621 「国境問題?(1)」
1938年も上半期が終わった。
この半年の私は、妊娠の後半から子育て開始で過ぎていった。そして三人チームな上に使用人達を大勢動員しても、子育ては大変だと思い知らされる毎日だ。
もう、子育てだけしていようかと思うほどだけど、散々世界と歴史を捻じ曲げてきた身としては、そうもいかない。
世界情勢の方は、表向きは小康状態って感じで過ぎていった。大陸での内戦も、戦闘と戦闘の間になったので大きな戦いは起きていない。
けど、私の前世の歴史と同じなら、後半から大きく動き始める。
その予兆のように、ドイツの野望はすでに動き出している。私の前世の歴史通り、秋には大きく動きそうだ。
日本の方は、日本が大陸で全面戦争をしていないので、日本列島はのんきに戦争特需に沸いているだけだった。
大きな内戦で危険だと、揚子江流域の在留邦人が上海に逃げたくらいだ。
そして上海の周辺は、南京を始めとして南部の杭州湾辺りも張作霖の支配領域となったので、急速に安定しつつある。
大規模な戦闘は今年中に終わり、あとは共産党との小規模なゲリラ戦がダラダラと続くだろうという予測が言われ始めていた。
これに対する日本人の一般的な感覚は、「戦争特需も今年いっぱいか」という小さな落胆でしかない。
一方で、私の懸念材料は別のところにあったけど、歴史を捻じ曲げた影響がある事が分かってきた。
「国境問題はない?」
「左様です、奥様」
私の仕事部屋でセバスチャンが、バリトン気味の声で恭しく答える。子育てローテーションがあるので、秘書のマイさんはいない。その代わり、側近達3人が秘書としている。
他はセバスチャンだけ。
時田、エドワードは別の仕事中。複数一緒の場合は余程の重要案件の時だけだ。貪狼司令も、私個人の時は私が押しかけない限りは話すことはない。
だから、双子ちゃんを産んでからは、こうして側近以外と話す機会がめっきり減っていた。
仕事でセバスチャンと話すのも、結構久しぶりだ。
もっともセバスチャンは、執事という役どころを利用して側にいることは増えていた。
私の結婚、妊娠、出産も我が事のように喜んで、毎度毎度涙まで流して喜んでいたし、この春からも基本ニッコニコだ。時田以上の喜びっぷりな感すらある。
私にその笑顔を受けるだけの価値があるのか、不安になりそうなほどだ。
ただし時田は、私の専属になる前は一族の他の者に仕えるか一族自体に仕えているので、立ち位置の違いとも言える。
立ち位置で言えば、来年親族に連なる予定のエドワードも、執事としてではなく身内として私達の事を喜んでくれていた。
そして喜んだりニッコニコでも、仕事は仕事。
こういうところはキッチリ分けてくるのが、セバスチャン達だった。
「ロシアもしくはソ連に優位ではあり、清朝の時代に始まり今の中華民国、満州臨時政府、そして関東軍に不満はありますが、一応問題はありません」
「一応ね。ロシアとモンゴルが仕掛けた小さな国境紛争は、数え切れないのに?」
「それも、関東軍の増強、満州軍、内蒙古軍の近代化と強化が進められた事で、1935年を境に減少傾向です」
「多少減っただけでしょう。あいつらは、こっちが隙を見せたら付け上がり、強気に出たら臆面もなく話し合おうとか言ってくる卑怯者なのに」
「はい、一応は。ですが満州地域は、満州臨時政府という自治政府の統治地域であり、中華民国領になります。奥様の夢に出てきた独立国家ではありません。
そしてソ連と中華民国との国境は、ロシアと清の時代に決められたものです。ですが中華民国政府は詳しい事を知らず、満州臨時政府もそのまま放置。日本政府並びに関東軍は、自治政府の領土なので詳細な調査も出来ず、また口出しする事も外交上難しい、という事になります」
「うん、そこは分かる。ていうか、私も今まで気にしてなかった。ごめんね。余計な事させて」
「とんでもありません。ですが、朝鮮半島とソ連の国境の間に、中華民国領が入り込んでいるとは、私も調べるまで存じませんでした。そしてこちらは、若干の問題があると考えられます。ですが、」
「モンゴルと満州臨時政府の間の国境問題は、特に問題なしという事か」
「はい。モンゴルと中華民国の間での取り決めが踏襲されております。国境係争地とはなり得ません」
「そっかー。まあ、紛争の火種が少ないのは良い事よね」
「はい。ですが、日本軍、特に関東軍の増強にソ連は警戒感を強めております。一方関東軍、というより日本陸軍は、さらなる駐留軍の増強に強気の姿勢を強めつつあります」
「関東軍の増強は、今の二箇所と関係ないのね?」
「満州北部は、依然として満州臨時政府軍の縄張りです。関東軍は、鉄道沿線と付属地に若干いるという形に変化ありません。3つの国境が入り組んでいる南東部の豆満江の辺りは、朝鮮は第19師団の守備範囲となりますが、係争地域になりうる場所に兵力は配置しておりません」
「けど、そっちは係争の可能性あり、か。海軍に頼み事しておいて良かった」
「はい。海が苦手なロシア人に対して、良い抑止力になるかと」
二人して悪い笑みを浮かべるけど、この時期の海軍は日本海で臨時演習をしていた。しかも、かなりの規模で。
日本が石油を沢山自力で手に入れるようになってから、日本海軍は燃料の不安から解放された。そして一番の敵はソビエト連邦なので、日本海で『演習』をする事が増えた。哨戒活動も活発になった。
そして日本海では、日本海軍の戦艦が頻繁にウロチョロするようになった。駆逐艦も、日本海をうろつく「不審なソ連潜水艦」を追い回している。
ちょうどいい「訓練相手」だそうだ。
これは、極東にたいした海軍を置いていないソ連にとって、すごく鬱陶しい筈だ。さらに独裁者スターリンは、日本海軍を恐れていると言われているので、日本海での訓練や演習には鳳から石油の献納をしている事すらあった。
鳳は満州に大油田を抱えるので、政治的な安定性を引き上げる為という名目だ。
そして今回も、いつもより重油を沢山献納するから、7月頭から休憩を挟んで8月にかけて、なるべく多くの戦力で、なるべく朝鮮半島北部に近い場所で訓練か演習をして欲しい、と以前から海軍にお願いしておいた。
私の前世の歴史で、確かこの年の夏にソ連との国境紛争があった筈だからだ。
そしたら海軍は、政府と国民への点数稼ぎをしたかったらしく、二つ返事でこれを引き受けてくれた。
そして舞鶴を中心にかなりの数の艦艇を集めて、大規模な演習を計画した。ただここで、航空母艦と航空隊を多く出したいという事なので、水島コンビナートの最新技術で精製が開始されたばかりの、ハイオクガソリンを『お試し品』で渡しておいた。
今までは、高いものでオクタン価92だったらしいけど、今度のは96だそうだ。数字が大きいほどハイオクなわけだけど、水島コンビナートでの触媒を使用した精製で、日本の航空機用ガソリンは欧米に匹敵するか越える程の質に引き上げられたのだそうだ。
私としては、技術的、専門的な事は上っ面しか分からないけど、結果が伴っているならノープロブレムだ。
けど、ノープロブレムじゃないのがソ連だった。
6月くらいから日本海軍が騒がしくなり、訓練と称して戦艦や空母を中核とした大艦隊が日本海に出張ってきたからだ。
しかも日本列島沿岸ではなく、日本海のど真ん中か朝鮮半島寄りの場所。何を意図しているのか、明白すぎた。
さらに日本列島からは、最新鋭の攻撃機が多数飛び立ち、日本海上空を我が物顔で飛び回った。
川西の大型飛行艇も、合わせて飛んでいたそうだ。
なお、ソ連が極東に配備する海軍部隊は潜水艦が多いので、空から押さえつける実験的な訓練で、敵役に自前の潜水艦もかなりの数が出動していたと後で聞いた。
当然だけど、日本艦隊にソ連の潜水艦が近づくと、演習のお相手を強制的にしてもらったそうだ。
そして、戦艦は砲撃、空母は発着艦、各種航空機は模擬空戦と爆撃、水雷戦隊は対潜水艦訓練、そんな感じで派手に演習を7月頭から開始していた。
「海軍はそれでいいとして、満州の陸軍と極東ソ連軍って、今どんな感じなの? やっぱり、相変わらずソ連の圧倒的優勢?」
「以前に比べると、日本陸軍に優位です。ただし、日本陸軍は『九五式重戦車』の存在を未だに過小にしか情報を出しておらず、抑止力としてあまり効果を発揮していないのではという分析もあります」
「あの野砲を積んだ、頭の大きな戦車ね」
「はい。本年度からは、昨年開発された改良型の生産も始まっております」
「資料にあったやつか。もう、配備しているの?」
「いえ。改良型は早くても秋くらいからかと。本年度の戦車などの増産についても同様です」
「つまり、今何か起きたら、現有戦力で頑張るしかないのか」
「そうなります。ですが、極東ソ連軍は動かないと分析が出ています」
「その為に、海軍にも動いてもらったわけだしね」
「はい。ただ、日ソの戦力比は微妙と言わざるを得ませんな」
「日本も相当増強するって話だけど、ソ連はそれ以上なのよね?」
「はい。約1年前、日本が新たな増強計画を始めるまで、極東のソ連軍は日本陸軍の換算で16個師団相当ありました」
そこで挙手。たまに龍也叔父様も同じ「師団相当」という表現を使うけど、ソ連以外でこの表現を使うのは、たまに大陸の「師」に対して使うくらい。
そして、私が目を通した数字と全然違うので、何かしら基準があるのだろうと思っていた。
国境問題はない?:
1938年夏の「張鼓峰事件」と1939年春から夏にかけての「ノモンハン事件」の原因。
戦略的にはどうでもいい場所での大規模な国境紛争。
一方の張鼓峰は以前から問題あったけど、ノモンハンの方は満州国が出来て関東軍(日本政府)が強気に出て国境を線引きした事で問題が発生した。
つまりこの世界では、ノモンハン事件の原因は一応ない。
ハイオクガソリン:
史実の第二次世界大戦中の日本軍は、輸入で備蓄した少量の100で動くやつもあったが、通常は95〜92、87〜85に合わせてエンジンが作られている。
意外だが、ドイツ空軍もオクタン価は87だったそうだ。
アメリカ軍がオクタン価100のガソリンを湯水のように使うのは、相当のチートと言える。
ちなみに、今の自動車のハイオクガソリンはオクタン価96。レギュラーで89以上。
最新鋭の攻撃機:
「九六式陸上攻撃機」(もしくは、これに相当する機体)。日中戦争、太平洋戦争序盤で活躍。




