620 「日本の自動車事情」
道路の舗装は、日本の大きなネックの一つだ。
何せ1930年頃だと、主要幹線道路の0・5%くらいしかなかった。資料を見てびっくりだ。
大動脈のはずの東海道、もとい国道1号も、江戸時代と大差ない程だった。舗装道路といえば、東京や大阪のような大都市の一部にあるだけ。もしくはところどころに見られる石畳の道だ。
それに対して欧米先進国は、既に3割から4割は舗装されている。これを日本は、10年弱かけて我武者羅にアスファルト舗装してきたわけだけど、まだ2割にも達していない。
「そういえば、熱心にしてたわね。うちも献金とか資材と機材の提供もしたものね。それで、色々あって、日本の自動車は随分増えたのよね」
「数字の資料くらい見とるだろうに。まあ、増えに増えて、ガソリンスタンド屋を作る速度も追いついとらん。鳳は、自動車中心に資材調達、工作機械の生産から、ガソリン販売そして道路作りに至るまで大忙しだ」
「商売繁盛で結構な事じゃない。この調子で、もっともっと伸びて欲しいわね」
「まったくだな」
お互い陽性の笑顔で笑い合う。
ただ、景気の良い話と虎三郎は最初に言ったので、全部が上向きの話だけじゃない。その辺は、私も理解している。
何せ自動車Fランの国が、懸命に駆け上がっているのが今の状態。10年後なら違ってくるかもしれないけど、多少鉄が沢山作れるようになっても、消費を気にせず石油を使えるようになっても、まだまだ足りないものだらけだ。
正直、あと10年、いや5年欲しい。
「それで、自動車の面で他国と日本の差って、今どれくらい?」
「相変わらず、聞かんでも良い事を聞いてくるな。……単純にいえば、自動車保有台数は1938年4月段階で、乗用車32万台。3分の1は鳳。残りの大半が外車だ。
トラックは30万台。生産の一部は軍に納品しとるから、これも入れるともう一割くらい増える。それとバスが約3万台。合わせて60万台の後半。これにオート三輪が、総数15万台ってとこだな。この10年で、日本も随分と車が増えたもんだ」
「他国と比べたら、どんな感じ?」
そう言いつつ、今の日本は1年で数字が大きく違ってくるので、それも加味しつつ虎三郎の言葉を待つ。
最新の数字は、このところ第一線を離れていたので新鮮な情報になるから、雑談混じりとはいえ真剣にならざるを得ない。
「アメリカは言わんぞ。虚しくなるからな。そうだなあ、大雑把な数字でいえば、英仏がそれぞれ200万台、ドイツが100万台、日本はその下だ」
「おっ、イタリアは超えたの?」
「超えている。ただ人口当たりだと、確かまだ微妙に負けていた筈だ。それとソ連はもっと少ない」
「そっかー」と相槌を打ちつつも、イタリアにまだ負けている事よりも、ソ連の情報が私にとっては重要だった。
いざという時、トラックの輸送力で日本がソ連に勝ると分かったからだ。
「まあ、気を落とすな。このまま景気が良ければ、ついでに大戦争でも起きなきゃあ、今年中にイタリアには人口当たりでも超える。
3年後なら、ドイツの背中は見えるだろう。もっとも、ドイツは年々えらい勢いで車を作っとるし、このイカした乗用車の大量生産と販売が始まっているだろうから、追いつくのは骨だろうがな」
「その車が無事に販売されれば、良いんだけどね。ところで、ついでに聞くけどオートバイってどうなってるの?」
「うちでは作っとらんからなあ。作りたいなら、金をくれ。趣味半分で研究はさせとるぞ」
「それは構わないけど、オート三輪の技術とだいたい同じなのよね」
「最初の頃のやつとはな。今のオート三輪は、半分くらい車みたいなもんだぞ。だが、本当にうちで作るのか?」
「産業用、家庭用の安価な奴が作れるならね。趣味のやつは、輸入で十分だし」
「まあ、そこは分からんでもないが、そういうのを作るとなると開発からだから、時間をもらわんとなあ」
「別に作らなくても構わないわよ。それに、どこかが作っていたでしょう」
「宮田と三共なんかが作っとるな。三共のやつは、元はアメリカのハーレーダビッドソンだが」
「普及台数は?」
「細かい数字は資料がないと分からんが、10万台もなかった筈だ」
「オート三輪より少ないのね」
「移動に使う以外だと、仕事で使う乗り物って感覚は日本人にはないからな」
「そうよね。あ、そうだ、3年ほど前に話した、原動機付自転車ってどうなっているの? あんまり話聞かないけど?」
「ん? ……ああ、あれか。うちでは玩具みたいなものを作って研究、開発はさせている。それと本田って奴を支援はしとるが、勉強不足を実感したとかで今は学校に通っとるよ」
どうやら本田宗一郎が覚醒しないと、歴史に残るオートバイは出現しなさそうだ。
「そうなのね。じゃあ、何か言ってきたら、最大限便宜を図ってあげてね」
「おう。あれは面白い奴だから、俺も気に入っている。玲子の夢の通り、大人物になるかもしれんぞ」
「是非そうあって欲しいわね。……雑談で聞くレベルだと、こんなもんかなあ」
雑談にしては色々と話した気がするので、軽く背伸びをしつつ返事をする。そうすると、虎三郎が少し不思議な表情を浮かべる。
「てっきり、次は重機と戦車の話かと思ってたが、いいのか?」
「そうねー、ついでだから最新情報ってやつを、かいつまんでよろしくー」
「やる気がないなら話さんぞ」
「はいはい、聞きます。あ、みっちゃん」
「はい、奥様」。名前を呼ぶと、控えていたみっちゃんが近づいて、お茶のおかわりと茶菓子の追加を机に乗せてくれる。最近は随分と落ち着き、少しシズに似てきた気がする。
そんなみっちゃんが運んだカップに一口付けると、虎三郎の話が再開した。
「重機の方は、未だに需要に供給が追いついてない。小松も神戸製鋼も、事業拡大、人員増強の毎日だ。三菱あたりも、似た感じらしい」
「輸入は?」
「キャタピラーなんかから、専門的なやつを多少は。ただ、数の上だと最初に大量輸入したやつ以外は、今は全部国産だ。単なる牽引用のトラクターも農業用もな」
「牽引用は陸軍に納入しているやつ?」
「そうだ。重い大砲を全部トラクターで運ぶとかで、随分発注があるぞ」
「農業用は?」
「トラクターみたいなデカイのは、内地では北海道か東北の一部くらいでしか、大量には使っとらんよ。それに内地は、耕運機とかの小さいのが主力だ。
満州の大規模経営には、アメリカ製を真似たデカイのが動いとるが、満州向けは一応輸出になるしな。収穫に使うコンバインも似たようなもんで、北海道以外だと満州で使っとる。だからアメリカのコピーじゃなくて、日本の事情にあったやつを自主開発する羽目になった」
「そうね。それで、この流れで戦車の話?」
「新型だ。去年から開発しとるやつだな」
ちょっと嬉しそうだから、技術的には凄いのを作っているという事はそれだけで分かった。
「開発が難航しているって聞いてはいるから、まだ形になってないと思ってたけど、違うの?」
「違わん。陸軍が相変わらず気の小さい注文付けてくるから、喧嘩を何回もした」
「注文通り作ってあげたら? いや、龍也叔父様はなんて?」
「先を見越した、発達余裕のある車体は欲しいとよ。上に載せる砲塔と大砲は出来れば大きい方がいいが、今回は試作止まりだろうと」
「やっぱり龍也叔父様は先が見えているわね。だったらそれで良いんじゃないの?」
「玲子、お前がそれを言うのか? 龍也に買わせたデカイ大砲積むんじゃないのか? こっちは苦労して開発中なのに、つれないこと言うなよな」
「あー、なんかごめん。そこまで考えてたんだ。大砲って、前にスウェーデンで龍也叔父様が買ってきたやつよね」
「そうだ。取り敢えずは75mm高射砲だ。ただ、あれを載せるとなると、諸々込みで30トン程度の重量になる。それに値段もかなり高い。だから陸軍は、今の『九五式重戦車』に載せている大砲の対戦車砲型を開発しているから、それを載せろと言ってきている」
「対戦車砲型? 何か違うの?」
「簡単に言えば、今載せてるやつは紐を引っ張って発射する普通の大砲だ。対戦車砲型は、銃みたいに引き金を引く。だから撃ち手が狙いを付けやすい。それと、大砲の反動を吸収する駐退復座機の設計を改めて、なるべく装甲の中に納めるようにするそうだ」
「なるほどね。けどあれも75mmでしょ。弱いの?」
「弱くはない。だが今後を考えれば、威力の高い方が良いに決まっているだろ」
技術者だから、当然とばかりの言葉。私も思わず頷き返してしまう。
「良いものがあるなら、そっちよね。けど高いんだ」
「高い。しかも大砲がデカイから、砲塔もデカくなる。使う装甲板も多くなる。そんな感じで、値段が膨れ上がる。さらに言えば、車体もかなり大きくなる。そしてそこら中に装甲を付けるから重くなる。ただ、今の足回りじゃあ、ちょっと不安がある」
「え? 何? 問題だらけ?」
「重い車体を作って結論できたんだが、クリスティーもどきの足回り、あれは速度を出す為の作りで軽戦車向きだ。重い戦車には向いとらん。重いやつは、違う足回りの方がいい。車体の中の空間も随分と取るし、履帯も外れやすい。良いところもあるが、それなりに欠点もある」
「えーっと、じゃあ足回りから作り直し?」
「試作に近いから、今回はそのままだな。むしろ問題を炙り出す為にも、足回りはクリスティーもどきを使う。並行して陸軍や三菱とも相談して、正式版は別の足回りになるだろう」
「そうなるとお金がかかるのか」
「まあ、そういう事だな」
「了解。それじゃあお金は出すから、二種類載せる大砲のやつと合わせて、色々作ってみて。あ、けど、それはそれで手間?」
「手間といえば手間だが、金が出るならそれでいきたい。他にもしたい事があるから、その分も出してくれるか?」
「良いものが出来るなら、幾らでもどうぞ。うちは今、儲かっているからね。列強の度肝を抜いてあげて」
「ああ、承った。やっぱり玲子に話して正解だな」
そう言って破顔したけど、続きを話したがったのは、開発費が欲しかったからのようだ。
けれども、日本の戦争相手はドイツかソ連になるだろうから、私としては幾らでも強い戦車を作って欲しいので、気にはならなかった。
合わせて60万台の後半:
資料により統計数字にかなりの誤差があるが、概ね史実の3倍から4倍の数。オート三輪も3倍くらい。
この世界では、1941年まで戦争がないと仮定すれば、平時状態で毎年最大で17万台から20万台ずつ増える。
仮に1941年12月までとすれば、120万台くらいまで増える計算になる。
宮田:
宮田製作所。今のモリタ宮田工業。
史実では、1933〜39年にオートバイを約4万台生産。
日本の総保有数は、1930年で2万台程度。トラックより数が少なかった。
三共はアメリカのやつ:
三共は、今の第一三共。戦前の一時期は多角経営に乗り出して色々輸入。その中にバイクもあった。
その後、国産を開始。1933年に「陸王」が誕生する。
1935年には、バイク生産を専門に行う三共内燃機という子会社も設立された。
本田:
本田宗一郎。1937年から3年間は浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)機械科の聴講生をしていた。
戦車の話:
早ければ『九九式中戦車』になりそう。
クリスティー式の足回り、大馬力ガソリンエンジン、大きめのシャーシ、史実の三式戦車か四式戦車の車体と砲塔、そして大きな火砲という組み合わせになるので、技術面では史実の4、5年の前倒し状態。
なお、クリスティー式+三式or四式という組み合わせだと、佐藤大輔作『RSBC』に出てくる『一式中戦車改』と似た感じになってしまう。
あれは速度を出す為の作りで軽戦車用:
クリスティー式は重い戦車には向いていない。ソ連、イギリスの戦車も重量級になると採用しなくなる。
「Tー34戦車」も本命の足回りが間に合わないので、クリスティー式が採用されて戦争に間に合わせた形になるらしい。




