626 「ズデーテン問題の発生」
1938年夏、歴史が激しく動き始めた。
大陸では日本とソ連の志願兵や軍事顧問団、義勇兵などという名目の軍隊同士が、主に揚子江中流域で空中戦を行うようになっていた。
一見、代理戦争の図式が直接の戦争へと移りつつあるように見える。
一方のヨーロッパでは、スペイン内戦が終幕に差し掛かっていた。既にソ連の志願兵が引き上げた人民戦線側が圧倒的に不利で、人民戦線最後の攻勢と見られていた。
つまりヨーロッパでは、一見平和が近づいてきたように見えていた。
一方で、ソ連の増長、共産主義の増長をこれ以上許してはいけないという考えもあるので、スペイン内戦はヨーロッパ世界的には良い方向に向かっていると言えた。
けどヨーロッパ世界の問題は、それだけじゃなかった。
チェコスロバキアの、ドイツ国境に接するズデーテン地方の問題だ。
問題にしているのは、ナチス政権下のドイツ。ドイツ住民が多いので俺様に寄越せという、ナチスお得意の恫喝外交だ。
5月の時は、チェコスロバキアが戦争も辞さない態度を見せたので一旦は引き下がった。けど、街のチンピラ並のメンタリティのナチス政権が、顔に泥を塗られた形で引き下がる筈もなかった。
その後もナチス政権は、チェコスロバキアに対する恫喝を繰り返した。しかもチェコの大統領が悪い、チェコのドイツ人の民族自決を認めないという、クズがよく使う論法で攻撃した。
ただ、ヒトラーの演説を文書などで見た限り確かに巧みだ。騙される奴が出ても不思議ない。この演説をライブで見たらコロッと騙されてしまうのだろうと、納得までさせられる。
けど私としては、ヨーロッパ世界の良識という名の恐れが言うように、世界大戦の危機じゃない。むしろここで、ナチス政権のドイツを打倒した方が良いと前世の歴史で知っている。
はっきり言って、ナチス政権を簡単に潰す最後のチャンスだ。
もっとも、公的な面で見れば、狂人の戯言、戦争狂いのたわ言、ソ連に利するので共産主義者の謀略のどれかだ。
百歩譲って文学的に表現しても、ギリシャ神話のカッサンドラのお話でしかない。
けど、神話の揶揄などクソ食らえと思っているから、以前から日本の政治家、アメリカの財界、イギリスでは唯一の大物の知り合いであるウィンストン・チャーチルなどを通じて、チェコの問題が起きてから色々と工作を開始してはいた。
ハーストさんを通じて、アメリカの世論にも訴えかけてもらったりもした。
「言いたいことは分かるがよう、それは無理筋だぜ」
「ですが、このままだと……」
目の前の、葉巻が似合うブルドックに強めの言葉を投げかけようとするけど、簡単に止められる。
「それも前に聞いた。だが日本としちゃあ、露助を後ろから押さえつけるドイツが無くなっちゃあ困ると考える者ばかりだ」
「ですから、それも……」
「それも聞いたって。わしも、可能性はあるとは思う。むしろ高いだろうとな」
「鳳龍也は、可能性が非常に高いと既に判断し、陸軍は内々ですがその方向で動いています」
「それでも、なんだよ」
挙句に、諭すような声色にまでなった。
吉田茂にこうまで言われては、私としては打つ手なしだ。
「……ハァ。やはりダメなのですね」
「分かってて、無理言わんでくれ。政治、しかも外交ってやつは、可能性以下の予想で動くわけにはいかん。備えたり覚悟したりが限界だ」
その言葉で、私と対面の吉田茂は共に高級ソファーに深々と沈み込んでしまう。場所は鳳ホテルの一室。お互い別目的で来て、こうしてこっそり会合している。
対面するのは吉田茂だけだけど、私は後ろにセバスチャンを、吉田茂の後ろには秘書という肩書きで白洲次郎がいた。前世の記憶で顔は覚えていなかったから、紹介されて内心かなり驚いた。
あとで調べたけど、吉田茂が軍縮会議などでロンドンに行っている時に知り合い、白州次郎が日本とイギリスをビジネスでよく行き来しているので便利がられているみたいだ。
私の前世の歴女知識だと、この時期は近衛文麿のブレーンの一人だった筈だけど、近衛文麿が隠居どころか世捨て人状態なのと、吉田茂が現役外務大臣な影響か、こうして吉田茂の秘書もしくはブレーンに収まっているらしかった。
私的には、この世界の吉田学校の一人といったところだ。
その白州次郎は、私達の様子を興味深げな視線を隠そうともせずに向けてきている。第一印象はイケオジで嫌いじゃない。けど、私が苦手なタイプだ。
「少しよろしいでしょうか?」
その白洲次郎が、洗練された英国風の仕草で問いかけてきた。吉田茂はそれを咎めない以上、そしてこの場に居合わせている以上、話を聞くしかない。
何せ呼びつけたのはこっちだ。
「お答えできる事でしたら。ただ、長話はお控え下さい。赤子の世話をしなくてはなりませんので」
「なに、大した質問ではありません。あなたは何がしたいのですか? 私も商人の端くれだから、利が見えなくて戸惑ってしまう。無駄と分かっていて、こんな茶番じみた事までする」
「足掻いているのです。そして足掻くのは、人の性であり権利だと常々思っています」
そんな私の返しに、「なるほど、なるほど」そう言って表面上だろうけど深く感心する。
けど、私が足掻くのは転生してからの基本だから、ある意味心からの声だ。理解されるとは思わないけど、これ以上言うつもりもない。
だけど、終わりじゃなかった。ひとしきり感心すると、「ピッ」と指を突きつけてくる。
「その足掻きに他者を巻き込もうとするのは何故? しかも、大戦争を唆しているに等しいとはお考えになりませんか?」
「私が唆す以上の大戦争が、遠くない将来起きるからです。吉田様からお聞きには?」
そう問えば、ゆっくりと首を横に振る。
それなら少し無礼な質問も納得はできる。
「殆ど聞いてはいない。が、あなた、いや鳳グループの動きを見ていれば、どこに向かおうとしているのか、何に備えているのかは見えてくる。そして、何かに怯えるようだとも思っていました。
吉田さんも断片的にしか教えてくれないのですが、何が起きるのですか? 知れば、それに向けて動けるというもの」
「話したところで、与太話、法螺、大嘘、狂言、その類でしかありませんよ」
「わしは信じとるよ。でなきゃあ、ここに足を運ぶわけなかろう。それに、この変わり者を連れても来ない」
たまらずと言った感じで、吉田茂が口を挟んできた。
この人には、私の前世の歴史、今まで捻じ曲げてきた事などは、外務大臣になってしばらくした頃に、粗方話してあった。
そして目の前の「変わり者」は、話してもいいくらい口の固い御仁らしい。
だから私は、小さく頷き返す。
「それでは、地獄の一丁目のご観光にようこそ、と申し上げましょうか?」
「一丁目で済むのですか?」
「今ならば。このまま事態が進めば、来年くらいにヨーロッパで先の世界大戦を上回る悲劇が始まるでしょう。そうなれば、数千万人が犠牲になり、多くの国の大地が荒廃します」
「極東は?」
「今のところ、私どもの昔の予測より穏やかに済みそうです」
「今のところ、ですか。何をされてきたのかについては、聞かぬが花でしょうね」
「お聞きになりますか? 墓まで持って頂く事になりますが」
「興味深いが止めておきましょう。今の吉田さんを見るだけで、ロクでもない事が想像できてしまいました」
「ご賢明かと。では、詳細についてはよろしいですか?」
「そうですね。今の言葉だけで、随分と見えたように思います。ですが、一つだけ。先ほどの話のようにナチス政権を列強が束になって潰せば、ソビエト連邦がヨーロッパでの安全が格段に向上する。そうなれば、極東、日本に向かって来るとしか考えられない。あなたは、日本を半ば犠牲にして、世界の地獄を一丁目で終わらせようとお考えなのですか?」
「場合によっては。その為の備えもしてきましたから」
(何年か前までは、アメリカに対して何とかする為だったけどねー)
「……なるほど。今までの鳳の動きが、そこに繋がるわけですね」
私の内心をよそに、白洲次郎が深く頷いた。揶揄したような言葉しか言ってないけど、取り敢えずだろうけど納得はしたみたいだ。
頭の良い人は、話が短く済んで助かる。
そして終わると、今度は飼い主が口を開く。どっちが飼い主か分からない面構えではあるけど。
「まあ、あとはわしが話しとくよ。だが白州君、これで君も巫女様の共犯者だ。本当に地獄まで付き合ってもらうぞ」
「日本をより良くする為なら、喜んでお供致しましょう。それで、今回の件はどうされるのでしょうか?」
「英仏が動くなら日本も歩調を合わせるという言葉は、手紙でチャーチル様にお伝えしております。ヨーロッパは遠すぎて、それ以上は難しいのが実情。だからこそ、吉田様に日本にもっと積極的に動いて頂こうかと考えたのですが」
「英仏が動くなら日本も、という点は前から了解しとるよ。で、ウィンストン卿は何と?」
「奮闘されていますが、」
「チェンバレンか」
「はい。宥和外交より、西欧諸国にとってドイツは赤いロシアの盾。おいそれと潰すわけにもいかないでしょう」
「だがソ連は、軍の大粛清でしばらく動けんだろう」
「ですが3年後はどうでしょう。5年後は?」
「ハァ。我が国が恐れるのも、その点だからなあ」
そんな吉田茂のため息の後にでた言葉が、多くを物語っていた。
日本にとっては、ドイツのやんちゃよりソ連の脅威なのだ。
そして私は、ヨーロッパ情勢は事実上傍観するしかないのを、改めて痛感させられた。
(チェコスロバキアからのユダヤ人の脱出を急がせないと)
出来る事と言えば、そのくらいでしかなかった。
ズデーテン問題:
1938年9月、ドイツがチェコスロバキアを恫喝して、ドイツ人が多数住むドイツ国境に接するチェコスロバキアのズデーテン地方を併合した問題。
白洲次郎 (しらす じろう):
特に連合国軍占領下の頃に、吉田茂の側近として活躍。
謎が多いと言われるが、逸話には事欠かない。
なお、実家の白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産しているので、この世界では多少は違う人生を歩んでいるかもしれない。




