず凄く悪人面だ。
「今年は大丈夫なのだな」
「もうすぐヨーロッパで重要な会議があるけど、一応はそれ次第。けど、私の夢と違う結果になる要素が見当たらないから、多分戦争はまだ先よ」
「……そうか。では、紅輝を見せに、このクリスマスにでもスウェーデンに行くとしよう」
「うん。それが良いと思う。それと、スウェーデンは安全だから」
「スウェーデンは、19世紀から中立を貫いているからな。私もその点は心配していない。だが、良い事を聞いた」
そう言ってようやく笑みを見せたけど、何に対してなのかは聞かない事にした。




