619 「国民車」
「虎三郎、最近よく来るわね」
「やっと一息つけたからな」
赤ちゃん達を見にきたお爺ちゃん顔の虎三郎が、満足げに言葉を返す。
そしてそう話し合うのは、7月頭の私の仕事部屋。今は誰もいないので、部屋の中の接客席に二人で腰掛ける。この部屋なのは、私は赤ちゃん達に何かあれば、助っ人ですぐに駆けつける為だ。
「確か新工場だっけ?」
「拡張だな。トラック、自動車、重機。忙しかった奴らには、今長期休暇を出した。戻ってきたら次の工場だ」
「次は?」
「播磨造船の新規ドック、長野の精機工場、工作機械工場、俺の直轄のエンジン工場、それに製鉄所と製油所、北陸のアルミ精錬所、東北の食品工場、とにかく幾らでもある。ここまで忙しいのは、32年以来だな。しかも規模がさらに膨れ上がっている。とても俺一人じゃあ追いきれんから、部下が全部やって俺はそれを眺めているだけだがな」
「うっ、ごめんなさい」
「謝るな。作るのは、なんでも楽しいぞ。それにだ」
「それに?」
「これだけしても、アメリカはまだまだ遠い。やっと西欧列強のケツに食らいついたぐらいだ。日本は、まだまだこれからだ」
もう還暦を超えたのに、元気一杯な技術オヤジだ。しかも初孫がいっぺんに三人も増えたので、このところ機嫌も上々だ。
そんな虎三郎の手に、幾つかの書類が握られている。
「頼もしい限りね。その書類も新しい工場の何か?」
「ああ、これか。見るか? 面白いぞ」
どうやら趣味の範疇だったらしい。瞳が子供に戻っている。けど断る理由もないし、手を差し出す。
そして手にした書類に視線を向けたけど、すぐに止まってしまった。
「……これ、ドイツ語よね。私、ドイツ語は会話はともかく読み書きはあんまりなのよねえ。なんなの?」
挿絵や図面でもあればいいけど、文字だけではいまいち分からない。何かの新製品の発表っぽい。
さらに印刷の粗さから、電送だと察しがつく。普通は遠距離の写真を送るときに使うものを、紙面に使わせたという事になる。
ただ資料は他にもあり、何枚かパラパラとめくると電報をまとめて打ち直したもの。電送された写真もあった。そして写真で何か気がついた。
そして最初の紙面の表題も何か察しがついた。
そこには『KdF-Wagen』と書かれている。
「何と言いつつ、もう気づいとるじゃないか。別に構わんが。ドイツで新型乗用車の発表があったんだよ。開発とか計画は前々から発表してたから、知っとるだろ」
「うん。ワーゲンよね」
「ワーゲンは単に車って意味だぞ。KdFワーゲンだ。まあ、名前なんかどうでもいいが、面白い車だ。いや、先進的って言葉が相応しいな!」
技術の事だから、めっちゃ楽しそう。
こういう時は、聞いてあげるのが一番だ。それに今の虎三郎は、私にとって大叔父ではなく双子ちゃんのお爺ちゃんだ。
「どう先進的なの? 素人に分かるようにお願いね」
「ああ。簡単に言えば、乗用車は普通前にエンジンがついとるが、こいつは尻に入っとる」
「バスみたいね」
「そうだな。バスも同じだ。だがこいつは小型の乗用車だ。それに開発が難航したというだけあって、シャーシもボディもエンジンも全部面白いし先進的だ」
「うん。全然分からない」
「別に分からんでもいい。だが、エンジンは液冷じゃなくて空冷だから、今の日本に合っとると思うぞ。エンジンだけでも欲しいくらいだ」
「無茶言わない」
「そう言わず、買ってくれ、玲子!」
目的がこれだったらしく、久々に拝まれてしまった。
けど、見た紙面は発表であって販売じゃない。それに私は、多少の歴女知識でぼんやりと知っていた。
ワーゲンとかビートルとか呼ばれたこの乗用車は、戦争の後にしか販売されない事を。
けど、そこまで教える必要もないから、手をヒラヒラと振る。
「まだ売ってないんでしょう。それじゃあ、流石に買えないわよ」
「玲子なら、手があるだろ。裏から手を回してでも欲しい!」
「経営者が違法な事を大声で言わないで。それと、うちとドイツは仲が悪いから、裏で大金積んでも多分無理よ」
「そう言えばそうか。人種差別なんざしなくても、こんな凄いもん開発できるのに、ドイツ人ってのは惜しい連中だよなあ」
「ドイツの精密機械、工作機械も凄いわよね。けど、物と心は別よ、別」
「そういう小難しいのは、俺には関係ない。アメリカにもない技術だから、興味があるだけだ」
「そうなんだ。さすが自動車大国ね」
「え?」
「え?」
思わず虎三郎と見つめ合う。認識に大きな誤差があったらしい。そしてこれは、私が間違っているパターンっぽいので、機先を制する事にした。
「違うの? 陛下の御料車もドイツのメルセデスだし、ドイツって工業大国でしょう」
「まあ、それは合っとる。だがドイツは『ばけ学』の方の化学大国だな。自動車大国はアメリカだ。他の国は、言っちゃあ悪いが雑魚だ、雑魚」
「アメリカは別格でしょう」
私の印象的にも、自動車AAAランクがアメリカ。他は、英仏独がAランク、イタリア、ソ連、カナダが2つ飛ばしてD、インドがE、そして1930年くらいまでの日本がFランだ。
虎三郎も私の言葉に軽く頷いた。
「格が違うのは確かだな。アメリカの生産数、保有台数は、二番手、三番手の英仏の10倍かそれ以上。世界全体の7割か8割がアメリカだ」
「ドイツは四番手だったっけ?」
「英仏の倍くらいの差があるがな。ただしここ数年は、フォードとGMがドイツに工場作ったのもあって、随分追い上げてはいる。もっとも、人口当たりの自動車台数で見れば、ドイツは英仏に3倍くらいの差を開けられとるぞ。英仏の方が、国の熟成度は先を進んどるからな」
「そういえば、前の大戦までのドイツは、英仏を追いかける側だものね」
「そういう事だな。だからアウトバーンなんて高速道路で舗装道路を国の肝いりで増やして、今回の小型乗用車の普及という手を使うわけだ。これがアメリカなら、道も車も資本主義の原理ってやつだけで勝手に広まる。そこが今のドイツの限界なんだろうな」
そう、良い感じに話を締める。ワーゲンが欲しい、エンジンが欲しいわがまま言うけど、シビアな目もちゃんと持っているのが虎三郎だ。
そして半ばついでだけど、我が国の現状も気になってきた。
「今の日本はどんな感じ? 鳳って、凄い市場占有率よね。まずくはないの?」
そう聞いたら、やっぱり少し渋い顔になった。
鳳グループが強引に牽引しているのは、自然な状態とは言い難いのは私も十分に理解しているので、専門家から見れば余計そう見えるのだろう。
「良くはない。……だがまあ、こんな雑談で愚痴や文句言っても始まらん。景気の良い話だけしてやろう。あとは、現場に戻ってから資料でも見るんだな」
「うん、ありがとう」
「孫達に愚痴られでもしたら、たまらんからな」
「流石にそれはしないわよ。それで、景気の良い話は?」
「日吉のトラック工場は、今年中に2倍の拡張を終える。通常の生産で年産10万台。3交代24時間操業体制にすれば、12万台はいくだろう。ただそれをしたら、急には体制を整えられない下請けが死ぬがな。しかも周辺は、うちの下請け工場だらけだ」
「藤沢の工場も、各地の重機工場も拡張したのよね」
「そうだ。藤沢の乗用車工場は、去年の段階で社屋を機械とラインを埋め尽くして、5万台生産の体制に入った。だが一昨年もそうだが、去年はそれでも足りんかった。だからフォードとGMのノックダウン生産に、フル操業を許してしまった。おかげでヘンリーとの賭けが、去年は俺の負けだ」
「聞いた聞いた。それで拡張したのよね」
ヘンリーとの賭けとは、虎三郎のもと雇い主だったヘンリー・フォードと、鳳の乗用車がフォード、GMの日本での売り上げを減らせるかどうかという賭けだ。
「した。土地も買った。工場の建物は取り敢えず3倍にしてある。据える機械は生産が間に合わんので、取り敢えず夏までに5割り増し。来年中には建物を全部埋め尽くして、最大15万台生産できるように整える」
「凄い鼻息ね。市場と他社は?」
「日産がダットサンを5000台。1万台に増やしたいらしいが、あそこは満州進出に人と金を取られて、内地では大きく動けない。その代わりトヨタさんが頑張って、去年フォード式の工場を立ち上げた。
他は政府が潰したから、あとはフォードとGMだな。うち以外の国産が6000、輸入が5万。国内市場自体は10万台以上だ。それに総研が、去年買えなかった購買層だけで5万人はいると弾き出しとる」
「ここ数年の好景気は加熱してたものね」
「戦争特需で加熱は続いとるだろ。今年も販売所は大忙しだぞ。あとトラックや重機だが、満州や大陸からの受注はともかく、欧州向けは断ったが良かったのか?」
「欧州向けというより、ドイツでしょう。重機とトラックを運搬するカーフェリーごと欲しいって、こっちの言い値で買うってやつ。けどドイツは、フォードがオペルの工場作ってたし、劣等人種の車なんてお呼びじゃないでしょう」
「そうだが、そんなにドイツが嫌いか? 商売だろ?」
「人種差別するような国とは、最低限のお付き合い以上する気はありません」
「そっか。まあ、俺も色々とあの国のやる事は気に入らんから、玲子がいいなら構わんよ。あ、それとだ、乗用車の普及が予想以上だったのは、景気もそうだが政府が道を舗装して回っとるからだそうだ」
道路の舗装は、日本の大きなネックの一つだ。
フォルクスワーゲン:
フォルクスワーゲン・タイプ1。
ナチス政権がドイツの国民車として、フェルディナント・ポルシェによって開発された。
ただし生産開始は戦後。戦争中は軍用のキューベルワーゲンに化けた。
トヨタ:
元はトヨダだったが、1936年9月にトヨタに変更。
トヨタ自動車は現在の豊田市に工場を作り、「AA型乗用車」と「GA型トラック」を生産開始。
ただし、戦前にフォード式の生産ラインを取り入れたのは日産だけ。




